心の生まれた日

心の生まれた日(15)論語と心(2)昔の心と今の心

●昔の心と今の心に分けてみよう

前の話の続きを書こうと思って、ちょっと間があきました・・。すみません。

前回は、孔子が使っていた「心」と、僕たちがいま使っている「心」とは、田舎で「もいで」食べるトマトと都会のスーパーで買って食べるトマトほどの違いがあるんじゃないか、ということを書きました。で、それは、孔子がすごいんじゃなくて(もちろんすごいけど)、「心」が取れたて、もぎたての時代と、「心」が手垢に塗れちゃっている現代との違いかも知れないってことも書きました。

むろん、実際には心というか、人間そのものが複雑なので、「昔の心」と「今の心」に分けられるほど単純な話ではないのですが、単純にしないと話が進まないので申し訳ないのですが、ここは単純化して話を進めます。

これは、たとえば立体を平面で見るために3Dから2Dに「微分」するようなもので、最後に「積分」して戻しておかないと危険であることは重々承知ですが、それはこの連載の最後の方にすることにして、まずは微分のまま話を進めます。

さて、ではバッサリ微分して「昔の心」と「今の心」という二項対立にしてしまうことをお許しいただくことにして、じゃあ、この二つはどう違うのか、ということを考えたいのですが、それを説明しやすくするためにちょっと遠回りして、「能」、というか「日本の古典」における・・

「こころ」
「思ひ」
「心(シン)」

について簡単に触れておきたいと思います。

これは僕が書いたいくつかの本の中ではすでに何度も書いた話で、確かブログでもどこかで書いたような気がするのですが、ちょっと見つからなかったので、重複しちゃうかもなぁと思いながら書きます。

●こころと思ひ

(以下も単純化しています。念のため・・)

さて、日本語の「こころ」というものを考えると、その特徴は「変化する」ことです。

「こころ」の語源は「こっ、こっ」という心臓音だという説があります(かなり怪しい話ではあります。日本語の語源って不思議とよくわからない)。まあ、その語源の可否はともかく、心というのは、刻々と変化します。

これは自分を見つめてみれば、すぐにわかる。

「昨日はあの子が好きだったのに、今日は全く違う子に心が惹かれている」なんてやつで、<こころ変わり>なんていう都合のいい言葉があります。

が、こころ変わりによって、そんな風にコロコロ対象は変わっても、変化しないものがある。それは「人を好きになる」という心で、対象は変化してもそれは変わらない。

その変化しない心を、日本語では「思ひ」と呼びます。

能『隅田川』の主人公は狂女です。この狂女は母親です。

息子が人買いに拐かされたため、その行方を追って、京都からはるばる武蔵野国(東京)の隅田川までやって来たのです。都から遠く離れた隅田川で、彼女はどこに行ってしまったかわからない息子のことに思いを馳せます。

それは、ここが「人を恋う」場所だからです。

息子に思いを馳せながらも彼女は、この隅田川で、遠い平安時代、在原業平が「京にいる恋人」を思いやった故事を思い出すのです。

自分はいとし子、業平は恋人、思いやる対象は違います。

が、彼女は謡います。

「思ひは同じ『恋路』なれば」と・・。

対象は違っても、その「思ひ」は同じなのです。

そして、それに名をつければ「恋路」になります。

「恋」とは「乞ひ」。英語でいえば「beg」であり「miss」です。

自分の中のある重要な部分(子とか恋いしい人とか食べ物とか)が欠落してしまって、そこが埋まらない限りいつまでが気になってしまって落ち着かない状態、それが「恋」、すなわち「乞ひ」です。ミッシング・リングですね。

対象はどんなに変わっても、その「恋の対象」を生み出す心的作用である「恋」=「思ひ」は変わらないし、なくなりもしない。

「こころ」がゆらゆら揺れる波だとすれば、「思ひ」は海の水です。

大波、小波と変化して、あるとき鏡のように静かな海面になっても、海水がある限り、また波は起こる。

生きている限り、私たちは「思ひ」である「恋」に翻弄されるのです。それは、たとえば相性ピッタリの恋人に会って、もう恋なんかいいやと思っても(あるいは性的な欲望が全くなくなった後などでも)、夕暮れどきにふと訪れる孤独の絶望の中で、誰かと話をしたいと密かに思うことかも知れませんが・・。

「こころ」を表現するには、表層の身体である「からだ」が適し、「思ひ」を表現するには、深層の身体である「み(身=実)」が適することはいくつかの本に書きましたので、それはここでは省略します。

●「シン」という心

さて、「こころ」の深層に「思ひ」がありますが、さらにその深層にあるのが「心(シン)」です。

これは「以心伝心」なんて言って、言語を通さず伝わる「心(シン)」です。以心伝心だけでなく、世阿弥が「心(シン)より心に伝ふる花」というのもそれですね。

そんなの実際はなくて、理論的にのみ存在しているに過ぎない、と頭しか使わない人は考えがちですが、禅とか古典芸能などで厳しい稽古を経験した人は、それが「ある」ということを「知って」いると思います(むろん、これも気のせいである可能性も否定はできませんが・・)。

で、「現代の心」ともぎたての心を「孔子時代の心」を対比すると、この「心(シン)」こそがもぎたての「孔子時代の心」ではないかと思うのです。で、「現代の心」は「こころ」と「思ひ」とかです。

・孔子時代の心・・「心(シン)」

・現代の心・・「こころ」「おもひ」

最初にも書きましたが、こんな風に「昔の人の心は<シン>で、今の人の心は<こころ>だ」なんて本当はすっきり割り切れるわけではないのですが、こんな風に一応(!)しておくと話が見えやすくなるのであります。

(続く)

心の生まれた日(14)論語と心(1)きっかけは心の欲する所

●ちょっと復習から

もともと、この「心の生まれた日」を考え始めたのは、『論語』がきっかけです。孔子が生きていた時代の漢字に直して『論語』を読むという作業の中からです。

・・ということは前にも書きましたが、読んでいない方のために・・。

さて、そんなことをしていると『論語』の中の漢字には、孔子が生きていた時代には使われていなかったものが沢山あるということに気づきました。『論語』が編纂されたのは、孔子が亡くなってからかなり経ってからで、孫弟子、ひ孫弟子・・どころか、ひひ孫弟子たちの間に伝承されていた記憶の集成が『論語』なので、まあ、それは当たり前です(途中に焚書坑儒もあるしね)。

が、しかしこれは「当たり前」ですませていい話でもなく、少なくとも孔子はそれらの漢字は使っていなかった。

むろん孔子が話していたのは、<漢字(文字)>ではなく<言葉>なので、漢字も何もあったもんじゃない、といやぁ、ないのですが、それでも孔子の時代の漢字ではない字を使うというのは、孔子の真意からはかなり離れてしまう可能性があると思うのです。

「じゃあ、孔子は本当はどう言っていたのか」ということを考えつつ読んで行きました。

で、そんなこんなをしていると、特にないのが「心」がつく漢字で、「あれ?」と思って『甲骨文集』や『殷周金文大成』などをチェックしてみたら、どうも殷の時代には「心」という漢字、そのものが生まれなかったらしいということがわかった。

ということは「恋」や「思」などの「心」がつく漢字や、「性」や「悔」などの「リッシンベン」が付く漢字、「恭」や「慕」などの「シタゴコロ」がつく漢字など、すなわち<いわゆる心系>の漢字もなく、だからむろん「悪人」もいなければ「愛人」もいないのです(悪人も愛人も、そして<シタゴコロ>もない世界って何だかいいような、でもちょっと寂しいようなそんな世界です)。

「心」という漢字が誕生して発展していく様を探るために『殷周金文大成』をさらに見てみると、周になってやっと生まれた「心」も、その周の時代にはあまり使われることがなく、心系の漢字もあまり増殖しなかったらしいということがわかります。

周の時代では、せっかく生まれた<心>も、まだまだマイナーな存在を続けざるを得なかったのです。

現代の漢和辞典を開いてみれば、心系の漢字はもっとも多い漢字のひとつですから、これは面白い。

「心」は今から約3,000年くらい前に生まれたけれども、それから1,000年ほどは低迷していて、あるときに急に増殖爆発を起こしたらしい、ということがわかります。

で、どうもそのきっかけを作ったのが孔子だったんじゃないか、と思ったのです。むろん、孔子はきっかけですから、孔子の時代にはまだまだ爆発にはならないのですが・・。

●心は欲する?

なんで「孔子がきっかけを作った」と思ったかというと、例の「吾十有五にして学に志す」が含まれる文章です。この中で四十の「不惑」は変だ、ということについてはすでに書きました。

で、「七十」です。

七十は「從心所欲、不踰矩」と言います。

ふつうこれは「心の欲する所に従いて矩(のり)を踰(こ)えず」と読まれ、「自分の思うままに行ってもゆきすぎがなくなった(貝塚茂樹・訳)」などと訳されます。

さすが孔子様。自分の好きに振舞っても、規範を超えることがなくなったんだ、と解釈されるのですが、ちょっと待った!

この文はよく考えるとちょっと変な文なのです。

特に「心の欲する所に従う」というのが変。

「心が欲する」という表現を『論語』の中で探してみると、ここ以外に見つけることができません。いや『論語』どころではない。五経の中を探してみても、「心」が「欲する」という表現を見つけることは難しい。

「心」は欲しないのです。

じゃあ、「欲する(欲)」は何か。

それを探ってみると、「欲する(欲)」の主語になるのは「人」であることがほとんどです。それも「われ(我、吾)」か「おのれ(己)」が多い。

心がしたいのではなく、「俺がしたい」のです。欲望の主体は「俺が、俺が!」の「オレ、オレ」なのです。

●欲はセクシャル

欲望の主語が「俺」であるということは当たり前といやあ、当たり前です。

実はこの「欲」という漢字は、とってもセクシャルな漢字です。

この「欲」も、新しい漢字で、孔子の時代にはなかった。たぶん・・。少なくとも『殷周金文大成』を見る限り、孔子時代以前の金文には見当たらない。

じゃあ、孔子はどんな漢字を使っていたかというと、こういうときは、まず偏を取ってみる。

すると「谷」になります。

西周期の金文などでは「谷」という漢字をそのまま「欲」という意味に使っています。

「谷」=「欲」なのです。

で、この「谷」というのがセクシャルな漢字なのです。

「谷」の上の「八(ハチ=ハツ)」は「分け入る」というイメージを持ちます。「分け入る」の「分」の上についているでしょ。

noboru同音の「癶(ハツ)」は両足を開いて進む意です。「発(發)」とか「登」とかの上についているやつです。甲骨文字の「登」を見てみると、上の方に足が二つついているのがわかります。

で、その進む先が「谷」なのです。

で、で、谷といえば『老子』の「谷神(こくしん)」です。

『老子』にいう。

谷神は死せず。これを玄牝(げんぴん)と謂う。
玄牝の門,これを天地の根と謂う。
緜緜として存するが若く,
これを用いて勤(尽)きず

谷神不死,是謂玄牝。玄牝之門,是謂天地根。緜緜若存,用之不勤

老子がいうには、谷神は玄牝(げんぴん)です。

玄牝とは、すなわち「奥深いところ(玄)」にある「女性(牝)」であり、谷の如くに濡れそぼり、産む働きを永遠に続ける、という。

となると、谷神とは女性性器であるだろうと想像することは難しくない。そして、そんな性的なイメージを持つ「谷(欲)」に「心」はやっぱり似合わない。「オレ、オレ」すなわち、おのれの肉体が欲するという方がしっくりくるのです。

●オレと心

ちなみにこの「俺」は、ジェインズ的にいえば、まだ心を持たない<二分心>の「俺」です。目の前においしいものがあれば、思わず手を出してしまい、いい女がいれば思わず襲っちゃうという、心以前の「オレ、オレ」です。

動物的「オレ」ですね。

さて、そんなオレの心の欲するところに従ったら大変なことになってしまう。動物的「オレ」でなくても、我らのごとき凡夫は、心の欲するところに従っていたら、もう大変になってしまいます。ノリを越えないどころではなく、ノリなんか簡単に踏み越えてどっかに行っちゃいます。

心の欲するところに従って、それでも規範から外れない孔子というのは、さすが聖人!

と、解釈されるのですが、どうもこれはそうではないんじゃないか、って感じがする。

●孔子の言う「心」は別物かも

前にも書きましたが、孔子は人ができないことは言わない。俺はすごい人だから、こんなことできるんだよ〜、なんてことは言わない。

そうならば「心」の欲するところに従っていれば、誰だって規範を超えない、というのが孔子の言いたかったこです。が、しかし、これは現実的な話ではない。

ということは、孔子のいう「心」は、いま僕たちが使っている「心」とは、別物かも知れないのです。

ちょっと卑近な例でいえばね・・・。

田舎とかに帰るでしょ。で、トマトとかをもじって食べる。そのトマトと、都会のスーパーとかで買って食べるトマトは、もうこれはとても同じトマトとはいえないくらいに別物。大根だってそうだし、そうそう、トウモロコシなんかは全く違う。

牡蠣もそうだし、いわしもそう。

心が生まれたて、もぎたての孔子時代の「心」と、時代と都会の垢や煤にまぎれた「心」は、絶対トマト以上に違うと思うのです。

で、それがどう違うか。

それについては次回以降に書いていきましょう。

心の生まれた日(13)足は足でも・・

●足跡の古い字体を見てみると

以前、「心」の金文を子どもたちに見せると「チンチンだ〜!」という、と書きました。→心の生まれた日(10)

「あれは心臓の象形である」とする漢字の専門家に「あれはチンチンじゃないですか」と言ったらぶっとばされそうです。

しかし漢字の語源でほとんど定説になっているものにも疑わしいものはたくさんあります。

今日はそのうちのひとつ、足を見てみましょう。

今の漢字に直すと「之」とか「止」です(「止」は「足」に止まるという意味の「棒」がひとつついていますが)。

ashiato_kou甲骨文字ではこうなります。足跡ですね。右の出っ張っているところは親指ですから、これは左の足跡ということになります。いかがでしょうか、足跡に見えますか。

ashiato_kin金文にはもう少しわかりやすい字体もあります。こうなるともうモロ、足跡です。漢字らしさからは程遠いですが。

●足とは神の来訪か

この字は人間の足跡だというのが定説になっています。

この足跡がふたつ重なると「歩」という漢字になります。

aruku_kinまずは金文の字体から。ペタペタと二つの足跡が付いていて、どこかに向かっているさまを表します。

aruku_kou次に甲骨文。こちらは金文の字体に比べると、かなり漢字に近いということがわかりますか?

「え〜、全然わからない。漢字に見えない!」という人のために、これが今の漢字に変化していくさまを・・。

aruku_nagare

ほら、ちゃんと今の漢字「歩」になったでしょ。

kakukyakuさて、この足跡を逆にした形が、ある場所(口)に来るという形は「各」であり、これに先祖を祭る廟堂を表す「ウカンムリ」をつけると「客」になります。

白川静氏はこの「口」を祝詞を収める器だとしますが、これは聖なる場所だという説もあり、どちらにしろ、そこに来訪するのはただの客ではありません。

「まれびと」すなわち「来訪神」です。

oriruさらに下向きの足跡をふたつ重ね、それに神梯をつけると「降」、すなわち降臨の意となるように、下向きの「足」は神の来訪を表す漢字だったようです。

●足とは異界に赴く身体

上向きの足跡は甲骨などでも「行く」という意味で使われますが、ただぶらぶら散歩をするのではありません。

戦争とか巡察とか猟とか、自分たちとは異なる地域、異邦に行くとうい意味で使われることがほとんどです。

異邦では何が起こるかわからない。自分たちより強い敵と遭遇して、殺されてしまうかも知れないし、恐ろしい猛獣との戦いが待っているかも知れない。そんな異界への移動、それが「之」なのです。

神様にすれば私たちの住む下界は異邦です。神様にとって降臨とは、やはり異界への移動なのです。

そうなると足跡は、上向きでも下向きでも異界に行くことを示したといえるかも知れません。

換言すれば「足」とは異界に赴く身体だということができるでしょう。

●足跡は古代人にとっては大切なしるし

さて、そんな足ですが、まあ足跡というのはいいにしても、これが「人間」の足跡だというのはちょっと考え直してみたいところです。

ネガティブハンドの話を、パーカッショニストの土取利行氏がしてくれましたた。

古代の洞窟などに手のひらが押し付けられ跡が残っている。これがネガティブハンドです。洞窟壁画が描かれている同じ場所にある。

アボリジニやブッシュマンはネガティブハンドを見ると、これが誰のものだかわかるらしいのです。指紋なんか、取る必要はない。

狩猟民は足跡だけで動物がわかります。

それも「これは熊、これは狐」とわかるだけでなく、「この足跡は熊の誰それだ」ということがわかる。体重はどのくらいか、雄か雌か、妊娠しているかどうか、そういうことがすべてわかるといいます。

洞窟壁画を残した古代人たちが手のひらの形だけで、その人を特定できたのと同じで、狩猟民たちは足跡だけで動物を(そして多分、人も)特定できるのです。

そして、むろん古代人たちもそんなことは簡単にできた。だから、古代人にとって、足跡は特別な存在だったはずです。

それは壁画の図像を見てもわかります。

石器時代の壁画に描かれる図像では、動物の体は横向きに描かれていながら蹄だけは平面図で描かれています。足跡は大切だからです。

●人間の足跡じゃねえだろう!

ashiato_kinさて、そう考えるとこの文字が「人間」の足跡だというはちょっと変だということに気づくでしょう。

気づかない人は自分の足を見てみてください。

人間の足跡はこんな形をしていない。人間の足の親指は他の指とくっついています。

以下にさまざまな霊長類の足跡を並べてみましょう。左から「人」・「マウンテンゴリラ」・「ローランドゴリラ」・「チンパンジー」です。

ashiato_samazama02

親指が他の指から離れているこの形は、チンパンジーなどの類人猿の足跡です。決して人間の足跡ではありません。

足跡を重視した古代人がこんな間違いをするはずがない。漢字の「之」、すなわち足跡は、類人猿の足跡に近いのです。

●音楽神の足跡かも!

さて、そんな風に思って漢字を探してみます。

するとこんな漢字があります。

ki_kanji「き」と読みます。これは音楽神の祖です。『山海経』には牛のような形とありますが、本来は猿形の神でした。甲骨文にも非常によく出てくる神様です。

猿をトーテムとする一族が殷王朝の奏楽に携わっていたかも知れません。これは日本の猿田彦やアメノウヅメ命などとの関係からも興味深いのですが、それはまた・・。

さて、この漢字の甲骨文はこうです。

ki_kou

石器時代の壁画の図像では、「動物の体は横向き、蹄だけは平面図」と言いましたが、これもモロそれだということがわかるでしょう。

現在、「人間の足跡」というのが定説になっているこの形は、猿の足跡、あるじは猿形の神である「キ」の足跡なのではないでしょうか。

で、それがだんだん人間の足跡にも使われるようになった。

しかし、人間に使われるようになっても、少なくとも殷の時代や周の初期の頃までは、「之」はただの足跡ではなく、聖なる足跡、聖跡なのです。

心の生まれた日(12)ちょっと合間:良寛さんの詩

前回のブログで、「良寛さんの漢詩に「腸が求めたら食事をする」というのがあるけれども」云々と書きましたが、あれは外で書いていたので不安になって家で調べました。

良寛さんの詩集は『訳註・良寛詩集』という岩波文庫版で持っています。訳註っていったって現代語訳があるわけでなく、「ちゃんと書き下し文もあるよ」程度のものです。

漢文苦手!という人にはキツイ本です。

1977年に岩波文庫創刊50年記念で復刊されたもので、学生時代に購入したものでした。

白い星が三つで300円!懐かしい。

全333ページにびっしり漢詩が書かれているので、すごい量です。しかも下欄には註もついていて親切です。お得な本。

学生時代にはかなり読んでいたのですが、卒業以来、数回しか開いていなかった。でもその頃の記憶は写真的記録で、「ここら辺にあった!」と開いたら、数ページの誤差で見つかりました。

そこのところを書いておきます。前後は省略

「飯は腸飢ゑて始めて喫す(飯喫腸飢始)」

同文庫でいうとP.154です。

良寛の漢詩は平仄も文法も、よくいえば天衣無縫、悪くいえば無茶苦茶です。でも、それがいい!

心の生まれた日(11)身体から見た食欲

●骨にハマってます

このごろ「ボーンズ」にハマっています。

あ、ボーンズっていうのはアメリカのテレビドラマです。→Wikipedia

もともと刑事ものは好きなのですが、それに解剖用語がバシバシ出て、とても楽しい。

時々一時停止して解剖の本を出して、頭の中で骨を並べて「う〜ん」なんて推理しながら見ています。ロルフィングは英語で勉強したので解剖用語も英語でしか入っていないので、ドラマも英語で見た方がわかりやすいです。

・・といっても英語だけだとジョークなんかがわからなくなるので(というよりストーリー自体もわからなくなっちゃう。かなり偏った英語なのです)、一番楽しいのは「音声・日本語」「字幕・英語」です。

あ、ちょっと全く関係ない話を・・

ハワイで、日系人向けに放映されている番組を録画して(それを送ってもらって)見るとすごく面白いです。たとえば『暴れん坊将軍』とかが日本語音声、英語字幕でやっている。「おぬしも悪よのう」なんていうのが英語字幕で出るのです。

さらに、こんな複雑な日本語を、こんな簡単に言っちゃっていいんだ(って本当はよくはないだろうけど)ってことがわかって、英語を話すのが気楽になります。

閑話休題。

さて、ロルフィングは最初に骨を一通りやったあとは、筋肉と筋膜を中心に勉強したのですが、「ボーンズ」を見ると骨をもっと勉強したくなります。骨の見方が変わってくるのです。

骨、もっと勉強したい!

●食欲の悪循環

・・と、今回はこの話ではなく・・。

「ボーンズ」にハマっているということは、その時間テレビを前にしているのですが、テレビというのは危険で、どんなに面白いものでも手持ち無沙汰になります。

で、近くに甘いものでもあると、思わず手が伸びてしまう。

甘いものを食べるとお茶を飲みたくなって、お茶を飲む。甘いものとお茶だけならまだいいのですが、口の中に甘い感じが残っていると、今度はしょっぱいものが欲しくなって、お煎餅とかポテチとかあると、やはり思わず手が伸びる。

お煎餅だとまだいいけれども、ポテチとかその手のスナック菓子だともう大変。今度はコーラが欲しくなります。

・・などという悪循環にはまりやすい。

それがテレビです。

●口が欲するのは食欲?

・・と、テレビのせいにしても仕方ないのですが・・。

で、実際にこの悪循環に嵌まり込んだことがありました。

そのとき、「あれ?」と気づいた。

食欲(appetite)は「pet」、すなわち「求める」を語根にする語です。

さて、ポテチを片手にコーラを「求めて」いる自分には「食欲」があるのか?

この欲求はどこから来ているのか。それを体に聞いてみる。すると、「甘いもの→ポテチ→コーラ」ときた、その欲求は「口中(口腔)」が求めていた。

「食欲といやあ、お腹だろう」と思って、「お腹」に聞いてみると、「求めてないよ」という返事。「なら、これは食欲ではないだろう」と思って、そのときは目出度くヤメにできた。

が、こんなに理性的なときだけではない。

「口寂しいから、何か食べたい」とか言うしね。口は「寂しい欲求(miss)」だから、なかなか手ごわい。

●食欲を体に聞く

さて、後日・・。

今度は悪循環に入る前、すなわち「甘いものを欲した」時点で、体に聞いたみた。

手持ち無沙汰で何か思わず手にする瞬間ね。

すると、それは口中よりもっと上の「頭」が求めていた。口ですら求めていなかった。

これは怖い!粘膜の欲求ではなく、脳の欲求である。粘膜の欲求には限りがあるけれども、脳の欲求には限りが無い。想像力は宇宙をも包み込むくらいだから、宇宙の涯まで食い尽くしちゃうかも知れない。

翻って・・良寛さんの漢詩に「腸が求めたら食事をする」というのがあるけれども、食欲も「心」ができるまでは「腸」が求めた時点で「腹が減った〜!」ってなったんだろうな、と思った。

なんか、前回の「心」の話に似てきた。

「腸」の食欲が、だんだん上がってきて、「胃」が減った感じがして(まだここまではお腹ね)、それから「口」が欲して、最後には「頭」が欲する。

お腹、すなわち腸も胃も、実はいっぱいなのに、「あ、あれおいしそうだから食べたい!」と、どんどんどんどん食べてしまう。口ももういっぱいで「喉から出そう」なんて言いながら、それでも頭が欲してガツガツ食う。

そうなるともう大変です。

一度、自分の食欲を体に聞いてみるということをするといいかも。今度、その練習会を開こうかな。
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