論語キーワードシリーズの第二弾、「過ち」の続きです。

前回は「過ち」とはどういう意味かを考えました。

詳細は前回のブログをご覧いただくことにして、簡単にいえば、「過ち」とは、ある状況において身についてしまった「過剰」なるものなんじゃないか、というのが前回の話です。

それはたとえば「子供時代」とか「思春期」とかいう時間的なことの場合もあれば、あるいは「日本」とか「銚子(あ、僕の出身地)」とかいう空間的なこともある。本来、それは次に行く時に、通過儀礼とか、あるいは関所とか、そういうところを通過するときにうまく払い落とすのだけれども、それが果たせなかったときに(次の社会からすれば)「過剰さ」として身に残ってしまうことがある。

そんな身に残った過剰さが、次の社会に行ったとき発動したもの、それが「過ち」なんじゃないかと思うのです。

で、その「過ち」は『論語』によれば「改める」ことによって消失してしまうのですが、この「改」というのは、いま私たちが使っている「あためる」といってすませてしまうほど単純なものではなく、どうも何かの秘儀らしい、それを今回は見ていきましょう。

●「改」の意味

「過ち」を消失させてしまうという、「改」という秘儀、それはどんな儀礼だったのか。まずは「改」の字義を見てみることにします。

「改」の字は甲骨文の中にもあります。

が、ほんの数例。しかも前後の関係からその語源を想像できるというようなおいしい文脈の中では使われていない。ただ、ひとつだけいえることは何かの儀礼ではありそう(生贄を焼くという儀礼のすぐ近くで使われている)。

それよりも甲骨文の中では(そして金文でも)、この字(改)の左側が「巳」になっていることに注意!です。いまは「己」なのですが、昔は「巳(へび)」だったのです。右側(攵)は鞭を持って打つ形です。

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さて、そんな形の「改(巳+攵)」ですが、語源にはやはり2説あります。

●「改」の語源説(1)蛇を打つ儀礼

(1)蛇を打つという儀礼

まずは白川説です。

この字は「蛇形のものをうつ呪儀で、これによって自己に加えられた呪詛を変改することができるとされた」と書きます。

蛇を打つことによって自分の呪詛を変えるという儀礼があったかどうかは(少なくとも僕は)ちょっとわからないのですが、まあ、あるかも、とは思います。すみません。ちゃんと文献に当たっていません。本か何かにするときには、ちゃんとあたりますね。

でも、祭祀の「祀」の字が示すように、「祀(まつ)り」と「巳(へび)」との関係は深そうです。蛇は呪的な動物なのです。

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また、蛇を打つという習慣は、いまでも世界各国で見ることができます。大蛇(おろち)退治だって、その流れと見ることもできますね(本居宣長も似たようなことを言ってる)。

そうそう、甲骨文の中で「改」という字は少ないと書きましたが、たとえばこんな字は、もうちょっと多く見つけることができます。

ta_koukotsu

鞭を持つ手を除くとこんな字になります。

ta_hebi

同じ蛇でも頭が大きい。そして周りに点がついている。この点は、この蛇が海蛇とか川蛇とかいう、水に棲む蛇だということを示すか・・。あるいは甲骨文字でこういう点は血をあらわす場合が多いので血かも知れない。

この文字、ふつうは次の字が当てられるます(現代ではほとんど使わない字)。

ta_moji

で、この文字は生贄を引き裂いて祀る儀礼のようで(なら点が血っていうのもいいかな)、そうなると後述(2)の追儺(ついな)にも似てきます。

●「改」の語源説(2)鬼や魑魅魍魎を打つ儀礼

(2)鬼や魑魅魍魎を打つ

「巳」という音(オン)が「魑」とか「魅」と通じることから、蛇ではなく鬼や魑魅魍魎を打つ儀礼ではないかという説もあります。こちらは加藤、赤塚説。

鬼や魑魅魍魎を打つなんて、蛇より荒唐無稽っぽいですが、実はこれは伝統があって『礼記(らいき)』(月令)にも出てくる「難(な)」、日本でいえば追儺(ついな)です。節分の豆まきのもと。

たとえば月令の季春(3月)の項には「九門に難(な)し、磔攘(たくじょう)す」とあります。都城の九門で追儺(ついな)、すなわち鬼やらいを行い、牛とか羊の生贄を裂いて磔(はりつけ)にし邪気を退散せしめるのです。

生贄を裂いて磔なんて<它攵>にも似てるでしょ。

季冬(12月)には、「難(な)」の儀礼を大いに行い、さらには土牛を作って寒気の去ることを祈るとあります。

ちなみに『周礼(しゅらい)』(夏官)には、熊の皮をかぶり、黄金の四つ目の面をつけ、黒い衣に喪すそを身に付け、戈(ほこ)と盾をもち、百隷をひきいて鬼やらいをする「方相氏」という職掌が書かれています。

熊の皮をかぶって四つ目の仮面だなんて、こっちの方が鬼みたい。島根県の古代出雲歴史博物館で十六目の仮面を見ました(クリックで拡大)。これはヤマタノオロチの仮面。八つの頭で目が二つだから十六。

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これもオロチ(大蛇)だから蛇ですね。

●「打つ」といってもいろいろあるよ

「改(巳攵)」というのは蛇説にしろ、鬼(魑魅魍魎)説にしろ、何かを打つことによって、かけられた呪いを解くという、そんな儀礼のようです。

そうか!「過ち」とはかけられた呪いだったんだ。よかった。過ちを犯した僕が悪かったわけじゃないんだ!

なんていい気になっていると大変ですが・・・しかし、となると「過ち」を改めるというのは、ただ口で「はい、改めます」と言うとか、心で「次回からは改めるようにしよう」と決めることではなく、「打つ」という動作を伴った身体的儀礼によって、それは行われるということのようですね。

「打つ」ということから、たとえばそれは「鞭打ち」なんかもその系統のものかも知れません。よく、狐憑きの人とか、そんな悪霊を追い出すときに聖なる植物で打ったりします。また、教育の罰に鞭を使うことは不思議と世界共通です。教育の「教」の右側にも鞭を持つ手「攵」がついているように、教育も「改める」と関係があります(当然!)。

後妻(うわなり)打ち」なんかもこの系統かな。打ってしまえば、あとはすっきり!

先生とか師匠とか親などが怒鳴ったりするもの「打つ」と関係がある。

「呵(か)ッ!」という語のは「可」が入っているでしょ。「可(カ)」というのは横隔膜を一瞬にして強く振動させる、すなわち打つことによって出る音。

「歌」という字の中にも「可」はあります。日本語の「うた」は「打つ」から来たという説もあります。

「打つ」というのはただ殴るというのではなく、実は呪的行為だったんですね。

でも呪的行為ならば痛くなくてもいいじゃん、と思うでしょ。で、それを実現するには、鞭ではなく柔らかいもので打てばいい。神社のお祓いとかね。紙でさらさらってされちゃう。

あるいは蛇を打つとか、その人の身につけていたものを打つとかという代理的な打つも生まれる。これは絶対痛くない(が、心は痛い場合がある)。

身体を打つでも代理物を打つでも、ともに大切なのは「呪的行為」としての打つということ。ただむやみに打てばいいというものではない。どこかに聖性、非日常性がなければならない。そんな聖性がベースになって打つ身体儀礼が「改」なのです。

何かを打つことによって、祓いが完成するのです。

●「改」とは呪的に変更されること

そうそう。

「巳」が「己」に変わったとき、音も「シ」から「カイ」に変わります。

「カイ」の意味は更新の「更(カウ)」です。変わること、何かが新たになること、それが改(あらた=新た)まることです。

ちなみに「更」という漢字は昔は以下のように書かれていました。

kou_kanji

この字にも下に鞭打ち=「攵」が入っています。また「変更」の「変」の下にも同じく鞭打ちが入っているでしょ。昔の漢字もあげておきましょう。

hen

「改」という儀礼によって、<呪的>に、ものを変更しうるという考えがベースにあります。

僕がよくやっちゃう過ちも、ただ反省するんじゃなくて「改」という身体儀礼を使って<呪的>に変更する必要があるんだなあ。

では、現代において呪的身体儀礼としての「改」はどうするのか。

それはまたおいおい考えていきたいと思います。一応、本稿はここまで!

ご清聴、ありがとうございました。