今回の『論語』の本は、かなり噛み砕いて書いたつもりだったのですが、先日、僕の身体系の本はほとんど読んでくださっているという方にすすめたら、「論語って何?」と言われました。
なるほど!
『論語』が本だということには、さすがに触れなかった。さらに『論語』=孔子も、基本的には自明のこととして書いてしまった。
反省!
このような方にこそ、むしろ読んでいただきたいのに、どうしたらいいだろう。
あと、「ここが難しかった」というところがあったら、ぜひ寺子屋などのおりに教えて下さい。できればそのときにお応えしますし、次回から注意するようにします。
◆◆◆◆◆
さて、『呂子(りょし)春秋』という本があります。
これは『論語』を知っている人でも、あまり知らないかなあ。秦の始皇帝の宰相であった呂不韋(りょふい)とその食客たちの言行録です。
その『呂子春秋』の中に長生きの秘訣が書いてあります。で、それを紹介しようと思うのですが、その前に「じゃあ、長生きって何なんだ」ってところから。
呂不韋は「全生」を最高の生であるとする子華子の説を紹介しています。ただ長く生きるのが長生きではない。子華子によれば生の順序は次のようになります。
【1】全生(六欲※がすべて調和を得ている状態)
【2】虧生(きせい:六欲が半ば調和のまずまずの生)
【3】死(知がなく未生の状態の戻ること)
【4】迫生(六欲が調和せず、すべて悪いところが出てくる生き方。屈服、屈辱)
※六欲:生死耳目鼻口の欲
「長生き」というのは「全生」の状態で長く生きるということをいいます。屈服、屈辱の中で長く生きるのは、呂不韋のいう「長生き(寿長)」ではありません。
・・・といって死ねというわけでは、むろんありません。「全生」で生きよう!という提案です。
「生(せい)以って寿(じゅ)長に、<声色滋味>よく久しくこれを楽しむ」とあります。ただ生命を永らえるだけでなく「声」、「色」、「滋味」、すなわち耳も、目も(ひょっとしたらセックスも)、そして口も楽しむ。
いい音楽を聴き、人からの心地よい言葉を聞き、美しいものを見、さらには人と心身ともに親しみ、そしておいしいものを食べる。それが長生きなのです。
◆◆◆◆◆
で、昔からそういう人は確かにいた。で、そういう人はなぜそうであるのか、ということを考えるのですが、実はそこにはとても簡単なひとつの法則性があった。
「論、早く定まればなり」
すなわち・・
「ものごとの決定が素早いからである」
というのです。
◆◆◆◆◆
その理由はというと・・
ものごとの決定が早ければ、思慮することが少なくてすむ。思慮することが少なければ精神を費消しつくすことはない。
・・というのです。
確かに天寿を全うできない原因の多くは精神的なものです。身体的な病気も精神の費消が原因ということも少なくない。
心理療法家のフリッツ・パールズは「不安」について、あるワークショップで次のように(確か)話していました。
「今」というときと、「これからやってくる」というときとの間に横たわるクレヴァス、それが「不安」だ。
※今、手元にはないのですが(確か)「Gestalt Therapy Verbatim」より。
このクレヴァスが広ければ広いほど不安は増大し、狭ければ狭いほど不安は少なくなります。
だから「今」を大事にするとパールズはいうのですが、これは孔子の「敏」にも近いですね。
行いは「敏」に!です。
◆◆◆◆◆
さあ、こんなことを書いているうちに、しなければならないことがたまっているということを思い出したぞ!
死なないうちにやらなきゃね。
なるほど!
『論語』が本だということには、さすがに触れなかった。さらに『論語』=孔子も、基本的には自明のこととして書いてしまった。
反省!
このような方にこそ、むしろ読んでいただきたいのに、どうしたらいいだろう。
あと、「ここが難しかった」というところがあったら、ぜひ寺子屋などのおりに教えて下さい。できればそのときにお応えしますし、次回から注意するようにします。
◆◆◆◆◆
さて、『呂子(りょし)春秋』という本があります。
これは『論語』を知っている人でも、あまり知らないかなあ。秦の始皇帝の宰相であった呂不韋(りょふい)とその食客たちの言行録です。
その『呂子春秋』の中に長生きの秘訣が書いてあります。で、それを紹介しようと思うのですが、その前に「じゃあ、長生きって何なんだ」ってところから。
呂不韋は「全生」を最高の生であるとする子華子の説を紹介しています。ただ長く生きるのが長生きではない。子華子によれば生の順序は次のようになります。
【1】全生(六欲※がすべて調和を得ている状態)
【2】虧生(きせい:六欲が半ば調和のまずまずの生)
【3】死(知がなく未生の状態の戻ること)
【4】迫生(六欲が調和せず、すべて悪いところが出てくる生き方。屈服、屈辱)
※六欲:生死耳目鼻口の欲
「長生き」というのは「全生」の状態で長く生きるということをいいます。屈服、屈辱の中で長く生きるのは、呂不韋のいう「長生き(寿長)」ではありません。
・・・といって死ねというわけでは、むろんありません。「全生」で生きよう!という提案です。
「生(せい)以って寿(じゅ)長に、<声色滋味>よく久しくこれを楽しむ」とあります。ただ生命を永らえるだけでなく「声」、「色」、「滋味」、すなわち耳も、目も(ひょっとしたらセックスも)、そして口も楽しむ。
いい音楽を聴き、人からの心地よい言葉を聞き、美しいものを見、さらには人と心身ともに親しみ、そしておいしいものを食べる。それが長生きなのです。
◆◆◆◆◆
で、昔からそういう人は確かにいた。で、そういう人はなぜそうであるのか、ということを考えるのですが、実はそこにはとても簡単なひとつの法則性があった。
「論、早く定まればなり」
すなわち・・
「ものごとの決定が素早いからである」
というのです。
◆◆◆◆◆
その理由はというと・・
ものごとの決定が早ければ、思慮することが少なくてすむ。思慮することが少なければ精神を費消しつくすことはない。
・・というのです。
確かに天寿を全うできない原因の多くは精神的なものです。身体的な病気も精神の費消が原因ということも少なくない。
心理療法家のフリッツ・パールズは「不安」について、あるワークショップで次のように(確か)話していました。
「今」というときと、「これからやってくる」というときとの間に横たわるクレヴァス、それが「不安」だ。
※今、手元にはないのですが(確か)「Gestalt Therapy Verbatim」より。
このクレヴァスが広ければ広いほど不安は増大し、狭ければ狭いほど不安は少なくなります。
だから「今」を大事にするとパールズはいうのですが、これは孔子の「敏」にも近いですね。
行いは「敏」に!です。
◆◆◆◆◆
さあ、こんなことを書いているうちに、しなければならないことがたまっているということを思い出したぞ!
死なないうちにやらなきゃね。