何もしないことによってつくりだされる変化〜 身体意識と動き – 身体を響かせる

3月8日(木)は、ロルファーの田畑浩良さんとの対談です。

「ロルファー・Tのロルフィング対話 in 代官山 vol.04」ということで、古武術の甲野善紀先生、ヒモトレの小関先生、NYの小林健先生、吉本ばななさんと、まざまな方との対談をされている中で、今回、呼んでいただきました。

●田畑さんからロルフィングを受ける

田畑さんは、僕にロルフィングをしてくださった方です。田畑さんからロルフィングを受けたのは、たぶんもう10年以上も前になるでしょう。

田畑さんからロルフィングを受ける前、右半身が痺れてしまい、舞台に支障をきたすようになっていました。オリンピック選手を診ているという整体の先生のところに行ったり、脳神経外科に行ったり(はじめてMRIを撮った)、そのほかいろいろしたのですが、なかなか原因がわからなかった。

結局、頚椎が神経を押しているのが原因ではないかということで、「これは手術しかない」と言われました。首の手術です。失敗したら下半身不随のおそれもある。友人の臨床心理士などは、「まあ、そうなったら心のケアは俺がしてやるよ」なんて言っていました(笑)。

師匠に相談したら、手術はやめておけ、我慢しろということ。しかし、それはキツイ。

そこで、ロルフィングのことを思い出しました。

80年代、僕は西海岸文化が好きで、いろいろ調べていたときに知った施術でした。90年のはじめ頃、Rolf Instituteだったかエサレンだったか忘れましたが、「ロルフィングを勉強したい」と尋ねたら、「解剖学・生理学を大学で修めた人しかダメだ」と言われて、それ以来、忘れていました。

日本でロルフィングの資格を持っている人がいるとは思わなかったのですが、それでも藁をもつかむ気持ちでインターネットで調べてみると何人かのロルファー(ロルフィングの施術者)がいることがわかりました。

でも、実は怪しい人が多かった(笑)。

僕は、スピリチュアル系の人には近づかないことにしているのですが、当時のロルファーはそういう人が多かったですね。

あ、一応言っておきますと、僕はスピリチュアル全般が嫌いだというわけではなく、「スピリチュアルが好き!」という人には、逃避系の系の人やメンヘラ系の人が多いので(そういう人も嫌いではないのですが)、近づかないようにしているのです。

で、田畑さんからは全然、そうい匂いがなかった。

そこで、田畑さんに連絡をして通い始めました。

正直いって、そこから先の事はあまりよく覚えていません。ロルフィングでしびれが治ったと言う自覚は全くありませんでした。でも、気がついたらしびれがなくなっていた。

師匠を始め、周りの人から「しびれはどうした」と聞かれて、はじめてしびれがなくなっていたことに気づいたのです。

●何もしないロルフィングと何もしないワキ(能)

田畑さんだけでなく、ロルフィングと言うのはクライアントの主訴を基本、無視します。たとえば「腰が痛い」とか、「肩が凝っている」とか、そういう訴えを無視する。ただ、すべきことを淡々とします。そのうち、ひょっとしたら主訴の症状は治るかもしれないし、治らないかもしれない。それがロルフィングなのですが、その「主訴完全無視」の究極のロルファーが田畑さんなのです。

さて、それから僕もロルフィングを学んだのですが、その話は今回はパス。

田畑さんからロルフィングを受けて、10年以上経ったのですが、友人でも田畑さんからロルフィングを受けたと言う人がたくさんいます。

いま超多忙を極めている玉川奈々福さんなどは、田畑さんのおかげで過酷な日々を乗り切れているといます。しかし、ロルフィングを受けているときには、何をされているのか全然わからなかったと(笑)。田畑さんはロルフィングの間、ほとんど何もしないと言うのです。

僕がロルフィングを受けたときには、まだ少しはしてくれていたように記憶をしていますが、田畑さんのロルフィングは「何もしない」という方向に進化をしている。

さて、今回の対談のテーマは、これです。

何もしないことによって変化を生み出す。それがテーマです。

●あわいのワキも何もしない

僕は、能のワキ方に属しています。

ワキ方というのは、脇役という意味ではありません。ワキとは「分く」、すなわち2つの物の「分け目」、「境界」をいます。

能のシテ(主人公)はこの世の存在ではないものが多い。例えば幽霊、例えば神、あるいは精霊。ふだん私たちが死んでいる、「この世」とは違うところに住んでいる存在です。ですから普通の人はそういうモノに会うことができません。しかし、ワキはそういうモノに会うことができる。

会うことができるだけでなく、そういうモノの存在を、自身を通して観客に見せることもできる。それがワキです。

ワキというのは、この世に住みながら、あの世ともつながることができる。すなわちこのふたつの境界、すなわち「あわい」に住まいする者、それがワキです。

ちょっと細かいことを言うと、「間」と「あわい」はちがいます。

「間(あいだ)」と言うのは物と物の(それこそ)間をいいいます。それに対して「あわい」と言うのは「会う」が語源の語で、あるものとあるものとの重なり部分、そこを「あわい」というのです。ワキは、このあわいに住んでいます。

間あいだ

あわい


さて、あの世の存在である幽霊がこの世に現れるのは、この世に執心があるからです。解決できずに死んでしまった「思い」、未完の思いがあります。

それを晴らしにやって来るのですが、悩みや思いは深すぎると、自分でもそれをうまく表現することができない。いや、表現どころか、自分がどんな悩みがあるのか、どんな思いがあるのかを認識することすらできない。

ワキのするのは「問う」という行為によって、それを明確にすることです。

しかし、ワキの「問い」は最低限の問いです。それも思いや悩みとは関係ない問い。たとえば「ここはどこですか」とか「その歌を歌ったのは誰ですか」とか、そんなどうでもいい問い。

しかし、その問いがきっかけとなり、シテは自分の思いを語り始め、やがて舞い始める。

そうしたら、あとはワキは何もしない。いや、正確にいえば、それは正しくない。

全身全霊をこめて「何もしない」ということを「する」のです。

●「誠」も何もしないで変化を起こす

僕は東京を中心に「寺子屋」をしているのですが、いま『中庸』を読んでいます。儒教を学ぶ人の必読書である「四書五経」の四書の中の一冊です。

『中庸』の後半のテーマは「誠」です。「誠」の力を中庸では…

「勉めずして中たり、思わずして得、従容として道に中たる」

…と書きます。

努力をせずともぴたりと符合し、あれこれ考えなくても何でもゲットでき、そして自然にしていても「道(タオ)」にも合致している。それが「誠」の力です。

新渡戸稲造は、それを「動かずして変化を作り、無為にして目的を達成する力」といいます。

そして、「誠」に達した人(至誠)は、自分は何もしなくても、その人の持っている本来の力を十全に引き出すことができると『中庸』にあります。

それはまさに田畑さんのロルフィングであり、そして能のワキの機能でもあります。

田畑さんは「誠」のロルファーなのです。

3月8日には、そんなことを田畑さんとお話しながら、なんと田畑さんのワークもあるとか!すごいっ!

すごく楽しみです。

詳しくはこちらで→「晴れたら空に豆まいて」

平川克美さんの『21世紀楕円幻想論』を巡る対談

2018年3月初旬には、おふたりとの対談があります。

最初は3月6日(火)にミシマ社さんから『21世紀楕円幻想論』を出された平川克美さん、そして8日(金)にはロルファーの田畑浩良さん。ともにとても楽しみなので、その話を書こうと思います。

まずは6日(火)の平川克美さんとの対談から。

平川さんには隣町珈琲(荏原中延)での講座でお世話になっています(隣町珈琲は平川さんがオーナーです)。去年は『論語』をし、今年は『古事記』をしています。去年の『論語』の講座は、春秋社から『あわいの時代の『論語』: ヒューマン2.0』として書籍化され、いまお話している『古事記』も書籍化の話があります。

講座には、平川さんも何度も顔を出してくださり、ご挨拶やちょっとしたお話はさせていただいているのですが、ちゃんとお話をするのは今度の対談がはじめてです。

今回は『21世紀楕円幻想論(ミシマ社)』(平川さん著)を巡っての対談です。

楕円幻想論


その日暮らしの哲学」という副題が付けられている本書は…

一年前に、会社を一つ畳んだ。

…という書き出しからはじまる「まえがき」が巻頭に置かれます。続いて、それによって全財産を失ったこと、そして同じ時期に肺がんの手術で右肺の三分の一を失ったことという、下手をすると暗渠に引きずり込まれて、読者までもが暗闇の濁流にのみ込まれそうな話題を、たとえば「臓器移植の悪魔のセールスマンも、無い肺は売れない(言い過ぎですね)」という具合になんともあっけらかんと書く。

そして、「贈与は奴隷をつくり、鞭が犬をつくる」という、お礼をいわれることを拒否するエスキモーの狩人の話やら、平川さんご自身のご尊父介護の話やらから「全体給付のシステム」と「等価交換システム」について、さまざまに語られるのですが、これがとてもわかりやすくて、めっぽう面白い。

●等価交換

僕たちのふだんの経済活動は「等価交換システム」です。

たとえば何か商品を買うと、それに見合ったお金を支払う。等価の「商品」と「貨幣」が「交換」されます。当たり前ですね。

マーケティングの黎明期に、アメリカン・マーケティング・アソシエーションがマーケティングの定義を毎年、変えていた時期があって(って今は知らないのですが)、基本は「マーケティングは『交換』である」というのがあり、まずは…

商品と「貨幣」との交換

…と言っていたのですが、経済社会が変わると、やがて…

サービスと「貨幣」との交換

…になり、それが…

知識と「貨幣」との交換

…などなどいろいろ変化するのですが、でも「交換」「貨幣」は変化しない。

まあ、これも当たり前といえば当たり前。でも、よく考えると何か変ですよね。少なくとも、自分の肌感覚からすると、「あれ、ちょっと変…」と感じてしまいます。

なぜ「貨幣」と「交換」は固定しているのか。

特にF.コトラーが『非営利組織のマーケティング戦略』なんか書いちゃうと、教会も学校も「貨幣」との「交換」の場だと認識されてしまう。でも、「交換」ではないものもたくさんある。

たとえば僕は寺子屋をやっていて、それは「お賽銭形式」なのですが、これがよく誤解されます。東京以外で、主催してくださる方が「素晴らしいと思ったらたくさん入れてください」なんて言われます。いわゆる「投げ銭形式」ですね。でもそれは全然違う。

「投げ銭形式」は僕の話と貨幣との「交換」になります。しかし、交換をするためには、そこには評価が入る。僕は評価される気は毛頭ないし、自分の講義と貨幣との交換だなんてまったく思っていない。

今回、平川さんや田畑さんと対談をするのですが、それは出講料がいくらだから出るのではなく、相手が平川さんや田畑さんだから出る。交換なんかでは、全然ないのです。

●等価交換

だいたい「等価交換」だなんて、本当は誰も考えていないでしょ。

たとえば僕が、あるものを2,000円で買うとする。そのとき、心の中では「これ、2,000円にしては安いなぁ。ほんとは2,500円の価値があるぞ」なんて思っているわけです。

逆に売る方からすれば「本当は1,500円の価値しかないけど、2,000円で売れた。500円、儲けたわ」と思っている(これはダマしているのではなく、それが利潤になります)。

…で、みんな心のどこかでとなると、「等価交換」なんてないと知っているし、そんなもの、なくて当然だと思っている。本当に「等価交換」なんてしていたら、(少なくとも会社の方は)税理士さんからも公認会計士さんからも税務署からも叱られてしまうのです。

●全体給付のシステム

そんなわけで、僕はこの世の中には「等価交換」なんてありはしないと思っているので、基本的に経済活動を信じていないし、だからというわけでもないのですが「非・交換」的な行動をよくしています。

まあ、そこら辺は対談でいろいろお話をしますが、しかしなぜ自分がそれをするのか、あるいはそれをする意味がうまく説明できなかった。周りからは「バカなんじゃないの」と言われたり、そんな目で見られたりする。

あるいは、「あんなにしてもらったのにお礼も言わないで失礼な奴だ」と言われたりもする。

または「それによって、本当は何かを得られるからするんでしょ」なんて言われたりする。

論理的な思考は、あまり得意ではないので、「本当は何かを得られるんでしょ」なんてことを言われ続けていると「そうか。自分は何を得ているんだろう」なんて考えてしまう。あるいは「自分はアホなんやな」なんて思ってしまう。でも、やっぱり違うと思っていた。でもでも、答えが見つからなかった。

が、平川さんの本で、それは「全体給付のシステム」にのっとる活動で、実はそれはそれでアリ…どころかなかなかいい手だということを知ったのです。

…と、いろいろ書いていくと当日、話すことがなくなってしまうので、そろそろやめますが、この本の副題「その日暮らしの哲学」は、まさに僕の生き方そのもので、そして60歳を過ぎた今の目標として「その日の暮らしにも困りつつも優雅に生きる生き方」を目指しています。

そんなわけで、平川さんとの対談はとても、とても楽しみなのです。

この対談で、お金持ちには(絶対に)なれないけれども、いろいろなことがスッキリして、なんか身が軽くなるのではないかと思っています。

あ、そうそう。「楕円幻想論」とは何かは、どうぞ本をお読みになるか、あるいは当日をお楽しみに〜。

まだお申込みでない方は、ぜひお早目に!

*****記*****

2018年3月6日(火)19:00〜20:30(開場 18:30〜)
@青山ブックセンター 本店 大教室
料金 1,350円(税込)
お問合せ先
電話:03-5485-5511 受付時間:10:00〜22:00

詳しくはこちらで→

「古事記から探る日本人の古層」隣町珈琲

隣町珈琲さんで「古事記から探る日本人の古層」というタイトルで全5回の講座をします。

第一回目は2月28日(水)です。※でも、もう満席のようですが。

全5回がどんな流れになるかは、いつものように見えないところもあるのですが、こんなところから話しはじめて、こんなことをお話ししたいということを書いておきますね。

●まずは用字法から
最初にお話したいのは、「ちょっと変だなぁ」と思う『古事記』の用字法についてです。

あ、「用字法なんて難しそうだからヤダ」といって引かないでくださいね。まずは、文字を疑う、それが古い時代のものを読む基本です。

文字を持たなかった古代の日本人は『古事記』のような神話(本当は神話って言い方は間違いなのですが)を口から口へと伝えて来ました。それを『古事記』という本にしようとするときに、はじめて文字にした。

「文字を知らない人」が話したことを、「文字を知っている人」が文字にした。

まあ、当たり前ですね。「だから何?」っていう人もいるでしょう。

でも、これってアンフェアじゃないですか。

だって、「文字を知らない人」は、自分がしゃべったことを文字にされたときに、そのチェックができないんですよ。もう、かわいそうで、かわいそうで、涙が出ちゃいます。

僕たちも、海外でお話をするときなどは通訳の方がついてくれるのですが、英語だとちょっとはわかるので、「え、それ違うんだけど」ということがたまにあります(たとえば節をメロディ、拍子をリズム、間をポーズなどと訳されたりするとね…)。でも、その言語自体を知らないと、それが正しいのか間違っているのかもわからない。もう全面的に信頼するしかない。

あったでしょ。偉い人の演説で、めちゃくちゃな手話をされたって話。それだってわからなければ、わからないんです。

神話を伝えていた人たちも、そうだったんじゃないかと思うのです。

今でも新聞などからインタビューをされて、それが紙面に出たときに「え、こんなこと言った覚えがない」ということがよくあります。彼らはそれすらもできなかった可能性があります。ね、アンフェアでしょ。

かりに相手が「じゃあ、書いたように読んでみるから、これで正しいかどうか聞いてね」と言ってくれたとしても問題は残ります。

まず文字はすべてを写し取ることができない(これは話していくと際限がなくなるので、これ以上踏み込みません)。

そして、これが大切なのですが、文字を知らないということは、少なくともその用字法が正しいかどうかはチェックができないのです。

●ちょっと変だぜ、『古事記』の用字法
で、『古事記』の用字法の中には「それはないだろう」というのがいくつかあります。

まず、ひとつは「黄泉(よみ)」。

「よみ」は、死者の行く国として『古事記』に登場しますが、「よもつひらさか」という言葉もある通り、本来は「ひら(平)」「さか(境)」。「平面上にある境界」という意味です(「ひら」には崖という意味もあるので、崖のようなところだったという説もあります)。

死者の国は、生者とは地続きの「なんかそこらへん」にあったのです。

しかし「黄泉」という漢字を当てはめてしまうと、それは突然、地下の冥界になってしまいます。なぜなら、「黄泉」という文字は『春秋左氏伝』という中国古典では「地下のトンネル」という意味で使われているからです。

むろん、当時の日本人のほとんどは、そんなことは知らなかったでしょう。しかし、この呪い(というのは言い過ぎです、はい)は、じわじわと日本人の中に浸み込んでいき、いつの間にか多くの日本人は死者の国は地下にあるように思ってしまっています。

これは『古事記』を文字化した太安万侶(おおのやすまろ)が、漢字の意味をよく知らなかったからとか、あるいは日本語をよく知らなかったからだ…ではなく、どうも深謀遠慮というか、なにか企みがあったんじゃないか、なんてことを妄想してしまうのです。

あ、『論語』の講座に出られた方はわかりますが、僕の話の80パーセントくらいは妄想ですので、学問的に正しいことは期待しないでくださいね。

●その他には

第一回目はそんなことをお話しますが、第二回目以降にはこんなことを話してみたいな、と思っていることを箇条書きで列挙してみますね(ただし、この順番で話すかどうかはわかりませんが、話すことも、話さないこともある可能性が大です)。

・性器の神話と機能の神話
男女を表すのに「性器」で表す神話(文字)と、「機能」で表す神話(文字)があります。古事記は性器の方。で、性器の神話では、女性の美醜があまり問題にされない。古事記では、それが問題にされるのは上巻の後半以降。前半ではむしろ男性の美醜が問題になる。美醜というのは、あるい意味、「商品化」のあらわれじゃないかと思うのです。その時代、どちらの美醜が重要だったかを考えると、男性が商品だったのか、女性が商品だったのか…が見えてくるかなぁ…なんてことを古事記とシュメール神話を読みながら考えます。

・女性の神話
上記と深く関連するのですが、古事記の中では女性の役割が非常に大きい。これもシュメール神話や、古代中国の「婦好」の甲骨文なども参考にしながら読んでいきます。

・古代の戦い
世界中の神話が、その多くの描写を「戦い」に割いています。そして、その戦いぶりを見ると、その民族の戦い方がわかります。…ということで、古事記の中から戦闘場面を抽出して「戦記文学としての古事記」を読んでいきます。

・うんちの話
日本神話の特徴のひとつにトイレとうんちの頻出があります。スカトロジーでは全然ないのですが、うんちの話とトイレの話が多い。古事記の中から「うんち」話、「トイレ」話を抽出して、なぜ日本の神話にはうんちが多いのかを考えます。

・目の欲望
古事記の前半からは「欲望」の変遷を見ることができます。そして、そのキーとなるのが「目」です。純粋な欲求が、対象を必要にしない抽象的な欲望に変容していく過程は、「おっぱい」を欲しがる赤ちゃんが「名誉」や「地位」という形のない欲望を欲し、それによって苦しむようになる過程に似て、なかなか興味深い。

・祈りの発生
「祈り」という語は古事記の中にはありません。しかし、祈りの萌芽を見ることはできます。人はなぜ祈らなければならなくなったか。それを古事記の中から探りたい。

・発酵する神話
日本の最初のころに登場する神さまに「発酵の神さま」がいるほどに、日本神話は発酵の神話です。なんといっても「ぬかどこ」を持つ民族ですから。古事記の中から「発酵」に関連するエピソードを選び出して読んでいきます(って、これはちょっと今回は時間がないかな)。

・音楽と神話
ああ、これも今回は無理そうだな。土蜘蛛族を退治する音楽をはじめ、古事記の中の音楽もとても興味深いのです。

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というわけで、詳しくはこちで。ご受講、お待ちしております。

https://ameblo.jp/tonarimachicafe/

2017年末の『中庸』のテキスト

2017年末のテキスト PDFの上のバーに出る丸い「時計回りに回転」をクリックすると回転し、次のページを見ることができます。ダウンロードもできます。

内田樹×安田登『変調「日本の古典」講義』 おわりに

内田樹さんとの対談本が2017年12月1日に祥伝社さんから出ます。内田さんが「まえがき」を公開してくださったので、僕は「あとがき」を公開します。

内田さんの「まえがき」→http://blog.tatsuru.com/

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おわりに

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

「おわりに」の担当の安田登です。

内田樹さんが「はじめに」を書き、安田が「おわりに」を書くということになったのですが、もう書くべきことなどないほどに、とことん語り尽くしました。

……というのは、半分本当で、半分ウソです。

この本は、企画段階ではあっという間にできあがる予定でした。何度かの対談をし、それを書き起こしたものを、お互いちょいちょいっとチェックすればよかったはず。ところが、実際はそこからが大変でした。

最初に内田さんが手を入れてくださったのですが、それを読んだら、新しい話が入っていて、これがまためっぽう面白い。「それならば」と安田が手を入れて送れば、それを読んだ内田さんがまた手を入れ、それをまた読むと「おお、なるほど」と安田が手を入れ……なんてことを繰り返して、ネバー・エンディング往復書簡になっていってしまったのです。

このまま続けていくとどこに行ってしまうのかわからないし、なんといっても辞書のような分厚い本になりそうでした。そこで、「そろそろここら辺で一旦手打ちを」ということで、今回の上梓と相成りました。

そんなわけで、語り尽くしたといえば語り尽くした。けど「まだやっていいよ」と言われれば、まだまだできる。そんな本なのです。

内田樹さんとの対談が始まったのは、東日本大震災より前のことです。それから場所を変え、状況を変え何度か対談をしてきました。

凱風館の近くの中華料理屋さんのこともあれば、東京の寺子屋のこともありました。また、那須(栃木県)の二期俱楽部で毎年行なわれていた「山のシューレ」というテンポラリーな学校でのこともありました。

東京の寺子屋では、七〇名が限度のお寺に一〇〇人以上の方が集まってくださいました。しかも、夏。お寺には扇風機以外の冷房がないので、参加された方たちも僕たちも滝のような汗を流しながらのサウナ寺子屋でした。

その寺子屋は、内田さんと安田との『井筒』の謡から始まり、能の話をしたので第四章がそれに当たります。

二期俱楽部の「山のシューレ」では、まずは屋内で多くの方たちの前で話し、それから那須の自然に囲まれた中で、ふたりでお話をするという、開放的な状況での対談が行なわれました。二期俱楽部は、いまは残念ながらなくなってしまいましたが、「山のシューレ」は隣接するアートビオトープで再開の予定です。那須では主に『論語』について話したので第二章。

本書をお読みになられている方の中にも、寺子屋や「山のシューレ」に参加された方がいらっしゃると思います。本書をお読みになると、そのときの暑さや森の香りなどが思い起こされるでしょう。

「はじめに」で内田樹さんは、僕の『ブロードマッスル活性術』(BABジャパン出版局)を読んでくださったことを書かれていますが、これはびっくりです。『ブロードマッスル活性術』は、僕が書いた本の中では最も売れなかった本の一冊です。初版も少部数でしたが、一度も重版がかかっていない。この本のことを知っている方なんて、世の中にほとんどいないはずです。それなのに内田さんに読んでいただけていたなんて、本当に驚きですし、感激です。

そして、それを紹介してくださったのが、内田さんの奥様であることを「はじめに」に書かれています……と書いてみて、「内田さんの奥様」という言いようが、どうもしっくりこないので言い直します。「はじめに」にも書かれている通り、「内田さんの奥様」は能楽師(大倉流の小鼓方)で、当時、僕たちは一緒に箱根神社で子どもたちに稽古をつけていました。そのとき、僕は「なおこさん、なおこさん」と呼んでいたし、いまでもお会いすれば「なおこさん」なので、そのなおこさんが紹介してくださったようです。

僕のほうは、内田さんの本との最初の出会いは『死と身体―コミュニケーションの磁場(シリーズ ケアをひらく)』(医学書院)でした。

能の笛方の槻宅聡さんが「面白い本がある」と紹介してくださったのです。「面白い、面白い」と、ほぼすべてのページに線を引きながら、一週間くらいかけて読みました。でも、これが不思議で、読み終わったときに、この本にどんなことが書かれていたのかをまったく覚えていませんでした。

それは、この本に限ったことではありません。内田さんの本は読み終わったあと(少なくとも僕は)その内容を覚えていないことが多い。むろん覚えていることは多い。しかし、「この本は、こんな内容の本だった」と人に説明することができない。

それは、内田さんの本には「この本のテーマ」とか、そういうものがないからだと思うのです。ですから、本のタイトルもたいてい当てにならない。『街角のナントカ論』などと言いながら、ナントカの話はどこかにあるだけで、だいたいが全然違う話をしている(あ、これは極論です)。

しかし、これこそが正しい本のあり方だと僕は思うのです。

そもそも古典と呼ばれる書物のほとんどがそうです。『老子』に一貫したテーマはないし、『論語』の中の孔子の言動は矛盾だらけです。『源氏物語』などは途中から主人公が替わってしまうし、『伊勢物語』なんて誰が主人公かすらもわからない。

物語だけではありません。ソクラテスの言動(書いているのはプラトンですが)にも一致はないし、空海の著作にも途中からテーマがどこかに行ってしまったりしているものが多い。

また、かの『聖書』ですら一貫性はありません。

『新約聖書』は福音史家によって言っていることが全然違うし、『旧約聖書』だって、たとえば人の誕生だけを見ても、まったく違うふたつの話が載っている。「創世記」第一章では、神は男女を一緒に創造したと書いてあるのに、続く第二章では女性は「人から抜き取ったあばら骨」で造り上げられたとある。「どっちなんだよ」と、今なら校閲からチェックが入りそうな記述です。

しかし、それが古典であり、そしてそれこそが人間的な文章なのです。だって、僕たちには一貫性はないでしょ。さっきまではこう思っていたけど、今はまったく違う風に思っているなんてことはよくあります。

学校の先生だって、途中からどんどん主題から離れてどこかに行ってしまう先生の講義のほうが断然面白いし、何年、何十年経っても記憶に残っています。

学術書やビジネス書でもあるまいし、パラグラフ・ライティングで書かれた結論誘導型(あるいは洗脳型)の文章なんて読みたくない。

内田さんの本は、読んでいると自分の思考が刺激されて、途中から内田さんの本の内容ではなく、自分の思考に集中してくる。何度も本を閉じて、コーヒーなど飲みながら外を眺めつつ、ぼんやりと思索してしまう。そんな本が多い(あ、僕にとってはね)。

なんか内田さんの本の書評のようになってしまっていますが、実は僕もそんな本を書きたいと常々思っているので、いつも羨ましいなぁと思って眺めていたのです。

僕の場合はなかなかそのような本を書かせてもらえません。今まで書いた本の中では『あわいの力』(ミシマ社)と『能 650年続いた仕掛けとは』(新潮新書)くらいです。

なぜなら、僕がそんな本を書こうと思ったら、企画段階ではねられてしまうからです。編集者まではなんとか籠絡できても、企画会議で「この本は何を言いたい本なのか」「メインターゲットは誰なのか」なんてチェックリスト風な質問をされて、そんな本の企画はボツになるか、あるいは穏便な企画に変容してしまう。

今回は、内田さんのおかげでそんな本に仕上がりました。この本にテーマはありません。また、同じことでもあるページに書いてあることと、他のページに書いてあることでは矛盾していることもあります。それをあえてそのままにしました。

読者の皆さまには、この本から何かを学ぼうなどとはせずに、この本から発せられる何かをひとつの契機に、ぜひさまざまな思索や創造をしていただければと思っております。

まるで内田、安田とともに鼎談をしているかのように。

あわいの時代の論語(自著紹介)

2017年7月に春秋社より『あわいの時代の論語 ヒューマン2.0』を上梓しました。

その「はじめに」と「あとがき」を掲載しつつ、この本の紹介をします(これは小倉ヒラクさん@『発酵文化人類学』のマネです)。

「はじめに」には、各章の概略も書いてありますので、本書の内容もざっと知ることができます。


43650 あわいの時代の『論語』 装丁画像

表紙と各扉のイラストは中川学さんです。

最初に春秋社さんが書いてくれた内容説明を!
「君子」とはどんな人なのか?「仁」の境地に達するには?――
AI等の急速な進歩によって、3000年にも及んだ「心」の時代に大変革が訪れようとしている。かつてない激動の時代にこそ、文字が急速に発達した時期に書かれた孔子の『論語』が役に立つ! 究極の温故知新がここに!1

では、まず本書の「はじめに」を掲載します。
各章の概略もあって読んだ気になれます(笑)。

【はじめに】

いまからおよそ3,000年前(紀元前1,300年頃)。古代の中国では文字が誕生しました。

文字は「時間」を生み、「論理」を生み、そして「心」(という文字)も生みました。生まれたばかりの「心」の意味はいたってシンプル。すなわち、未来を変え、過去から学ぶ力、それが「心」でした。

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<(ちんちんみたいな)心という文字>

文字が生まれる前、そして「心」が生まれる前、私たち人類はみな「夢」の世界に生きていたのではないのでしょうか。夢の世界といってもファンタジーのような楽しいことばかりではありません。

怖い目にあっても、夢(悪夢)の中の選択肢は「逃げる」ことのみ。恐怖の対象に対して何とかしようと冷静に思索を巡らし、計画を立てるなどということは夢の中ではできません。ただただ逃げるだけです。これは夢だけでなく、小さな子どももそうです。

文字以前の世界、「心」以前の世界は、夢の中の世界と同じであり、無力の子どもの世界と同じでした。

文字の発明によって「心」と「時間」を手にいれた人間は、変えられないと思っていた未来や運命を変える力を手に入れました。恐怖の対象から、ただ逃げるだけでなく、それを何とかしようと計画を立て、実行に移すことができるようになりました。どうすることもできないと思われていた自然災害や猛獣たちの災いからも身を守ることができるようにもなったのです。これは大きな革命でした。

そこから「心の時代」が始まりました。

しかし、明るい未来を手に入れた人間は、未来に対する「不安」をも同時に手に入れてしまいました。また、過去から学ぶ力を手に入れた人間は、同時に過去に対する「後悔」も手に入れてしまったのです。

未来を変える力を、心の「作用」だとすれば、「不安」は心の「副作用」です。

その副作用に対する処方箋を私たちに与えてくれたのがお釈迦様であり、イエスであり、そして孔子です。みな、2,000年以上も前の方たちです。それなのに今に至るまで、このお三方を凌駕する人物が現れないのは、「心の時代」がまだ続いているからです。

しかし、近年の急激な時代の変化を肌で感じていると、「ひょっとしたら、文字や心の誕生前夜もこうだったのではなかったか」と思います。文字が生まれたばかりの頃の文字資料を読んでいると、いま私たちが直面している不安や期待に似たものを感じるのです。

本書では、心の時代のもっとも重要な書物のひとつである『論語』をガイドとして、文字の誕生前後の世界のありさまを読み解きながら、これからの世界がどう変わるのかも考えていきたいと思っています。

本書の内容は以下のようになっています。

【第一章 あわいの時代】
間あいだ
あわい
<「あいだ」と「あわい」。「あわい」は縁側的境界>

2045年に訪れるという予測がなされているシンギュラリティ(技術的特異点)を目前に、いま世界は大きく変わろうとしています。人工知能がすべての人間の脳の総量の機能を凌駕するというシンギュラリティが訪れたら人間はどうなってしまうのだろうか。そう心配する人も多いでしょう。

しかし、人類は過去に何度もシンギュラリティを経験して、今に至っています。その直近のシンギュラリティが今から三〇〇〇年(古代中国)〜五〇〇〇年(古代メソポタミア)前に訪れた「文字の発明」でした。この文字シンギュラリティによって、人類の中には「心」が生まれ、それに伴い「時間」や「論理」なども生まれたのです。

文字ができた直後に書かれたものの中には、文字以前の記憶が含まれているものも多くあります。この時代は、前・文字時代と文字時代との双方の記憶を含む時代なので、「あわいの時代」と呼ぶことにしましょう。

このあわいの時代の神話や文学、思想書などを読むことによって、古代の人々が文字シンギュラリティをどう迎え、そしてどのように対処したのかを私たちは知ることができ、さらにはこれから来るシンギュラリティをも予測することができるでしょう。

そして、あわいの時代の書籍の一冊が『論語』なのです。

【第二章 心の時代】
古代の言語で書かれたものを読むと、最初期の「心」は、耳、腹(内臓)、血流、性器、子宮などの身体語によって表現されています。
『論語』の中にも「心が腹部にあったとイメージされていた」ことを推測される文があります。食べ過ぎると、お腹が飽和状態になって心が使えなくなると孔子はいう。でも、そういうときにはバクチをするといいとも孔子は言います。

長谷雄草紙
<飽食の日にはバクチ(博奕=双六)がおすすめ>
『長谷雄草紙(永青文庫蔵)』
※書籍掲載にはちゃんと掲載料をお支払いしました。ここは無断です。許して〜。

本書でいう「心」は、私たちが現在考える「心」の機能とは少し違います。定義をすれば「時間を知り、未来を計画し、過去から学ぶ」ことができる能力です。「意志」や「自由意思」の一種といってもいいでしょう。それができたばかりの「心」の機能でした。

古代中国の殷(商)の時代、しばしば生贄にされるという運命を担わされていた一族がいました。羌族といいます。彼らはなぜ唯々諾々と生贄にされていたのか。彼らの運命を甲骨文から読むことにより、心の誕生前後の消息を知ることができます。

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<生贄の甲骨文。三人の羌族が生贄にされる>

また、文字と心の関係を確認するためにヘレンケラーとピダハン(アマゾンに住む人々)の例を紹介し、また日本でもほんの数十年前には「心」が希薄な人々が多かったことを芹沢光治良の小説から紹介します。

【第三章 君子】
孔子の理想像のひとつは「君子」でした。反対は「小人」。しかし、君子や小人がどのような人であるかは『論語』の中では定義がなされていません。
そこで、五経のひとつである『尚書』を読んでみると「小人」というのは「ふつうの人」の意であることがわかります。たとえば人からひどいことを言われたら、思わずムカつく、あるいは落ち込む。そのようにふつうに反応するのが小人(ふつうの人)であり、その反応が小人の反応、自動反応です。

それに対して「君子」とは何か。君子も、むろんそのような自動反応はします。しかし、それに一度ストップをかけて選択的に応答する。それが君子です。そして、これこそ「心」の機能のひとつであり、このように「心」を使おうと決めた人を君子というのです。

君子の「君(尹)」という語の語源は、身体的な欠落を持った人であるという説があります。精神的な欠落を持った人もそうです。

尹
<尹という文字>

身体的、精神的に欠落を持つからこそ、「ふつうの人(小人)」に先立って「心」を使う必要がありました。古代中国の聖人はみな身体的な欠落を持っていたことを紹介し、『聖書』からもその例を見てみてみます。

【第四章 礼と六芸−身体拡張装置としての「礼」】
孔子が提案した最高の理想像が「仁」です。本章(四章)から最終章(六章)までは「仁」について考えていきます。
孔子は「仁」という概念を提出することによって、文字シンギュラリティどころか、これから来るべきシンギュラリティ後の世界までをも予測することになりました。しかし、「仁」はきわめてつかみにくい。そこで本章では孔子の導きに従って、まずは「礼」を通じて「仁」にアプローチしていきます。

「礼」をはじめとする六芸(礼・楽・射・御・書・数)は、身体を拡張するための装置でした。来るべきシンギュラリティでいえばロボットやアンドロイドがその役割を果たします。

04-02戦車
<六芸の一つ「御」>

本章では、この六芸ひとつひとつを見ながら「仁」への道をゆっくりと歩んで行きます。本章は、扱うべき素材が六つもあるので、ちょっと長いです。読んでいるうちに疲れてしまうかもしれません。ここで読むのをやめてしまう人もいるかも知れない。

もし、読み進めながら「大変だな」、「長いなぁ」と思ったら、本章は飛ばして次章に進み、最後にもう一度戻ってきてください。本章を読んでいなくても次章以下を読み進めることには(あまり)支障がありません。

【第五章 知識−脳の外在化によって生まれた精神活動】
前章の「礼」が身体の拡張装置であり、それが来るべきシンギュラリティにおけるロボットやアンドロイドだとするならば、脳の外在化装置は「文字」であり、それは今でいえば人工知能(AI)のようなものであったといえます。

05-01
<シュメールの楔形文字>

文字によって脳を外在化させることによって、私たちの脳には余裕が生まれ、そこで「知」という精神活動が生まれました。

「知」とは過去や現在の知識から、誰もが考えつかなかったまったく新しい知見を得るという精神活動で、孔子はそれを「温故(而)知新」という言葉で表現しました。本章では、この「知」の過程を扱いますが、「切磋琢磨」についてもお話します。

【第六章 仁−ヒューマン2.0】
「仁」は君子とともに孔子にとってももっとも重要な概念のひとつでした。しかし、『論語』の中の「仁」の記述は逆説と矛盾に満ちています。孔子は仁について何を言いたいのか、またそもそも仁とは何なのか、『論語』の記述からだけでは全然わからないのです。

これは仁が知的に読まれることを拒否する概念であることを示すのではないか、ということで、本章では「仁」については細部にこだわらずに、自由に読んでみることにします。そういう意味では、本章のトーンは、ほかの章のトーンとちょっと違って戸惑う方もいるかも知れません。

孔子は「もし王者が出現しならば、ひと世代(三十年)後には、仁の世界が現れるだろう」という予言をしています。「王者」というのは『論語』の中ではここしか現れない言葉で、孔子以前の古典の中にもまったく現れない言葉です。

この王者というのは、ひょっとしたら顔淵のことではなかったか。顔淵は早世してしまいましたが、もし彼が長生きをしていれば、世界は「仁」の世界になったのではないか。

では、そもそも「仁」とは何なのか。

「仁」も孔子の時代にはない文字です。仁とは「人+二」、すなわちヒューマンver2.0(これは、ドミニク・チェンさん@『謎床』のアイデアです)、人と神をつなぐ、ニーチェの超人に近い概念だったのではないか

などという観点をベースに、殷の時代から神々がどう変容してきたのかも検討し、また天命についても考えます。

【付録 『大盂鼎』を読む】
『大盂鼎』という青銅器の銘文を読むことによって、私たちは古代中国において「論理」が生まれた瞬間に立ち会うことができます。『大盂鼎』の銘文を、論理の誕生を中心に読んでいきます。

★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
では、本書の「おわりに」を掲載します。

【おわりに】

付録の「『大盂鼎』を読む」の最後に、リニア(直線)とノンリニア(非・直線)の話を書きました。

文字そのものの持つ構造によって、リニアな世界に投げ込まれた古代中国の人たちは、『大盂鼎』においてリニア世界のひとつの成果である「論理」を獲得し、同時に過去や未来という「時間」や、それを知るための機能である「心」をも手にしました。

リニア世界は、心の世界でもあるのです。

私たちは、いまその世界にどっぷりつかっています。

が、しかし、論理も時間も心も、すべてリニア的思考によって作り出された、リニア世界の中で培われたもの、いわば幻影であるということを忘れてはならないでしょう。

時間がリニア(直線)に流れると思うのも私たちがリニア世界にいるからであり、悲しみや怒りが持続すると思っているのもリニア世界にいるからです。「いま泣いたカラスが、もう笑ろた」といわれるようにノンリニア世界に生きる幼児に感情の持続はないし、リニアな時間もありません。

しかし、魚に水が見えないように、私たちはよほど意識的にならなければリニア世界につかっているということにすら気づきません。

孔子は、リニア世界の外を見ようとし、そしてリニア世界から自由になろうとしたひとりでした。「君子」というアイデアによって、リニア的ツールを使いこなす方法を教えた孔子は、「仁」というまったく新しい人類の可能性を創造することによってリニア世界から自由になる道を示しましたのです。

リニアは私たちに有益であるとともに、感情の持続(いつまでも悲しい、苦しいなど)、不安、後悔などを生み出し、私たちを苦しめるものでもあります。

先年、マイクロソフトからホロレンズ(HoloLens)が出て、MR(複合現実)というアイデアが提示されました。むろん、まだまだ発展途上段階で、いまのホロレンズにはたくさんの問題がありますが、これが普及し、現実世界(と思っている世界)に、もうひとつの3D世界が出現し、そしてそれを皆が共有できれば、文字は今のような二次元である必要はなくなります。Z軸にも意味を持つ文字の創造が可能だし、そうなったときに文章もリニアである必要はなくなります。

また、図や表による思考も二次元の制約を受けません。(詳述している紙幅はありませんが)たとえば現代の民主主義や地政学的な限界、あるいはリストラなどの人間性を無視した方策は、二次元的思考が生み出したものです。

子どもの頃から三次元図形をZ軸からも眺めるのが当たり前になっていれば、3Dどころか4D、5D的思考ができるようになるでしょう。多変量を多変量のまま理解できるという、いまとはまったく違う思考ができるようになるはずです。

現代人にとっては当たり前のMRIなどによる病気の予測や天気予報などの「未来を見る」ということが、おそらくは古代人にとっては驚異であろうように、これからの子どもたちは、今の私たち現代人からすれば驚くべき「目」を持つことにもなるでしょう。

むろん、そのときには脳の機能や構造にも変化があるかもしれません。また、過去の文字シンギュラリティによって生み出された「時間」も「論理」も、そして「心」も新たなものによって上書きされるに違いありません。

これから数十年後、「昔の人は、時間が過去から未来に流れるものとだけ思っていたんだって」と笑われることになるかもしれません。

そうなったときのことを想像して、その視点でもう一度『論語』を読み直すと、また新たな発見があるかもしれません。

二〇一七 初夏

★★★★★★★★★★★★★★

7月(2017年)の京都

『あわいの時代の『論語』』 カバー
中川学画伯:画
『あわいの時代の『論語』ヒューマン2.0(安田登:春秋社)』7月下旬発売の表紙


〜7月の京都〜
7月は6日(木)、7日(金)、8日(土)と京都にお邪魔します。6日と7日には、どなたでもいらっしゃれる講座がございますので、どうぞお出ましください。

●まずは日程から(詳細は後掲)

6日(木):
 13時20分〜14時30分:京都市立芸術大学 日本伝統音楽研究センター 公開研究会
 19時〜21時:京都寺子屋(瑞泉寺)

7日(金)
 13時30分〜16時:京都市立芸術大学 日本伝統音楽研究センター 公開研究会

●京都寺子屋
 上掲の表紙を描かれた中川学師のお寺である瑞泉寺で『論語』の寺子屋を開催します。
 詳細は瑞泉寺さんのホームページをご覧ください。

●京都市立芸術大学 日本伝統音楽研究センター 公開研究会
能のワキについて、ワキの語りの実演とともにお話をします。また、「インターメディアとしての能」についてもお話をする予定ですが、これは京都寺子屋での『論語』ともかなり重なる内容になる予定です。

以下です(PDFの貼り付けができないのでワードをそのまま貼り付けました)。↓

******************

京都市立芸術大学日本伝統音楽研究センター

2017628

 

公開研究会―客員教授安田登氏をお迎えして

 

 梅雨のさなか、皆様方におかれましては、ご無理のないよう、健やかにお過ごしください。

 さて、4年目をむかえる日本伝統音楽研究センタープロジェクト研究「音曲面を中心とする能の演出の進化・多様化」。このたびは、本学の客員教授としてお招きしている安田登氏をお迎えし、公開研究会をおこなうはこびとなりました。詳細をご案内もうしあげます。

 

日時:平成2976日(木) 1320分―1430

   平成2977日(金) 13時30分―16

 

場所:京都市立芸術大学 日本伝統音楽研究センター 合同研究室1(新研究棟7階)                アクセス:http://www.kcua.ac.jp/access/

 

定員:50(事前申し込みはしておりません。直接会場にお越し下さい)

 

内容:

76日(木) 1320分―1430

公開研究会「ワキのかたり、ナレーション、音楽―安田登氏をおまねきして」

   ゲスト:安田登氏 (ワキ方のかたり実演つき)       司会:藤田隆則

 この日、伝音センターでは、所長サロン(安田登氏×時田アリソン 12時15分―13時、昼食をとりながら聞きましょう!)と、伝音セミナー(竹内直氏担当、14時40分―16時10分)の、二つのイベントがおこなわれます。その二つをつなぐ時間帯に、安田登氏を囲んで、オープントークの場、能の語りを聴く場をつくります。つづく伝音セミナーでは、竹内氏が「平家物語による群読 知盛をきく」をテーマにされます。オープントークがそのイントロになればと思います。


77日(金) 13時30分―16
公開研究会「ワキ、ナレーション、インターメディア」 

   ゲスト:安田登氏(かたりの実演つき)            司会:藤田隆則

 先日(615日)の日本伝統音楽センター公開講座「インターメディアとしての能」(スタンフォード大学との共同事業)をうけて、「能においてインターメディア」とは何かを問います。「インターメディア」そのものの展開および、それと能との関わり方の将来について、話し合う場とします。

 参加の資格など、制限はありません。ご関心のある方をお誘いください。伝統芸能のさまざまな可能性についてご興味お持ちの方、能楽師の枠をはるかにこえた知的領域で活動しておられる安田氏のお話をヒントに、伝統音楽・伝統芸能へのまなざしを深めてみませんか。



6日の「ワキのかたり、ナレーション、音楽」は、そのあとにある伝音セミナー(竹内直氏)「平家物語による群読 知盛をきく」のイントロですので、ワキの語りをひとつ聞いていただき、それを現代語にどのように応用するか、そして音楽との関わりについてお話をします。

7日の「ワキ、ナレーション、インターメディア」は、まずは先年、京都市立芸術大学日本伝統音楽研究センター主催で行われた「インターメディアとしての能―能《半蔀(はじとみ)》《小鍛冶(こかじ)》公開収録」についてお話をうかがおうと思っています。そして、それを承けて、ワキの語りと古代のさまざまな叙事詩の語りについてお話をし、さらにインターメディアとしての現在の能と、さらに新たな可能性を探って行きたいと思っています。こちらは、お話をうかがってから何を話すかを考えるので、当日まで白紙で参ります。

山のシューレ2017鼎談:「21世紀の第3の場所の行方」林 信行(ジャーナリスト) × ドミニク・チェン(情報学) × 安田登(能楽師)

「21世紀の第3の場所の行方」
2017年 6月3日(土)13:30 〜 15:00
鼎談:
林 信行(ジャーナリスト) × ドミニク・チェン(情報学) × 安田登(能楽師)

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今年の山のシューレでは、ジャーナリストの林信行さん、情報学者でオンラインコミュニティやゲームソフト開発者のドミニク・チェンさんと鼎談をします。

▼「心」の賞味期限切れ

気持ちのいい人間関係、楽しくてやりがいのある仕事。多くの人がそれを望んでいるのに、しかし毎日の生活はこれとはまったく反対。息がつまることが多い。

なぜだろう。

古代中国では約3,000年前に「心」という文字が生み出され、それから人は「心」に支配されるようになりました。「心」は、それまでは変えるなんて考えてもみなかった未来を変える能力である「夢」や「希望」を人に与え、過去からの遺産を引き継ぐ「智慧」を生み出し、人類の生存率を驚異的に高め、多種多様な文明文化をも創り出しました。

しかし、希望を生み出した未来は同時に「不安」を孕み、智慧を生み出した過去は「後悔」や「羞恥」をも私たちに与えました。

希望や智慧という心の「作用」と、不安や後悔という心の「副作用」は、長い間、バランスを取りながら共存していましたが、近年、その副作用の方が急速に力を増していることは私たちの実感するところです。

不機嫌な人々、不安な日々、なんとなくつまらない毎日。生存のための「心」のせいで、自らの命を絶つ人たちもふえています。

これはそろそろ、3,000年前に生まれた「心」の賞味期限切れを暗示しているのではないでしょうか。

▼新たな世界の予感

…などという話を、この10年ほどずっとして来ました。今回の鼎談では、それを最新のテクノロジーから検証できるのではないかと(個人的には)思っています。

10万円ほどのコンピュータに入っている程度の人工知能が、全人類の知能の総和を上回ると予測されるシンギュラリティは2045年にやってくるといわれています。そして、それに先んずる形で、2030年には人工知能がひとりの人間の知能を上回るときが来ると予測されています。そんなに遠くない未来です。

いや、それどころか、東京オリンピックの年である2020年に向けても大きな変化が予測されているのです。ほんと、もうすぐです。

ロボットやアンドロイドによって人々の仕事は奪われ、しかし人は不死にも近い寿命を手に入れる。VR、AR、MRのさらなる発達によって現実と仮想の区別はなくなり、まるで映画『マトリクス』のような世界が出現する。

そんな世界が、気がつけば目の前に迫っているのです。

「そんなバカなことがあるはずがない」

私たちは、そう思ってしまいます。確かにそんなことは起こらないかもしれない。しかし、あらゆる変化は水面下で徐々に蠢きながら、目に見える形としては突然出現します。これは歴史を見ればよくわかります。

▼那須の自然の中で未来を考える

林信行さんは、スティーブ・ジョブズが信頼していた数少ない日本人のひとりです。林さんからは、私たちの目には触れていないテクノロジーの現在と、これからの進歩の様子をお聞きできると思います。


また、MITメディアラボの伊藤穣一さんとも親しいドミニク・チェンさんからも、テクノロジーの現在をお聞きします。また、ドミニク・チェンさんは人間に優しいコンピューティング(ポジティブ・コンピューティング)や発酵の研究もされているので、そちらのお話も楽しみです。


私(安田)は、前のシンギュラリティである「文字と心の誕生」の話をしつつ、おふたりからいろいろとお話を引き出したいと思っています。

この手の議論は、「頭」の話題になりがちです。しかし、那須の自然の中で、そして二期倶楽部という快適な住環境の中で、もっと身体性に注目をした未来を考えたいと思っています。

建築を生み出したことによって、人が洞窟の中から出て来たように、いま私たちは新たな「場所」を探求する時期に来ているのかもしれません。

週末の那須の自然、贅沢な時間と空間の中で、ゆったりと考えてみたいと思います。

東京から新幹線で1時間。ぜひ、お出ましください。

会場|二期倶楽部:観季館小ホール
受付|観季館総合受付
料金|¥4,000(税込)


********************
日時|6月3日(土) 鼎談13:30 〜 15:00 
詳細・お申込みは、山のシューレ公式サイトから
********************

林信行|Nobuyuki HAYASHI(ジャーナリスト)
1967年、東京都生まれ。フリーのジャーナリスト、コンサルタント。ビジネスブレークスルー大学講師。ジェームズダイソン財団理事。グッドデザイン賞審査員。「iPhoneショック」など著書多数。日経産業新聞「スマートタイム」、ベネッセ総合教育研究所「SHIFT」など連載も多数。1990年頃からデジタルテクノロジーの最前線を取材し解説。技術ではなく生活者主導の未来のあり方について講演や企業でコンサルティングも行なっている。

ドミニク・チェン|Dominick CHEN
1981年生まれ。フランス国籍。博士(学際情報学)、2017年4月より早稲田大学文学学術院・准教授。メディアアートセンターNTT InterCommunication Center[ICC]研究員/キュレーターを経て、NPOコモンスフィア(クリエイティブ・コモンズ・ジャパン)理事/株式会社ディヴィデュアル共同創業者。2008年IPA未踏IT人材育成プログラム・スーパークリエイター認定。オンラインコミュニティやゲームソフト開発を行う。NHK NEWSWEB第四期ネットナビゲーター(2015年4月〜2016年3月)。2016年度グッドデザイン賞・審査員「技術と情報」フォーカスイシューディレクター。 
主な著書に『電脳のレリギオ』(NTT出版)、『インターネットを生命化する プロクロニズムの思想と実践』(青土社)、『フリーカルチャーをつくるためのガイドブック クリエイティブ・コモンズによる創造の循環』(フィルムアート社)等。訳書に『ウェルビーイングの設計論:人がよりよく生きるための情報技術』(BNN新社)『シンギュラリティ:人工知能から超知能まで』、『みんなのビッグデータ:リアリティマイニングから見える世界』(共にNTT出版)。

安田 登|Noboru YASUDA(能楽師)
1956年生まれ。下掛宝生流ワキ方能楽師。米国RolfInstitute公認ロルファー。能楽師として、東京を中心に舞台を勤めるほか、年に数度の海外公演も行い、また国内外の学校や市民講座、様々な学会などで能や能の身体技法得をテーマとしたワークショップを開いている。能、ロルフィング、身体技法、教育など幅広い分野で活動している。著書に『ワキから見る能世界』、『能に学ぶ身体技法』、『身体感覚で「論語」を読みなおす。』、『身体感覚で「芭蕉」を読みなおす。』『あわいの力』『本当はこんなに面白い「おくのほそ道」』など。

イナンナの冥界下り「古代編」「未来編」上演決定!

ブログの更新がしばらく滞っておりました。イナンナプロジェクト、次回公演の予定が決まりましたのでお知らせ申し上げます。

 

イナンナの冥界下り「古代編」+「未来編」

2017年6月23日(金)1815開場 1900開演

@セルリアンタワー能楽堂

 

です。3月に実は上演予定でしたが、キャストの都合で延期いたしました。

今回は、12月に能楽堂で上演した新バージョンをシェイプアップした形の「古代編」と、出演者を絞り込んで、非常にシンプルな形にした「未来編」とを、セットで上演いたします。

 

そして、いよいよ海外公演に、いままでさまざまな形で上演してきたうちの、どのバージョンをもっていくかを、この公演にて決め、準備を進めたいと思っております。

 

■ここで、この「イナンナの冥界下り」のおさらいをば。

これは、紀元前3500年ごろに起こった世界最古の都市文明、古代メソポタミアのシュメール文明、そこで語られ、楔形文字で記録された、現存する最古の神話のひとつです。

いったい、どういう神話なのか。ざっくりとお話しましょう。

(1)天と地を統べる女神イナンナは、唯一自分の手の及んでいない冥界に、7つの「メ(神力)」を身につけて向かった。

(2)イナンナの突然の来訪に怒った冥界の女王エレシュキガルは、イナンナの「メ(神力)」をすべて剥ぎ取って裸にし、冥界の釘にぶら下げた(地上は暗黒の冬世界となる)。

(3)大神エンキが差し向けたクルガラ、ガラトゥルの力によってイナンナは甦り、地上にも春が戻った。

 

■今回の上演の特徴

今回の上演は「古代編」と「未来編」の同時上演という初めての試みです。

「古代編」は、前回に御覧いただいたバージョンを短縮して上演します。「未来編」は、出演者をギリギリまで削り、能以上にシンプルな形での上演になります。

「イナンナの冥界下り」は、文字ができたばかりの頃の神話です。文字は「時間」を生み、「心」を生み、「論理」を生み、「道徳」を生み、「貧富」を生み、「男中心社会」を生み、それまでの世界を一変させました。それは人類にとって、ひとつのシンギュラリティ(特異点)でした。いま、世界はAI革命による新たなシンギュラリティを迎えつつあります。そのときに世界はどうなるのか、その予兆を感じさせるような上演にしたいと思っています。しかし、詞章(セリフ)は古代のものをそのまま(かなりカットしますが)使います。

 未来編のイナンナ役は、アムステルダムを中心に世界中で活躍されているダンサー、湯浅永麻さん。さいたまトリエンナーレでの「HOME(向井山朋子:演出)」を御覧になられた方も多いでしょう。

 未来編の音楽は能の笛(能管)と能の太鼓のみ。いままでとは全く違う舞台です。

 

■この舞台は発展途上です

「イナンナの冥界下り」はアーツカウンシル東京の助成を受け、イナンナプロジェクトとして2015年から3年計画で上演しています。2017年には欧州ツアーも予定しており、シュメールの遺物をもっとも多く収蔵するイギリスの大英博物館などでの上演を目指しています。

 

●協賛のお願い

公演のみならず、関連するワークショップを多数開催するなど幅広く活動し、その成果をウェブサイト等を通じて公開しています。長期にわたる活動を継続するため、みなさまのご支援をお願い申し上げます。

支援金振込先

三菱東京UFJ銀行 恵比寿支店 (普)0838943 テンライ

お振込みいただいた場合は、member@inana.tokyo.jp  までご一報ください。

 

【古代編】約1時間15

■出演者

女神イナンナ         奥津健太郎(能楽師狂言方)

女神イナンナの声       辻康介(バリトン)

冥界の女王エレシュキガル   杉澤陽子(能楽師シテ方)

冥界の女王エレシュキガルの声 安田登(能楽師ワキ方)

大臣ニンシュブル       Junko☆(実験道場ダンサー)

冥界の門番ネティ       蛇澤多計彦(実験道場ダンサー)

大臣ニンシュブルおよび冥界の門番ネティの声ほか 玉川奈々福(浪曲師)

クルガラ           奥津健一郎(子方)

ガラトゥル          笹目美煕(子方)

冥界の裁判官         我妻良樹(実験道場ダンサー)

冥界の裁判官         城ノ脇隆太(実験道場ダンサー)

冥界の裁判官         蛇澤圭佑(実験道場ダンサー)

冥界の裁判官         平田雅大(実験道場ダンサー)

ほか、コロス出演

音楽     槻宅聡(能楽師笛方)、大川典良(能楽師太鼓方)ヲノサトル(音楽家・DJ

監修・翻訳          高井啓介(大学教員・シュメール語講師)

〜〜〜休憩〜〜〜

【未来編】約1時間

女神イナンナ         湯浅永麻(ダンサー)

冥界の女王エレシュキガル   杉澤陽子(能楽師シテ方)

語りほか 安田登(能楽師ワキ方) 奥津健太郎(能楽師狂言方) 玉川奈々福(浪曲師)

音楽   槻宅聡(能楽師笛方) 大川典良(能楽師太鼓方)

 

■日時 623日(金)1815分開場 19時開演

■場所 セルリアンタワー能楽堂(渋谷駅より徒歩5分)

■料金 正面席6,500円、脇正面席5,500円、中正面席4,500

(てんらい会員は1,000円引き 指定ご希望の方は1,000円にて承ります)

■予約 てんらい事務局 event@inana.tokyo.jp 080-5520-11339時〜20時)

 

2月後半から3月の対談など

2月後半から3月の対談(寺子屋を含む)などのお知らせをします。おのおのの詳細は後半に。

 ●2月27日(月)ペッパー君開発の最前線を担う蓮実一隆さんとの対談
「進化の途上にある人類 人とロボット・AIの共進化」
CPV地球大学(企画・司会;竹村真一)
@大手町パレスホテル隣のJXビル1F(3x3ラボ・サロン) 19時〜 無料

●3月1日(水)のう、じょぎ、ろう!第2回
@すみだトリフォニーホール 小ホール 19時〜 3,000円

●3月2日(木)寺子屋 映画『沈黙』を語る
若松英輔さんをお招きして
@東江寺 19時〜 お賽銭

●3月7日(火)『疲れない体をつくる「和」の身体作法』トークショー
@八重洲ブックセンター 19時〜 書籍を購入された方

*****************

2月27日(月)19時〜
ペッパー君開発の最前線を担う蓮実一隆さんとの対談

場所:大手門タワー・JXビル(皇居大手門前)1F「3×3Lab Future」
参加費:無料 お申し込みは以下のホームページから
「進化の途上にある人類−−−人とロボット・AIの共進化」CPV地球大学(企画・司会;竹村真一)
人工知能AIが人間の知性を超えるとされる「シンギュラリティ」(2045年)。それを待たずとも、AIやロボットはすでに急速にあらゆる産業や生活の場面に浸透し始めており、医療診断や法務などの高度な知的専門職も含めて人間の仕事を代替しようとしています。

このように、ともすれば「対立構造」(脅威)として捉えられがちなAI・ロボットですが、本当に大切なのはいかに人間と創造的な「共生関係」を構築しうるか?というパートナーシップのデザインではないでしょうか?

身のまわりの生活空間がユビキタスなAI環境となり、人間の人口よりも多くのロボットが棲息する近未来の世界。人間や動植物と(脅威や暴力とならずに)共生・共進化しうるAI・ロボットのあり方とは?そうした「共感力」を持ったパートナーの心とからだの設計思想とは?

ソフトバンクで“ペッパー君”開発の最前線を担う蓮実一隆氏と、能楽師として日本人の身体性、現代人の「心」と言葉のあり方を根源から追求する安田登氏をお迎えして、AI・ロボットと共進化する人類の未来を展望します。

3月1日(水)19時〜
のう、じょぎ、ろう!第2回

場所:すみだトリフォニーホール 小ホール  参加費3,000円
のう、じょぎ、ろう!第2回
曲目
能 『道成寺』語り ほか
女義太夫 『傾城阿波の鳴門』十郎兵衛住家の段
浪曲 「仙台の鬼夫婦」
出演者による座談会

出演
能:安田登[謡]、槻宅聡[笛]
女義太夫:竹本越孝[浄瑠璃]、鶴澤寛也[三味線]
浪曲:玉川奈々福[浪曲]、沢村豊子[曲師]

3月2日(木)寺子屋 映画『沈黙』を語る
若松英輔さんをお招きして
東江寺(広尾) 東京都渋谷区広尾5-1-21
受講料:お賽銭(お賽銭箱にご自由にお入れいただきます)
飛込歓迎ですが、お決まりの方は info@watowa.net へ。
いま上映中の映画『沈黙(遠藤周作原作)』について若松英輔さんにお話いただきます。いわゆる「映画評論」ではない、魂のお話がうかがえると思います。

●3月7日(火)『疲れない体をつくる「和」の身体作法』トークショー
場所:八重洲ブックセンター 19時〜 無料
お申し込みはこちらからお願いします→八重洲ブックセンター
「能」の動きは脳と体に効く!なぜ、能楽師は高齢でも現役でいられるのか? 600年前に完成された日本の伝統芸能「能」と、アメリカで開発された最新のボディワーク「ロルフィング」に見つけた共通性とは?
日本で数少ない米国Rolf Institute公認ロルファーの著者が、誰にもできる「和」の身体運用を、カンタンなエクササイズにしてご提案。
今回の講演会では、著者が体感した「能」の驚くべき魅力について、体の使い方を中心にお話しいただきます。
能に学ぶ「和」の身体運用のお話しとともに、その場でできる簡単なエクササイズもご紹介します。
※サインは会場でお買い上げの書籍に限らせていただきます。

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