日本の女性にシンデレラ・コンプレックスなんてない、という前回の続きです。

▼いまの浦島と昔の浦島

日本のおとぎ話で、このことと関連があるのは「浦島太郎」です。

浦島太郎と処女喪失説話って全然関係なさそうですね。まあまあ。

一応、(いま僕たちが知っている)浦島太郎の物語をまとめておきますね。

(1)子どもたちにイジめられていた亀を浦島太郎が助ける
(2)その亀に連れられて龍宮城に行く
(3)そこにはごちそうをしてくれる乙姫様がいる
(4)舞踊りをする鯛やひらめもいる
(5)それらを見ているうちに月日の経つのも忘れる
(6)帰ろうとすると玉手箱を土産にもらう
(7)帰郷するとまったく違う世界になっていた
(8)心細さに玉手箱を開けると中から白い煙が出てきてお爺さんになってしまう

これが僕たちが知っている「浦島太郎」ですが、これは明治時代に巌谷小波(いわや・さざなみ)がまとめたバージョンで、昔のそれはこれとはいくつかの違いがあります。

「昔のそれ」といっても、本当はね、一概にこれ!ということはできないんです。浦島伝説を載せる書物は多く、古くは奈良時代の『風土記』『日本書紀』、さらには『万葉集』にも載っています。そして平安時代になると『続浦島子伝記』なるものが出現し、さらに中世になると『御伽草子』に載り、なんと狂言や能にもなっているのです。

でも、そこら辺を詳しく書いていくと話がどんどん離れていくので、大雑把に「昔のそれ」ということで許してください。

で、これらすべてに共通するのは上記の(6)と(7)くらいです。(6)だって玉手箱ではなく「玉匣(たまくしげ)」となっているものもあり、意味としては大体同じですが、それでもちょっと違います。

▼イケメン浦島

さて、いまの浦島太郎と昔の浦島太郎(ほんと、大雑把ですみません)との一番の大きな違いは、浦島が亀を助けていないということです。

いまの浦島太郎は、どちらかというと、いい人だけど、あまりモテない。「わたしたち、いいお友だちでいましょうね」、「はい(涙)」というイメージです。

でも、昔の浦島は、すごく男前なのです。イケメンです。たとえば『丹後国風土記』には次のようにあります。

姿容(かたち)秀美(うるは)しく、風流(みやび)なること類(たぐひ)なかりき。

で、彼を見初めたのが海神の娘である「亀姫」さま。

浦島が釣りをするためにひとりで海上に浮んでいるのを見つけた亀姫は、五色の亀となって彼に釣られてしまいます。浦島が不思議に思って亀を眺めていると、なぜか眠くなって彼は眠ってしまうのです。

ふと目を覚ました浦島はびっくり!狭い船の上に美女が乗っているではありませんか。そう。亀が亀姫になったのです。

で、その美女は浦島にいいます。

「一緒に蓬莱山に行きませんか」

龍宮城に行きましょう、なんて言ったら、絶対「ヤダ!」といわれる。だって「龍宮」って龍の宮殿。能『海人(あま)』の中では「八龍並(な)み居たり」と謡われますし、龍だけでなく「悪魚(恐ろしい魚群)」や「鰐の口(サメ)」もいる、そんな怖いところです。そりゃあ、イヤです。

ですから、亀姫さまの誘惑は「蓬莱山に行きましょ」です。不死が約束されているパラダイス、仙郷です。

「行きます!行きます!」と浦島がいえば、またもや、ほわーんと眠らされて、気がつけばそこは大きな島、蓬莱山。

と、まずはここまでを見直しておきましょう。

浦島太郎の物語で積極的なのは亀姫の方です。しかも、二度も相手を眠らせて(睡眠薬を使ったかどうかはわからないけど)、自分の思うようにしてしまう。逆ナン。ストーカーといってもいいかも知れない。

シンデレラや白雪姫とは全然違います。

▼ちょっとエッチな浦島

さて、亀姫と一緒に蓬莱山に行った浦島は、スバル童子や亀姫のお父さん・お母さんにご挨拶をして、ご馳走をいただきます。そこには亀姫だけでなく、キレイなおねえさんたちがたくさんいて、お酌をしてくれたり、お給仕をしてくれたり、舞を舞ってくれたりします。

ところが夜が更けるにつれ、ひとりいなくなり、ふたりいなくなり、とうとう亀姫と浦島だけになってしまうのです。

アヤシイでしょ。

そう。そして、ご想像の通り、コトが始まるのです。

「肩を双べ、袖を接(つら)ね、夫婦之理を成しき」と書かれます。「夫婦之理」は「みとのまぐはひ」と訓じられ、イザナギとイザナミの性行為が、やはりこういわれます。

「あれ、鯛やひらめは?」

そんな細かいことは気にしなくてもいいの!

…なんてことはいいません。実は、これ大事なのです。

平安時代の『続浦島子伝記』によると、ふたりの夜のコトは次のように書かれています。
玉體を撫で纖腰を動かし、燕婉を述べ綢繆を盡くす。魚比目の興、鸞同心の遊。舒卷の形、偃伏の勢(撫玉體、動纖腰、述燕婉、盡綢繆。魚比目之興、鸞同心之遊。舒卷之形、偃伏之勢)。

ここに「魚比目」という語が出てくることに注意しましょう。これがおそらく「鯛やひらめ」の元ですね。で、これは何かというと、実は『医心房』という本に出てくる「体位」なのです。

どんな体位かというのは、良い子が読む可能性もあるので略しますが、「すべすべの体を撫で回し、細い腰を動かし、さまざまな睦言をいいながら手足をからませ(玉體を撫で纖腰を動かし、燕婉を述べ綢繆を盡くし)」、以下、「魚比目」ほかのさまざまな体位でいたしました…という文です。

こんな風に、現代の浦島と全然違う昔の浦島ですが、ラストシーンもちょっと違うのですが、今回はそこは省略します。

▼処女性はどうでもいい

さて…というわけで『古事記』のヒーローの相手の女性たちだけでなく、乙姫さまならぬ亀姫さまもシンデレラ・コンプレックスに無縁どころか、自分から男をゲットしに行くという積極性を見せるのです。

「あれ、処女性の話はどこに行ったの?」

あ、話がどんどん離れていってしまいました(寺子屋もよくこうなります)が、僕は古代の日本においては「処女性」ってどうでもよかったんじゃないかなと思うので、もう処女性の話なんかもどうでもいいと思っているのですが、そうもいかねいので一応書きますね。

たとえば処女を示すと思われる古代語に「未通女(をとめ)」という語があります。「未通」だなんて、まさに処女そのものの言葉ですね。

でも、注意したいのは和語(日本語)の「をとめ」は「若い女性」という意味で、これには「未通」か「既通」かなんて区別はありません(ちなみに、何歳までが若いなんていうのもない)。

で、これに漢字を当てたのが「未通女」なのですが、でもこの語は『古事記』にも『日本書紀』にも現れない、『万葉集』独特の用字なのです。

『万葉集』で「未通女」として使われるときは、神に仕える女性であることが多く、だから神に仕える女性は処女でなければいけなかったんだという説もあるのですが、しかし高橋蟲麻呂家集で「未通女」は次ような使われ方もされています。

鷲の住む 筑波の山の 裳羽服津(もはきつ)の その津の上に、率(あども)ひて 未通女(をとめ)壮士(をとこ)の 徃き集ひ かがふ嬥歌(かがひ)に 他妻(ひとづま)に 吾も交はらむ 吾が妻に 他(ひと)も言(こと)問へ…

鷲住、筑波乃山之、裳羽服津乃、其津乃上尓、率而、未通女壮士之、徃集、加賀布嬥歌尓、他妻尓、吾毛交牟、吾妻尓、他毛言問…


これは嬥歌(かがひ)、すなわち歌垣の歌です。男女が筑波山に登って、歌を歌いかけ、やがて男女の交歓となる。

「未通女(をとめ)壮士(をとこ)の徃き集ひ」と書いてあるので、参加条件は「処女」と「童貞」だけかと思いきや、「俺も人妻と交わるぞ(他妻に吾も交はらむ)。俺の妻に他人も言い寄れ(吾が妻に他も言問へ)」と言っていることから、人妻も人夫(「にんぷ」じゃないよ:ひとおっと)も参加していた。

参加者はいわゆる「処女」「童貞」だけではなかった。

となると「未通女」というのは、ただ「若い女」を意味していたようで(繰り返しますが年齢制限もない)、処女かどうかなどはどうでもよかったのではないかと思うのです。

ちなみに『古事記』の中で、ニニギ命が新婚の木花咲耶(コノハナサクヤ)姫がすぐに妊娠したので「まさかお前」と疑うのですが、それもその子が自分の子かどうかを疑ったのであり、彼女が処女だったかどうかではありませんでした。

…まだまだ続く