能『羽衣』の不思議、第二弾です。

▼幻覚漁師、伯龍

前回の最後に、漁師「伯龍(はくりょう)」の名前について書きました。

「伯龍」というのは、龍を飼う一族の名前ではないか…と。

で、その最後にこんなことを書きました。
考えてみたら、ほかの漁師たちには見つけられなかった(というより、おそらくは見えもしなかった)羽衣を見つけることができたり、大口というすごい装束を着たり(今回は着流しでするかも)、このワキのただもの感はハンパないのです。  

そう、能『羽衣』の最重要アイテムである「天の羽衣」は、ほかの漁師には見えず、この漁師だけに見えたのです。

さらにその登場の際に漁師はこんな不思議なことを言っています。

我、三保の松原にあがり、四方(よも)の景色を眺むるところに
虚空に花降り
音楽聞こえ
霊香(れいきょう=霊妙なる香り)四方に薫ず 
三保の松原に出てみたところ、空中から花が降ってきて、しかも音楽も聞こえ、さらには妙なる香りも四方に漂ったとあるのです。

それを不思議に思った伯龍(はくりょう:漁師)がふと松を見ると、そこには衣がかかっていて、それが天の羽衣だったのですが、この衣を伯龍以外が見つかられなかったということは、ほかの漁師には、空中から降り下る花も、虚空から聞こえる音楽も、そして四方に薫ずる霊妙な香りも感じなかったに違いないのです。

まあ考えてみれば、「空中からの花吹雪」やら「虚空からの音楽」やら「霊妙な香り」やらを見たり、聞いたり、嗅いだりする方が変かも知れません。

現代だったら、これらはすべて幻視、幻聴、そして幻嗅として片付けられてしまうでしょう。しかし、これらを感じることができる、それが漁師、伯龍のすごいところであり、そしてそれこそ能の目指すところでもあるのです。

▼もうひとつの「目」

1969年にチャールズ・タートが『Altered state of consciousness』という本を出しました(和訳は出なかった)。日本語に訳せば『変性意識状態』。

『変性意識状態』というと、いわゆるトランス状態をいうことが多いのですが、しかしタートの本を読むと、そういうアブない話だけでなく、いま自分たちが思い込んでいる「意識」や「感覚」以外にもさまざまな、可能性としての「意識」や「感覚」があるんだなぁと思ったりします(もちろん危ない話も出てきますが:笑)。

たとえば、僕たちは何かを「見る」ときには角膜とか水晶体とか網膜とか、そういう器官を使います。ざっくりいえば「目」を使ってみます。

でも、夢を見るときに「目」という器官を使って見る人はいません。でも、ちゃんと見ている。

…となると「目」以外で「見る」ということも可能だということになります。

同じように「聞く」も「嗅ぐ」も、そして「触れる」もです。

僕の見た「夢」の話が本当かどうかは、他の人には絶対にわからないように(そして他の人には、それが本当かどうかの証明ができなくても、それでもやはり自分にとっては本当であるように)、漁師、伯龍にしか見えなかった「空中からの花」や「天の羽衣」、伯龍にしか聞こえなかった「虚空の音楽」、伯龍しか嗅ぐことができなかった「霊妙な香り」も「実在」であり、かつほかの漁師にとっては「非在」でもあるのです。

…となると「実在」と「非在」の違いって何なのでしょう。

▼ポケモンGOと能

能を大成した世阿弥は、天照大神が天の岩戸に隠れてしまった状態を「言語を絶して、心行所滅」と表現しました。

「言語を絶して、心行所滅」とは、あらゆる感覚や差異がなくなって、心の働きも、身体的な運動もすべてが滅した状態です。岩戸の闇は、視覚的な闇であることに留まらず、あらゆる感覚・思考・感情など、すべてが滅する完全な闇なのです。

ジョン・C・リリーの感覚遮断実験を思い出す人もいるでしょう。そういえば、『アルタード・ステイツ』という不思議な映画もありました。

そんな状態では、「実在」と「非在」の違いはない。

デカルトは「我思う、ゆえに我あり」と言いましたが、「心」も滅しているわけですから「思い」もなくなる。だから「我」もない。

おお…。

でも、逆にいえば、そこは何でも出現し得る世界。何でもあり得る世界。そこにないものも出現し得る世界でもあるのです(アメノウヅメ命の舞とか)。

それは「現実」のちょっと横にある、もうひとつの次元の世界なのかも知れません。そこに伯龍はふと迷い込んでしまった(芭蕉の旅もそうです)。

そうそう、「ポケモンGO」が流行り始めましたね。あの地図を見ていると、いま自分がいるところでありながら、まったく違う世界にいるように錯覚をしてしまいます。さらにそこにポケモンが出て来る。

あのようなものを「AR(拡張現実)」といいます。ARのAは「拡張された(augumented)」のAですが、それこそ「別の可能性(alternative)」のAかも知れないな〜、なんて思います。可能性体としての、もうひとつの世界です。

▼「脳内AR」

…と話がちょっと飛んでしまいましが、僕はこの「幻覚を見る」というのは伯龍の役割だけでなく、「能を観る」ということはそういうことなのではないかと思うのです。

野上豊一郎は「ワキは観客の代表だ」と言いましたが、観客も代表であるワキとともに幻覚を楽しむのが能ではないかと思っています。

能の舞台の上に、世界を再現するような大道具を設置しないことも、照明を使わないことも、効果音を使わないことも、すべて観客の幻覚を期待している。

ワキとともに花を見、音楽を聞き、香りを聞く。三保の松原の波の音を聞き、天に昇る天女を幻視する。それが能の楽しみ方なのです。実際にそのように楽しまれている方もいらっしゃるようです。

「え〜、そんなのできるわけないじゃん」という方。

実は"日本人"(←括弧付)は、この幻視がとても得意な人たちなのです。

子どもの頃、そろばん教室で暗算をした人は思い出してください。読み上げられる数字を、空中のそろばんに足していき、そして最後はその空中のそろばんを見て答えを言ったではありませんか。

お寺でワークショップをしたときに「障子の桟があると、そろばんのようでやりやすいです」とある小学生が言っていました。

障子の桟という「現実」の上に、そろばんの珠という「幻」を重ねる。まさに「AR」です。

ぜひ、みなさまもシンプルな能舞台という「現実」の上に、漁師とともに三保の松原の景色や松籟という「幻」を楽しみ、あるいは中天高く上っていく天女とともに空中遊覧すらをも楽しむ、そんな能の楽しみ方ができるようになってください。

「脳内AR」、それこそ能の楽しみ方です! 

▼天籟能、いよいよ近づいて来ました。

8月7日(日)です。

お待ちしておりま〜す!今回は会場が広いので、お席もありますし、当日券もあります。詳細はこちらで〜。

http://watowa.blog.jp/archives/51460046.html