シテ装束を着る青空能『羽衣』は、能の中の能といわれている名作です。

「もし、この世の中に一曲だけ能を残すとしたらどれにするか」というアンケートを、能の雑誌で取ったことがあったのですが、その時も堂々の一位!

そのくらいの名曲です。

ところが、この『羽衣』、なかなか不思議なことがいっぱいあるのです。それをこれからお話してみたいと思うのですが、まずは物語を簡単に紹介しておきましょう(ご存知の方は飛ばしてください)。

ある春の朝、漁師「伯龍(はくりょう)」が浜に出ると美しい衣が松にかかっていた。取って帰ろうとすると天女に呼び止められ、「それは天人の羽衣、人間に与えるべきものではない」といわれる。

漁師が「天人の羽衣ならば、なおさら返すことはできない」というと、天女はみるみる衰え始める。かわいそうに思った漁師は衣を返すことにするが、その代わりに「天人の舞楽」を舞ってくれと頼む。衣がなくては舞えないという天女に、漁師は「衣を返したら舞わずに天に帰ってしまうのではないか」と疑う。

すると天女は「いや疑いは人間にあり。天に偽りなきものを」という。我が身を恥じた漁師が衣を返せば、天女は約束の舞を舞いつつ天上に帰っていく。

▼白鳥処女説話
 
人気の理由は、まずはその舞姿が美しいことでしょう。さすが天人の舞です。今回の天籟能でシテ(天人)をお勤めいただく梅若万三郎先生は、本当に美しいので、お楽しみに。

そして、そのテーマが普遍的だということも人気の理由のひとつです。

能『羽衣』は駿河国(静岡県)の三保の松原でのお話ですが、羽衣伝説は三保の松原だけでなく、『風土記』をはじめとして、さまざまな伝説が日本各地に残っています。ただ、多くの羽衣伝説では、天女は男と結婚をして、後年、どこかに行ってしまうのですが…。

また、「白鳥処女説話」という物語類型があります。白鳥が処女(おとめ)に化して地上に降り立ち、人間の男と結婚をするというものです。これって羽衣伝説に似ているでしょ。

そうなると羽衣伝説は「白鳥処女説話」として世界的に普遍な物語と見ることもできるのです(古い話ですがザ・タイガースの『花の首飾り』もこの類型ですし、『白鳥の湖』もこの類型の変形ですね)。

羽衣のお話は、日本だけでなく世界にも通用する普遍的な話なのです。 

▼天(あま)の羽衣とかぐや姫

この作品における最重要アイテムはなんといっても「天(あま)の羽衣」です。

松にかかっていた天の羽衣を、漁師(伯龍)が取ってしまうのですが、このアイテムがなかなか怪しい。

能の中では、羽衣は空を飛ぶためのツールとして紹介されています(「羽衣なくては飛行(ひぎょう)の道も絶え」)が、そんな単純なものではありません。

天の羽衣が日本の文学に最初に登場するのは『竹取物語』、かぐや姫のお話です。

まずは原文を紹介しますが、古文を読むのが苦手な方は無視してかまいません。

天人の中に持たせたる箱あり。天の羽衣入れり。またあるは不死の薬入れり。

ひとりの天人言ふ、「壺(つぼ)なる御薬奉れ。きたなき所のもの聞こし召したれば、御心地悪しからむものぞ」とて持て寄りたれば、わづかなめたまひて、少し形見とて脱ぎおく衣(きぬ)に包まむとすれば、ある天人包ませず、御衣(みぞ)を取りいでて着せむとす。その時に、かぐや姫「しばし待て」と言ふ。

「衣着せつる人は、心異になるなりといふ。もの一こと言ひおくべきことありけり」と言ひて、文(ふみ)書く。
『竹取物語』より

かぐや姫を迎えに来た月の使者が「天人」と呼ばれていることに、まずは注目してみましょう。

…となると、能『羽衣』の天人も、月の使者かも知れません。 

で、その天人が持っている箱の中天の羽衣が入っています(もうひとつは「不死の薬」。こちらも気になるけど今回はパス)。

使者は、かぐや姫に天の羽衣を着せようとしますが、かぐや姫は「しばし待て(ちょっと待って)」という。なぜならば、「羽衣を着てしまった人は、<心異(こころこと)>になってしまうから」というのです。「だから、その前にひとこと言いおくことがあります」と手紙を書きます。

となると「<心異(こころこと)>になる」ということは、今までのことを全て忘れてしまうということになります。「天の羽衣=忘却の衣」、すごいですね。実際にはどんな状態になってしまうのでしょう。

ということで、『竹取物語』の続きも見てみましょう。

ふと天の羽衣うち着せ奉りつれば、翁をいとほしく、かなしとおぼしつることも失せぬ。この衣着つる人は、もの思ひなくなりにければ、車に乗りて、百人ばかり天人具して上りぬ。
おお!天の羽衣を着た人は、すべてを忘れるだけでなく、「もの思ひ」そのものがなくなってしまうようです。

あんなに大切に育ててくれたおじいさんが嘆き悲しむのを見ても「いとおしい」という気持ちも「お気の毒」という気持ちも、きれいさっぱり消滅してしまう。そんな力を持つのが天の羽衣のようです。

<心異(こころこと)>になる」というのは、人間的な心がなくなってしまうことなのです。

「ひどい!」

なんて思わないでください。かぐや姫も、そして天人も、もともと人間ではない。だから人間的な心など、最初からないのです。

…というか、「心」というのは生得的なものではなく、どうも後天的に身に着けるもののようです。だから「心」がないからといって、かぐや姫や『羽衣』の天人を責めないでね。

余談ですが、漢字の「心」が生まれるのは最初の漢字の発生から300年も経ってからのこと。シュメール語にも純粋な意味での「心」に当たる言葉はありません。また、ヘレン・ケラーの自伝には、文字を知るまでの彼女には「悲しみ」という感情がなかったということが書かれています。

心がなければ悲しみもない。後悔もない。同情もない。

そして疑いも偽りもない。

だからこそ能『羽衣』の中で、「衣を返したら舞わずに天に帰ってしうまんじゃないの」と疑う漁師に対して、天人は
「いや、疑いは人間にあり。天に偽りなきものを」
…というのです。天女は、漁師の疑いが全然理解できなかった。「え、それ何?」って感じだったのです。

これは『鶴の恩返し』の中で、お金の話をされたときに、つうが「あなたの言っていることが聞こえない」というのに似ています。

そういえば、『かぐや姫』も『鶴の恩返し』も「白鳥処女説話」の類型ですね。

▼大嘗祭の天の羽衣
 
天の羽衣といえば、もうひとつ思い出すのは大嘗祭(だいじょうさい)において天皇陛下の着する「天の羽衣」。

天皇が即位した最初の新嘗祭である大嘗祭は、前の天皇の「天皇霊」を新しい天皇に移し奉る実質的な践祚(せんそ)の儀礼ともいわれています。

大嘗祭のメインの儀礼は「嘗殿の儀」と呼ばれますが、その前の「湯殿の儀(沐浴)」で天皇が着する衣が「天の羽衣」なのです。

折口信夫は、天の羽衣は、天皇が霊力を溜めて身に留めるために着用するといいますが、天の羽衣の基本機能である「過去を忘れる」ということを考えれば、人間(皇太子)としての過去を忘却する、すなわち一度まっさらな状態になって天皇霊を身に着けて天皇となるための衣だと見ることもできます。

忘却の衣である天の羽衣を身につけ、湯殿に入ることによって、すべてを水に流してリセットする。

天の羽衣、なかなかすごい。

▼月にもインドにも

天の羽衣は、能『富士山』の詞章にも出てきます。

能『富士山』でも、かぐや姫の話が語られ、かぐや姫は不死の薬を天皇に与え、自身は天の羽衣を召して神になったと謡われます。その後、帝はかぐや姫の教えにしたがって、富士の山頂で不死の薬を焼くと、煙は空いっぱいに立ち上り、雲や霞が逆風を受けて香ばしく薫り、日や月や星もまるで光が変わったとあります。

そして、富士山はなんと天竺(インド)から飛んで来た山だ、というびっくりするように新説までもが語られ、富士はそのまま天竺という秘義が明かされるのです。

富士山は、月への中継基地でもあり、天竺への中継基地でもある。

そして、富士山から月や天竺にワープするには「天の羽衣」が必須なのです。

▼ワキ、伯龍の不思議

さて、能『羽衣』のワキについてもひとこと…。

このワキには名があります。

…って、「当たり前じゃん」と思う方もいらっしゃるでしょうが、能のワキは「無名(anonymous)」であることが多く、しかもこのワキは漁師、そんなワキが名を持つというのは異例も異例、異例中の異例、大異例なのです。

しかも、その名前がすごい。

はくりょう」といいます。漢字の表記には二種類あります。

観世流では「白龍」と表記し、当流(下掛宝生流)では「伯龍」と書きます。両方とも「龍」がつく。漁師なのに…。

観世流の「白龍」は、宮崎アニメに出てきそうで、それはそれで素敵なのですが、当流の表記「伯龍」となると、さらにいろいろと妄想が膨らみます。

「伯」という漢字は、現代では「伯父さん」というときくらいにしか使いませんが、もともとは「ボス(首長)」を意味する漢字です。なぜ「伯」がボスを意味するのか。ワキの話からはちょっとそれますが、それについてお話をしておきましょう。

紀元前には、まだ「伯」という漢字はなく、「白」がその意味を表しました(ですから本当は「白龍」でも「伯龍」でも同じなのです)。

「白」は、「しろ」ですね。なぜ「しろ」がボスを意味するのか。これも2説あります。

この2説を紹介する前に紀元前1,000年くらいの「白」の文字を紹介しておきましょう。こんな形です。

白



さて、この形を踏まえて…

1つ目は、これは親指の「爪」の形だという説です。親指の爪を見てみてください。ね、こんな形してるでしょ。で、「ボス!」っていうときに親指を出したりします。親指の形がボスをあらわすようになったというのが第1説。

2つ目の説は、いやいや、そんなかわいいものじゃない。これは人の頭蓋骨だという説です。首長たちの首を頭蓋骨として保存したり、あるいは敵のボスの首も白骨にしたといいます。

ちなみに、その頭蓋骨を木の上に乗せて打つという形が「樂(楽)」、音楽のことです。古代中国における音楽というのは、先祖や敵の英雄の頭蓋骨に皮を張って打ち、その霊を招くためのものだったようです。

これが「楽」の古い漢字です。

楽



▼龍を飼う人

話が横道に逸れたので戻します。

まずは「白(伯)」はボスという意味でした。

では、「伯龍」は龍の中のボスかというと、彼は龍ではなく漁師なので、それはちょっと違います。

ここで思い出したいのが「伯楽」という言葉です。

人を育てることを上手な人を「名伯楽」といったりします。「伯楽」というのは馬使い、馬を育てる人です。

…となると「伯龍」は「龍使い」、龍を育てる人という意味になるでしょう。

「え〜、龍なんて、ただの想像上の動物なんじゃないの」

いえ、いえ。古代中国には龍使いはいました。たとえば漢帝国を創った劉邦(りゅうほう)の祖先である劉累(りゅうるい)は、自分が飼っていた龍の肉を食べたということで罰せられています。

唐の韓愈が『雑説』の中で次のような文を書いています。

「まず、この世の中に伯楽がいて、それから千里を走るような名馬が生まれる。千里の馬というのはどこにでもいるが、伯楽はそうそういない(世に伯樂あり、然る後千里の馬あり。千里の馬は常にあれども、伯樂は常にはあらず)」

伯楽ですらそんな貴重な存在だったのですから、伯龍(龍使い)=ワキなんてすごすぎきます。

考えてみたら、ほかの漁師たちには見つけられなかった(というより、おそらくは見えもしなかった)羽衣を見つけることができたり、大口というすごい装束を着たり(今回は着流しでするかも)、このワキのただもの感はハンパないのです。

※余談ですが、「伯」というのは「覇」にも通じます。伯王は覇王でもあるのです。

(続く…かも)

※『羽衣』と『真田』が上演される8月7日(日)の「天籟(てんらい)」能の会。お待ちしております。

天籟能の会のおしらせ→http://watowa.blog.jp/archives/51460046.html