寺子屋

明日は寺子屋です

メルマガに登録されている方には出しましたが、明日は寺子屋です。

受講料はお賽銭ですので、どなたでもお気軽にお出ましください。

以下、メルマガの内容です。

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●7月の寺子屋

●新刊出ました

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こんにちは、安田です。

Twitterではお知らせしていましたが、7月の寺子屋が決まりました。第1回目は何
と明日でした。ぎりぎりですが、どうぞお出ましください。

●7月の寺子屋

7月の寺子屋ですが以下の通り開催いたします。

日時:7月6日(火)19:00〜
   7月21日(水)19:00〜
・場所:東江寺(東京都渋谷区広尾)
【参加費:お賽銭】

前々回から「君子と小人」についてやっています。前回は金文を読むだけで終わって
しまったので、明日も「君子と小人」の続きをします。

参加ご希望の方は、お手数ですがメールをいただければと存じます。

info@watowa.net

★このメールに対する返信がなくても、ご心配なさらずお出ましください。メーラー
の調子が悪いのです。

●新刊出ました

『論語』の本、第二弾出ました。今回はなんと横書き。しかもほとんどのページが見
開き読みきりです。どうぞ一度、お手に取ってごらんください。

10のキーワードで味わう『論語』―智恵を読み解く古代文字(春秋社)¥ 1,680

http://www.amazon.co.jp/10%E3%81%AE%E3%82%AD%E3%83%BC%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%89%E3%81%A7%E5%91%B3%E3%82%8F%E3%81%86%E3%80%8E%E8%AB%96%E8%AA%9E%E3%80%8F%E2%80%95%E6%99%BA%E6%81%B5%E3%82%92%E8%AA%AD%E3%81%BF%E8%A7%A3%E3%81%8F%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E6%96%87%E5%AD%97-%E5%AE%89%E7%94%B0-%E7%99%BB/dp/4393436393/ref=sr_1_7?ie=UTF8&s=books&qid=1278287861&sr=8-7
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寺子屋の詳細はHPで。http://www.watowa.net/
(↓携帯ページ)
http://www.watowa.net/i/tera/index.htm

★ホームページの更新は、もうしばらくお待ちください。

★なお、寺子屋に関して東江寺さんへのお問い合わせ、ご連絡はご遠慮ください。

ツイッター
http://twitter.com/eutonie

『楚辞』より

『楚辞』は、古代中国の詩集です。

北方の『詩経』、南方の『楚辞』と並び称されます。

南方の楚の国の詩歌だから『楚辞』なのですが、なぜ詩とか歌ではなくて「辞」かというと、これは宗教辞令の「辞」ではないかというのは星川清孝氏です。『楚辞』に載る詩のほとんどは、かなり宗教的、呪術的、巫的な詩が多い。

あ、そうそう。『楚辞』は屈原(くつげん)の詩が中心に収められています。で、屈原はB.C.4世紀くらいの人です。讒言されて宮廷を追放され、汨羅の淵に身を投げた。高校の漢文の授業で「漁父の辞」とかやった方も多いでしょう。

「屈原、すでに放たれて・・」を「屈原、すでに鼻垂れて・・」なんて遊んだ記憶のある人もいる?

お決まりで併載される横山大観の絵で有名ですね。

北方の中華が呪術的な伝統を失った後でも、楚の国には、まだまだ呪術的な伝統が残っていた。政治にもその影響を大きかった。礼(禮)による政治、祭政一致です。

が、時代は呪術的(あるいは禮的)な政治から、「法」による政治へと変わりつつあった。そんな中、最後の呪術的(禮的)政治に携わっていた、すなわち巫者であり、かつ政治化であったのが屈原。

彼の追放は、政治基盤が「祭」から「法」に変化した象徴でもあるのです。

◆◆◆◆◆

『楚辞』には、いくつもの詩が載りますが、その中でもっとも有名なのが「離騒」。全16段の長い叙事詩です。

霊均という人物に仮託して、自分の信条を吐露していますが、以下、その一部(第10段)を超訳しますね。超訳ですから、読みやすさを第一にし、細かなところは無視しています。原文に興味のある方は検索すれば、たくさん出てきます。

◆◆◆◆◆

国は乱れ、それを何とかするために君主に近づこうとするが、妨害にあって阻まれる。それどころか彼の命さえ狙われる。そんなバカなことをするなと周囲からも言われる。彼はその苦しみを伝説の帝王である舜に訴えるために神話世界に飛び立つ。

そのときの模様です。

◆◆◆◆◆

『楚辞』離騒より

第十段

衣を敷いてひざまずき、祝詞を宣(の)れば
わが魂は中正を得て神界に遊ぶ

四頭の白龍を従え、大鳥の背に乗れば
巻き起こる風に埃は巻き上がり、われは天に上り行く

東南の果てにある蒼梧(そうご)の山を朝(あした)に発し
夕べには西の果ての崑崙山にある神々の国、県圃(けんぽ)に至る

この神々の門にしばらく留まろうとすると
ふと日が暮れ始めた

太陽を運ぶ御者、義和(ぎか)に歩みを緩めんことを請い
日の入る山の手前でしばらく留まらせ、日の暮れるのを遅らせる

道は遥けく先は遠い
あるいは上り、あるいは下り、探求の旅を続ける

◆◆◆◆◆

太陽が水浴びをする咸池(かんち)で馬に水を飲ませ
手綱を扶桑(ふそう)の木に結ぶ

若木の枝で太陽を祓いつつ
しばらく逍遥して帰るを忘れる

わが道を先駆するのは月の御者
後より付き従うは風の神

露払いに飛翔するは鳳凰と鸞(らん)鳥
雷神が畏まり「いまだ具(そな)わらず、しばらく待たれよ」とわたしに告げる

そこで鳳凰をまず天高く飛翔させ
夜に日を継いで進ませれば

渦巻く風はあるいは集まり、あるいは離散し
やがて使者である雲霞や虹が出現した

その供人らは風のまにまにあるいは離れ、あるいは集まり
あるいは上がり、あるいは下がるさまも色あざやか

◆◆◆◆◆

やがて天帝の門に着き、門を守る役人に開門を請うが
門番は天の門に寄りかかって、ただわれを眺めるばかり

ああ、日はもう暮れようとしている
秘境の幽谷から摘んできた蘭を捧げて、私はただ佇むばかりである

4月の寺子屋

3月の寺子屋をブログに書くことができませんでした。失礼しました。

実はいまうちのLANの調子が悪く、なかなかブログを書けません。Twitterにはちょくちょく書いていますので、そちらもどうぞご覧ください。

http://www.twitter.com/eutonie

さて4月の寺子屋ですが、まずは最初の回ですが4月6日(火)に決定しました。場所はいつもと同じく東江寺(広尾)さんです。なお、その次ですが今のところ20日を考えていますがちょっと調整中です。

受講料もいつも通りのお賽銭。

今月から開始時間を前に戻して<19時ちょうど>からにいたします。

今月は論語のほかに『おくのほそ道』も読む予定です。「月日は百代の・・」は読まず、深川から舟に乗り千住から旅立つところあたりを読もうと思っています。ここはとても大切な章です。

その次は那須の段を読みます。

お待ちしております。どうぞお出ましください。

このごろいろいろなこと

今日は寺子屋です。

いまだにPCの設定ができていないので、なかなかブログが書けません。すみませんがTwitterもご覧ください。

http://twitter.com/eutonie

今年から開始時間が変更になっています。19時30分ですので、どうぞお間違えのないよう。場所はいつもの東江寺さん。今日のテーマは「過ち」です。受講料はむろんお賽銭!

寺子屋のページをご覧ください。[PC用の寺子屋ページ]・[携帯用の寺子屋ページ]

◆◆◆◆◆

さて、この数日間はいろいろなことがあり、そしていろいろと考えることがありました。忘れないうちにブログに書いておこうと思うのですが、バタバタしているとすぐに忘れるので、まずはタイトルだけ。

[島根県知事との座談会周辺]
・出雲神楽の中の託宣儀礼(憑依する祖霊)
・目がたくさんある面と「方相氏(周礼)」
・さまざまなオロチ(立つ大蛇、膝行する大蛇、長い大蛇)
・「神楽」は神ではなく祖霊を招く芸能だった
・祖霊とは血縁ではなく地縁的祭祀共同体の祖先だった
・古典芸能の可能性とこれからについて

[某企業のトップの方のためのレクチャー周辺]
・千年ブランドとしての能、二千年ブランドとしての論語(聖書、仏典)
・「辻」の芸能、「座」の芸能とSNS
・危うい約束の上に立つ共同幻想が崩れつつあるという実感

[黛まどかさんの国語の授業]
・依代としての「季語」と能の執り物
・旅とは夢のようなもの

[日光までの小旅行]
・室の八島に曽良が行こうとしたこと
・歌枕とは本当は何だったのか
・室の八島にはなぜ煙が立つのか
・室の八島の木はなぜ双生の木が多いのか

[倫理研究所でのデススタディ・レクチャー周辺]
・思い出(思い出すことと忘れること)としての葬儀

★当たり前だけど、そこに行って始めてわかるということが多い。そして、これも当たり前だけど、そこにいるときには何もわからないということも多い。

過ち(2):論語百選のために

論語キーワードシリーズの第二弾、「過ち」の続きです。

前回は「過ち」とはどういう意味かを考えました。

詳細は前回のブログをご覧いただくことにして、簡単にいえば、「過ち」とは、ある状況において身についてしまった「過剰」なるものなんじゃないか、というのが前回の話です。

それはたとえば「子供時代」とか「思春期」とかいう時間的なことの場合もあれば、あるいは「日本」とか「銚子(あ、僕の出身地)」とかいう空間的なこともある。本来、それは次に行く時に、通過儀礼とか、あるいは関所とか、そういうところを通過するときにうまく払い落とすのだけれども、それが果たせなかったときに(次の社会からすれば)「過剰さ」として身に残ってしまうことがある。

そんな身に残った過剰さが、次の社会に行ったとき発動したもの、それが「過ち」なんじゃないかと思うのです。

で、その「過ち」は『論語』によれば「改める」ことによって消失してしまうのですが、この「改」というのは、いま私たちが使っている「あためる」といってすませてしまうほど単純なものではなく、どうも何かの秘儀らしい、それを今回は見ていきましょう。

●「改」の意味

「過ち」を消失させてしまうという、「改」という秘儀、それはどんな儀礼だったのか。まずは「改」の字義を見てみることにします。

「改」の字は甲骨文の中にもあります。

が、ほんの数例。しかも前後の関係からその語源を想像できるというようなおいしい文脈の中では使われていない。ただ、ひとつだけいえることは何かの儀礼ではありそう(生贄を焼くという儀礼のすぐ近くで使われている)。

それよりも甲骨文の中では(そして金文でも)、この字(改)の左側が「巳」になっていることに注意!です。いまは「己」なのですが、昔は「巳(へび)」だったのです。右側(攵)は鞭を持って打つ形です。

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さて、そんな形の「改(巳+攵)」ですが、語源にはやはり2説あります。

●「改」の語源説(1)蛇を打つ儀礼

(1)蛇を打つという儀礼

まずは白川説です。

この字は「蛇形のものをうつ呪儀で、これによって自己に加えられた呪詛を変改することができるとされた」と書きます。

蛇を打つことによって自分の呪詛を変えるという儀礼があったかどうかは(少なくとも僕は)ちょっとわからないのですが、まあ、あるかも、とは思います。すみません。ちゃんと文献に当たっていません。本か何かにするときには、ちゃんとあたりますね。

でも、祭祀の「祀」の字が示すように、「祀(まつ)り」と「巳(へび)」との関係は深そうです。蛇は呪的な動物なのです。

iwau

また、蛇を打つという習慣は、いまでも世界各国で見ることができます。大蛇(おろち)退治だって、その流れと見ることもできますね(本居宣長も似たようなことを言ってる)。

そうそう、甲骨文の中で「改」という字は少ないと書きましたが、たとえばこんな字は、もうちょっと多く見つけることができます。

ta_koukotsu

鞭を持つ手を除くとこんな字になります。

ta_hebi

同じ蛇でも頭が大きい。そして周りに点がついている。この点は、この蛇が海蛇とか川蛇とかいう、水に棲む蛇だということを示すか・・。あるいは甲骨文字でこういう点は血をあらわす場合が多いので血かも知れない。

この文字、ふつうは次の字が当てられるます(現代ではほとんど使わない字)。

ta_moji

で、この文字は生贄を引き裂いて祀る儀礼のようで(なら点が血っていうのもいいかな)、そうなると後述(2)の追儺(ついな)にも似てきます。

●「改」の語源説(2)鬼や魑魅魍魎を打つ儀礼

(2)鬼や魑魅魍魎を打つ

「巳」という音(オン)が「魑」とか「魅」と通じることから、蛇ではなく鬼や魑魅魍魎を打つ儀礼ではないかという説もあります。こちらは加藤、赤塚説。

鬼や魑魅魍魎を打つなんて、蛇より荒唐無稽っぽいですが、実はこれは伝統があって『礼記(らいき)』(月令)にも出てくる「難(な)」、日本でいえば追儺(ついな)です。節分の豆まきのもと。

たとえば月令の季春(3月)の項には「九門に難(な)し、磔攘(たくじょう)す」とあります。都城の九門で追儺(ついな)、すなわち鬼やらいを行い、牛とか羊の生贄を裂いて磔(はりつけ)にし邪気を退散せしめるのです。

生贄を裂いて磔なんて<它攵>にも似てるでしょ。

季冬(12月)には、「難(な)」の儀礼を大いに行い、さらには土牛を作って寒気の去ることを祈るとあります。

ちなみに『周礼(しゅらい)』(夏官)には、熊の皮をかぶり、黄金の四つ目の面をつけ、黒い衣に喪すそを身に付け、戈(ほこ)と盾をもち、百隷をひきいて鬼やらいをする「方相氏」という職掌が書かれています。

熊の皮をかぶって四つ目の仮面だなんて、こっちの方が鬼みたい。島根県の古代出雲歴史博物館で十六目の仮面を見ました(クリックで拡大)。これはヤマタノオロチの仮面。八つの頭で目が二つだから十六。

orochi_men

これもオロチ(大蛇)だから蛇ですね。

●「打つ」といってもいろいろあるよ

「改(巳攵)」というのは蛇説にしろ、鬼(魑魅魍魎)説にしろ、何かを打つことによって、かけられた呪いを解くという、そんな儀礼のようです。

そうか!「過ち」とはかけられた呪いだったんだ。よかった。過ちを犯した僕が悪かったわけじゃないんだ!

なんていい気になっていると大変ですが・・・しかし、となると「過ち」を改めるというのは、ただ口で「はい、改めます」と言うとか、心で「次回からは改めるようにしよう」と決めることではなく、「打つ」という動作を伴った身体的儀礼によって、それは行われるということのようですね。

「打つ」ということから、たとえばそれは「鞭打ち」なんかもその系統のものかも知れません。よく、狐憑きの人とか、そんな悪霊を追い出すときに聖なる植物で打ったりします。また、教育の罰に鞭を使うことは不思議と世界共通です。教育の「教」の右側にも鞭を持つ手「攵」がついているように、教育も「改める」と関係があります(当然!)。

後妻(うわなり)打ち」なんかもこの系統かな。打ってしまえば、あとはすっきり!

先生とか師匠とか親などが怒鳴ったりするもの「打つ」と関係がある。

「呵(か)ッ!」という語のは「可」が入っているでしょ。「可(カ)」というのは横隔膜を一瞬にして強く振動させる、すなわち打つことによって出る音。

「歌」という字の中にも「可」はあります。日本語の「うた」は「打つ」から来たという説もあります。

「打つ」というのはただ殴るというのではなく、実は呪的行為だったんですね。

でも呪的行為ならば痛くなくてもいいじゃん、と思うでしょ。で、それを実現するには、鞭ではなく柔らかいもので打てばいい。神社のお祓いとかね。紙でさらさらってされちゃう。

あるいは蛇を打つとか、その人の身につけていたものを打つとかという代理的な打つも生まれる。これは絶対痛くない(が、心は痛い場合がある)。

身体を打つでも代理物を打つでも、ともに大切なのは「呪的行為」としての打つということ。ただむやみに打てばいいというものではない。どこかに聖性、非日常性がなければならない。そんな聖性がベースになって打つ身体儀礼が「改」なのです。

何かを打つことによって、祓いが完成するのです。

●「改」とは呪的に変更されること

そうそう。

「巳」が「己」に変わったとき、音も「シ」から「カイ」に変わります。

「カイ」の意味は更新の「更(カウ)」です。変わること、何かが新たになること、それが改(あらた=新た)まることです。

ちなみに「更」という漢字は昔は以下のように書かれていました。

kou_kanji

この字にも下に鞭打ち=「攵」が入っています。また「変更」の「変」の下にも同じく鞭打ちが入っているでしょ。昔の漢字もあげておきましょう。

hen

「改」という儀礼によって、<呪的>に、ものを変更しうるという考えがベースにあります。

僕がよくやっちゃう過ちも、ただ反省するんじゃなくて「改」という身体儀礼を使って<呪的>に変更する必要があるんだなあ。

では、現代において呪的身体儀礼としての「改」はどうするのか。

それはまたおいおい考えていきたいと思います。一応、本稿はここまで!

ご清聴、ありがとうございました。
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