九公さん

九公論語(1)

kyurongo01さて、今日から九公さんの『論語』講義を始めるぞよ。みなみな席についたかな。

ほらほら、そこで騒いでいる子どもたちも、あとで遊ぶ時間は作るから、まずは席につこう。

rongoscanでは、手元にある『論語』の本をぴらっとめくってみよう(画像をクリックすると大きくなるよ)。

「おーっ!漢字ばっかりびっしり書いてある!」って。おいおい。待て、待て、そんなに急いで閉じることもなかろう。今は読める必要は全くない。

これから何回か一緒に読んでいくうちに、みなも漢字が大好きになっているはずじゃ。

●学びで時にこれを習ふ

さて、漢字の洪水にめげずに、まずは最初の一文を読んでいこう。

最初の「子(し)曰(いわ)く」は「孔子先生がこうおっしゃった」という意味で、これから何度も出てくる。まあ、これはいいじゃろう。問題は次じゃ。

「学而時習之、不亦説(悦)乎」「学びで時にこれを習ふ、亦た説(悦)ばしからずや」

この文を・・

「勉強して、時々に復習をする。これはなんと悦ばしいことであろうか」

・・・などと教える先生も学校にはおる。これはひどい教え方じゃ。勉強して時々復習するのを悦びだと感じるような生徒は、もう『論語』などは学ぶ必要はない。それだけで、もう聖人じゃ。

孔子先生が相手にしたのはそんな聖人生徒ではない。「勉強なんかするより遊んでいた方がずっといい」なんていう、そんな生徒を孔子先生も教えておった。

じゃあ、これはどういう意味なのか。それを考えるために、これから数回、ひとつひとつの漢字についてゆっくり見て行こう。

●「学」とはからだを使った学び

今回は最初の文字、「学」じゃ。「学」は戦前までは「學」と書かれていた。みんなのお爺ちゃんやお婆ちゃんには、その時代のことを知っている方もいらっしゃるじゃろう。帰ったら聞いてみてくれ。

gakuさて、この「學」のもっと古い時代の文字を見てみると、このようになる。これは今から2500年ほど前の文字で、青銅器に鋳込まれていた文字だ。こういう青銅器に鋳込まれた文字を金文という。

さあ、まずはこの字をノートに写してみよう。

ちゃんと写したかな。写さずに次を読み進めると後悔をするぞ。

では、この字を分解してみよう。

ryouteまずは上の部分の両側にあるやつじゃ。これは「手」じゃ。

te_wakuこんな風に肉付けをしてみるとよくわかるじゃろう。

右からも左からも手が出ているから、両手じゃな。

kou両手の間にある×が重なっているのはいま使われている漢字に直すと(って今はほとんど使われていない漢字だけど)「爻」で、これは「コウ(カウ)」という音を現す。そして、これが意味を表す。

「コウ(カウ)」のあらわす意味は「まねる」じゃ。

となると上の部分は、「両手」と「爻(コウ)」で・・

【先生から手取り足取りされながら、何かのマネをする】

・・それが「学」の基本の意味だということがわかる。学校の机にしがみついて勉強をする、それは「学」ではない。

からだで学ぶ、それが「学」じゃ。

●学校でもからだで学んだ

一応、下の部分も見ておこう。

ie真ん中のこれは建物をあらわす。「家」という漢字にもついているウかんむりじゃ。今の学校のようなところじゃな。実はこれはただの建物ではなく、先祖の霊や神様の魂を迎えるための「みたまや」、廟堂(びょうどう)を現しておる。

ko下の「子」は君たちのような子じゃ。「子」の特徴は一本足じゃ。大人になると「大」、すなわち二本足になる。何で「子」が一本足か。昔はおむつで足全体をくるんだから一本足だ、なんて説もあるが、本当のところはよくわかっていない。

さて、それはともかく昔も子供は学校には行った。むろん、今のようにみんな学校に行くわけではなく、選ばれた子どもだけだが、孔子先生の学校には誰でも行けた。そして孔子先生の学校で学ぶ方法は、手取り足取りの「からだの学び」だったのじゃ。

むろん、それはは手と足だけでなくても構わん。口伝えによる学びもそうだし、身体全体を使った学びもそうじゃ。身体を使った学びならば、みな「学」になるのじゃな。

●新たな技能の習得には運動性の学習が必要

茂木健一郎という脳の偉い先生がおる。その先生がおっしゃるには、学びには「運動性」の学びと「感覚性」の学びとがあるそうじゃ。

『論語』の「学」は、手取り足取りの「学」だから、むろん「運動性」の学びじゃな。

茂木先生がおっしゃるには、脳が発達するにはこの両者のバランスが大切なのだが、情報過多の現代はともすれば感覚性の学習に偏り勝ちだということじゃ。で、感覚性の学習に偏った場合、問題がふたつ出る。

ひとつは評論家のようになってしまうことと、そしてもうひとつはミラー・ニューロンの働きがにぶくなることじゃ。

評論家のようになると、何かを体験しても、それを楽しむよりも批判するようになる。君たちの友達の中には、歌を聞いても、絵を見ても、あるいは人の話を聞いてもアラばかり探すようなヤツがいるじゃろう。そういうやからは往々にして運動性の学びをしていない奴らじゃ。

こうなると人生が楽しくなくなる。いつもブツクサ文句ばっかり言っておる。孔子がもっとも嫌った人たちじゃな。

●思いやりにも運動性の学習

もうひとつ、学びが感覚性に偏るとミラー・ニューロンの働きが鈍くなる。

ミラー・ニューロンとは鏡のニューロン、他人の行動を真似をしたり、理解したりするニューロンじゃな。

新たな技能を修得するときには絶対に必要なニューロンじゃ。

運動性の「学」はミラー・ニューロンを活性化するわけじゃから、新たなことを学習するのにはそれが不可欠だということじゃ。

そしてこのミラー・ニューロンは、「他人のこころがわかる」力を身につける。また別な日に言うがな、孔子先生は他人のこころがわかる力を「恕(思いやり)」と呼んで、もっとも大事にした。

感覚性の学びに偏ると、人生つまらなくなるし、人の心もわからなくなる。そんなんでは、何を学んでも意味がない。機械のような人間ができあがるだけじゃ。

だからこそ学びには運動性の学び、すなわち「学」が必要なのじゃ。

●さあ、ちゃんと写そう

・・というわけで、さきほどの古い時代の漢字を「写してみよう」と言ってちゃんと写した人は運動性の学習をちゃんとした人じゃ。ただ読み進んで行ってしまった人は、いつものくせで感覚性の学習方法で読み進めてしまったというわけじゃ。

まあ落ち込まんでもよろしい。いつからでも取り返しはつく。

では、写さなかった人は、ぜひしっかりと写してからもう一度読み直してみてほしい。よろしいかな。

では、今日はここまで

九公さんの論語講座:そろそろ始まるよ

kyuko01わしは鳩翁先生のニセモノの九公さんじゃ。鳩翁先生のニセモノだからしゃべり方もマネをするけど、うまくいかなかったらゴメンな。

このブログで「九公さんの『論語』講座」をはじめようと思っている。週に一回くらいのペースでたらたらやっていくつもりなので、ゆったりとおつきあいくだされ。

ちなみに鼻の下の黒いのは口ではなくてヒゲじゃ。画像をクリックするともっと大きいのが出てくる。今回はほとんど意味ないけど漢字の説明などは黒板でするから、そのときはクリックよろしくね。

いい加減なCGですみません。

予告!鳩翁先生のニセモノ、九公さん現る!

九公さん予告お江戸の人気者、鳩翁先生についにニセモノが現れた。その名も<九公さん>。九公さんは、鳩翁先生の人気にあやかり、江戸は広尾で寺子屋を開き、善男善女に『論語』の講義をしている。

名前の由来は「鳩翁」から「鳥」と「羽」をむしり取っただけ。なんとも安易なネーミングに鳩翁先生は文句を言う気もなく、ただ静観する構え。

が、「私と九公さんとはまったく何の関係もございません」と鳩翁先生は、九公さんの『論語』講義を自分の道話とは無関係であることを強調している。

本ブログでは、九公さんの『論語』講義を時々、連載する予定。

乞う御期待!
  • ライブドアブログ