●今回は「過ち」

『論語』百選の章立て、第二弾は「過ち」です。

自分の人生から過ちを引いてしまったら、ほとんど何も残らないんじゃないかというくらいに過ちの専門家を自負する僕は、このテーマは「待ってました!」です。

よく過ちを犯します。一度の過ちならば許す。二度やるのは直そうという気がないからだ!

・・なんて甘い、甘い。二度どころか、三度でも四度でも同じ過ちを繰り返す。

だから『論語』の「過ちては則ち改むるに憚(はばか)ることなかれ(過則勿憚改)」とか「過ちて改めざる、是れを過ちと謂う(過而不改、是謂過矣)」なんていう句はグサリとくるのです。

が、『論語』をよく読んでみると「過ちを二度しない(不貳過)」と孔子が評すのは顔回だけ。顔回は、孔子が「自分も彼の人には及ばない(吾與汝弗如也)」というほどの高弟。となると孔子ですら同じ過ちを繰り返すということをしていたのかも知れない、などと自分の都合のいいように考えてしまう。

・・これが過ちを引き起こす元!

●「過」という漢字は3つの意味で使われる

さて、『論語』の中で「過」という字は全部で32回、章でいえば全25章に出てきます。

むろん、すべてが「過ち」という意味で使われているわけではありません。「過」は次の3つの意味で使われます。

(1)通過する

(2)やり過ぎ
 「過ぎたるはなお及ばざるが如し(過猶不及也)」

(3)過ち

全25章のうち「通過する」は6章、「やり過ぎ」はたった2章、残りの17章では「過ち」という意味で使われています。「過」の大部分が『論語』では「過ち」なのです。やはり「過」といえば「過ち」です。

●「過」の語源:二説

が、わかった気になっている、この「過ち」。本当はどんな意味なんだろう・・と思って甲骨文や金文を調べてみるとほとんどない。というか、全然ない。

白川静氏は、「これが『過』だ!」という金文の文字を揚げています。

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う〜ん、ちょっと今の「過」というには無理があるかな。

この字はちょっと置いておいて、では「過」という漢字の語源は何か。二説紹介します。

(1)呪いの秘儀

白川氏によれば、「過」という字の声符の「咼(か)」は、「残骨の上半に、祝祷を収める器(口:さい)の形を加え」た字であり「過」とは「呪詛を加える呪儀」だという。呪いの秘儀ですね。

しかも、この字は「しんにょう」が付くので道に関係する。「特定の要所を通過するとき、そのような祓いの儀礼をしたのであろう」と書かれています(字通)。

いつもながら面白すぎる解釈。

(2)通過する

穏当な加藤常賢氏や赤塚忠氏は、こうはいかない。

「咼(か)」とは同音の「夥(か)」、すなわち「多い」という意味で、「行き過ぎること」が原義ではないか。「通り過ぎる」が原義ね。これは『説文』に近い。

さて、どちらが正しいかは、それを確かめる材料が少なすぎるのでわからない。が、「あやまち」も「すぎる」も「やりすぎ」も、元はすべて同じだから、それらはすべて関連しているはずです。

でも、まだよくわからない。こういう時は「過」を「X(意味のわからない未知の漢字)」にしておいて、もう一度『論語』に戻ります。

●「X(過)」の性格2つ!

『論語』から「X(過)」にはどういう性格があるのかを見てみると、次の二つが特徴的です。

(1)「改(あらためる)」ことを求められるもの

「過ちては則ち改むるに憚(はばか)ることなかれ」とか「過ちて改めざる、是れを過ちと謂う」とかいうように、過ったら改めることが大事。

もちろん、そう簡単に改められないから、われら小人は困ってしまうのでうすが、実は「改」とは、ある特殊な儀礼をいう。そしてその儀礼をすることによって、「X(過)」は消失してしまうらしい。う〜ん、いいなあ。

これ(「改」の儀礼)については後述。

(2)党(郷党)においてするもの

孔子は「人の過つや、各々、その党においてす(人之過也、各於其黨)」と言っています。「X(過)」は個人のものでなく郷党(地縁的な祭祀共同体)に付随するもの。

個人の責任じゃないんだもん、仕方ないねって感じ?

●「過」について3つの可能性

さあ、ということを踏まえて、再び「過」を見てみますが、今度は「過ち」というところに視点を固定して、じゃあ、この字がなぜ「過ち」なのかということを考えてみると、次の3つの可能性があるんじゃないかと思うのです。

あ、その前に「過」の旁の「咼」は下の「口」の代わりに「月」にすると「骨」になるでしょ。だから白川氏は、残骨の上に祝祷を収める器の形を加え云々の説明をしました。加藤氏や赤塚氏のような穏当な説の方が基本的には好きなのですが、しかしやはりこの「骨」による呪礼のイメージはどこかに残っていると思うのです(以下は「咼」です)。

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ちなみに(1)〜(3)は各々関連します。

(1)通過の呪礼の失敗

ある特定の場所を通ったことによって憑いてしまった何か。あるいは特定の場所を通過するときに行った祓いの儀式がうまくいかなかった状態。それが「過」。

通過儀礼なんて語がありますが、そういうメタファーとしての通過だけでなく、実際に「ある特定の場所」を通過するときに呪術儀礼が必要だった、そんなことがあったんじゃないかと思うのです。

日本でいえば今でもお神輿の先頭にいる神官が辻では必ずお祓いをします。また、昔は歌枕を通過するときには必ず歌を詠んだ。そんな類の、修祓儀礼をすべき通過点があった。

そこでは祓いの儀式をしたのですが、たまにそれうまくいかないことがあった。その状態が「過」ではなかったか。

(2)土地に付随する穢れが過ち

いや、いや。通過だけではなく、ある場所にはそこ特有の<何か>がある。他の土地の人は、たとえばそれを「穢れ」と呼んだりする。そこにいるときには気が付かないし、発動しないけれども、他の地に移ると急に発動する「穢れ」。

孔子が「過ちはおのおのその党においてす」と言った、あれ。

たとえば卑近な例でいえば、外国に長くいて帰国すると、「日本って醤油臭い」と思ったりする。韓国に行くとキムチの臭いがする。でも、少しそこにいると、まったく気にならなくなる。が、帰国するとみんなから「キムチくさい」と言われたりする。

そんなの。

その土地にいるときには何でもないのに、他の土地からすると変(へん)ってやつ。

古代におけるそれは、もっと広い意味での「臭い」。地縁的祭祀共同体である「郷党」の決まりとか掟とか風習とか、そんなあらゆるものをひっくるめたものが醸し出すナニか。

若いころ(80年代)中国を放浪していたときに、交通費や宿泊費を安くすまそうとして中国人のフリをして過ごした。入国したらまずは中国の床屋さんに入り、中国の服を買い、いろいろ工夫をしてやっていると、かなりうまくいくんだけれども、時々バレルことがある。それはこの「臭い」のせい。

だから孔子は廟に入ると事々に問うたし、執礼のときには特別な言語である「雅語」を使ったりした。郷に入っては郷に従う。

で、通常はA地点とB地点との境を「通過」する時点で、それを祓うんだけれども、それがうまくいかないことがある。それが「過ち」になる。

(3)はみ出してしまったもの

さらには、その穢れのようなものが身についた状態。このデッパリの部分も「過ち」。

それは「過」という語が示すように、身の内に修まらず、ちょっと出っ張っちゃった状態。

(今は知らないけど)当時の中国に長くいたりすると、肉の骨などを机の上に食い散らかす習慣がついた。それを帰国後にすぐ直すのは難しく、周囲からは「お前の食い方、汚いよ」とか言われた。

帰国子女なんかもよく体験する、目立ちすぎちゃう状態もこれ。アメリカという国ではそれは普通の状態だったけど、日本に戻ると言動が「過剰」ではみ出し、すなわち「過ち」になっちゃう。

あるいはADHDの子とかもそうかも知れないし、孔子の弟子の子路なんかもそうだったのかも知れない。

土地だけでなく各家庭での躾や、さまざまな条件での生育過程において、どうもいま生きている共同体にとっては好ましくない言動をしてしまうこともある。それもこれ。あるいは所謂「大人社会」のルールからすると<はみ出し>だとか、そのほかにもたくさん、まあ、いろいろな<はみ出し>、過剰さが「過ち」。

これをよく僕はやります。

●罪と過ち

さて、いろいろと書いてきましたが上記の3つは実はほどんと同じです。

「過ち」とは(正確にいえば)自分のせいではない!

これって大祓の祝詞の中の罪の定義、「天の益人が過ち犯しけむ罪科」、天にいるすばらしい人々があやまって犯しちゃった罪っていうのに似ているね。

で、大祓ではそれは大声で唱えて祓うことによって消失してしまうのと同じように、「過ち」も「改」という儀礼をすることによって消失してしまうのです。

じゃあ、「改」という儀礼とは何か。

それは次回に書きます。

次回、ちゃんと書くことを期待して!

が、過って忘れちゃったらごめんなさい。