先日の寺子屋は「祈り」をテーマに行いました。

いま論語の中から百句を選ぶという作業をしているのですが、まずは10の章を立て、その中で10句ずつ選ぼうと思っています。で、まずは章立てをしちゃおうというわけで、近くにいる知人を中心にいろいろ聞き回っています。

論語の中から20数個のキーワードを選び(「天」とか「仁」とかね)、その中で興味あるのはどれ?10個選んで、といってやっています。で、ベスト10は今のところ以下(まだ途中)。

「遊、鬼、道、過、天、友、悪、老、時、祈」

これらが章になったら、なんか論語っぽくないでしょう。全然、違う本みたい。

で、この中から寺子屋でひとつずつやって行こうと思っているのですが、先日、「祈り」をしました。なぜ最初にやったのが祈りかというと、これはあまり深い意味はなく、祈りの謡をでっかい声で謡いたいなあ、と思ったからでした。

謡ったのは『黒塚(安達原)』の中の祈りの部分です。次回も続きを謡います。

さて、それはともかく「子、怪・力・乱・神を語らず」という論語の章句から、孔子は神秘的なこととはまったく関わりを持たなかった人だ、と思っている人もいますが、そんなことはありません。孔子のいう「礼」とは祖霊と出会うための方術ですし、孔子一門の「儒」とは、巫祝、すなち後代の陰陽師にも似た人々だったのです(という説もあります)。

祖霊を招いたり、祈祷したりという、現代から見れば神秘的事項に属することも、孔子にとっては当たり前のことだったのです。

ただ、ことさら「怪・力・乱・神を語らず」と言ったのは意味あることで、これをいま詳述していると話が遠くの方に飛んでいってしまうので、また今度ということにしますが、しかしいま巷に溢れるちょっと怪しいスピリチュアルなことは孔子は避けたと思われます。

例の「義を見てせざるは勇なきなり」の句の前にある「その鬼にあらずして祭るは諂うなり」などというのなんかがそれを示します。

●孔子の祈り

いまの日本人は「神様」というと白い服を着て、長いヒゲを生やして、おじいさんで・・という、キリスト教だか、道教だか、神道だかわからないカミサマをイメージすることが多い。で、「おいのり」というと、両手を組んで膝をつけて「天にまします」という、あれをイメージする人が多い。

神社のそれはお祈りではなく、お願いかな。

じゃあ、孔子の祈りはなんだ。

『論語』の中に「祈」という漢字は出てきません。「いのる」というのは「祷(示+壽)」という漢字を使います。現代でも「祈祷」というときに、この漢字を使いますね。

孔子の病気が重くなったときに、弟子である子路が祷ることを孔子に薦めるのですが、そのとき孔子は「丘の祷ること久し(丘之祷之久矣)」、もうずっと祷ってきたよと子路に言うのです。

怪力乱神を語らなかった孔子にとって、しかし「祈り」は日常のことだったのです。

さて、ところが「祈」の字も「祷」の字も古代の文字の中にはありません(ある、という説もあります)。

じゃあ、どんな漢字を使っていたか、それを甲骨文から探してみましょう・・ということで寺子屋では甲骨文を紹介しました。

古代人が祈るのは、まずは収穫(稔り)です。健康とか成功とか恋愛なんかよりも、まずはお腹がいっぱいにならなければ話にならない。だから豊作を祈るのです。収穫(稔り)を祈ること、それを「祈年」といいます。

「年」が稔りです。「年」と「稔」は発音が同じでしょ。が、「祈」という漢字がないのですから、むろん「祈年」という語もありません。

じゃあ、何か。それを次の甲骨文から見てみます。

祷り甲骨

●「いのり」はどの字?

寺子屋では、この甲骨文の中で「いのり」を意味するのはどの文字か?ということを皆さんに探してもらいました。これはなかなか難しかった。

形が似ているのはこれ。これが「いのり」だという意見もありました。

kawa

が、残念ながら違います。

なかなか当たらないので、「じゃあ、この字は何だ?」ということで、以下の字が何かを考えてもらいました。上の甲骨文のどこにあるかわかりますか。

nen

まずこの字の上の部分(nogi)が「禾(いね)」だということを話し(似てるでしょ)、この下に「子」が付く、以下の漢字は何だ?と聞きました。

kisetsu

すると中学生の女の子が「季!」と即答。正解!

「季」とは「禾(いね)の妖精」かも、なんて話をして、じゃあ下の「子」が成長して「人(成人)」になるのは何だ?季節が成長すると何になる?なんて聞いていたら、ある方が・・

「年!」

正解。

もう一度、さっきの漢字。

nen

これが「年」、すなわち「稔(みの)り」です。となると今、探索しているのは「祈年」に対応する語なのでこの「年」の上にある漢字、すなわち以下の文字が、それなのです。

inori_koukotsu

今の漢字に直すと、これです!

inoru_small

うーん、今の漢字って言われても・・ってくらいに、あまり見ない漢字です。PCのフォントには入っていない(から、これは画像)。小さい漢和辞典にもないかも。大漢和にはむろんあります。

が、この字を「いのる」と読んでいいかは、諸説あるところで大漢和は『説文』の説を載せていますので「はやい(疾い)」とかいう意味。奔走の「奔」に似ているでしょ。

白川静氏などは「もとむ」とか「まつりす」とか読んでいて、祈るに近い。で、赤塚忠氏が「祈年」という熟語との関係から「祈る」と読んでいいんじゃないの、と言われています(『中国古代の宗教と文化』)。

寺子屋では、ここからこの甲骨文を解読していったのですが、長くなるのでここでは省略!

●玉串奉奠と「いのり」

inori_koukotsu

さて、じゃあ、これは何の形なのか、というと「植物」を逆さにした形。

能の狂女が笹を持つように、植物は何かが依り憑くための依代(よりしろ)です。神や祖霊などは植物にわらわらと寄ってきて、そしてそれを持つ人に憑依する。

能では笹が憑依植物としてよく出てくるけれども、榊も出てくる。ふつうは「神の木」という名を持つ「榊」がその代表かな。

じゃあ、なぜ逆さなのか。

これは玉串奉奠をした人なら、あ、同じだ!と思うでしょ。玉串奉奠では、最初に榊をいただく時には普通の向きでいただき、それを神前に捧げるときには、逆さにする。

tamagushi

「さかき」という名は、神域と人間界との「境」にある木という説とか、聖木をあらわす「栄木」だとか「賢木」だとかいろいろありますが、ひょっとしたら逆さの木の「逆木」かも。

でも、実は「境」も「栄」も「賢」も「逆」も、そして「咲く」も「裂く」もみんな一緒なんですね。神と人との境界を一時的に引き裂く。まるで能管のヒシギのような役割です。その引き裂かれた通路である揚幕を揚げて、産道のような橋掛りを抜けて神霊はここに出現する。

●祈りとは「型」

もうちょっと日本の話をすると、たとえば神社に行ってお参りをする。

お賽銭をちゃらんと入れて、まず二礼。それから二回拍手を打って、もう一度、礼をする。

あれ?お願いをするヒマがない。

そうなんです。参拝の型の中には「お願い」は入っていない。で、それは当たり前なんです。

「心だに誠の道にかないなば 祈らずとても神や守らん」という句があります。もし、本当の祈りならば、いつもそのことが心に引っかかっているわけだから、ことさらお願いをする必要はない。手を合わせている間だけ、「あの人と恋人になれますように」なんて言っているようでは甘い。そのほかの時には違うことを考えているわけですから。

昔の話。

男の人が「いつも君のことを思い出していたよ」と女性にいうと、女性から「思い出すということは忘れていた時があったんでしょう。いつも思っていたならば、思い出すなんてことはなかったはずよ(思ひ出すとは忘るるか 思ひ出さずや忘れねば)」なんていうのがあります(『閑吟集』)。

怖い、怖い。

祈りとは願いとは違うのです。自分の心の誠を「型」として神様に示すこと、それが祈りです。だから甲骨文字の祈りも、「逆さにする」という行為つきの植物なのです。

でも、そんなんで心の誠を見られちゃったら大変かも・・・。

ちなみに「祈りても験(しるし)なきこそしるしなれ 祷るこころに誠なければ」という歌もあります。

かわいいのは一休禅師のこれ。

「心だに誠の道にかないなば 守らぬとても此方(こち)はかまわぬ」

「こちはかまわぬ」っていうところが一休さんらしい。

孔子もいいます。

「天に罪を得たならば、どこに祈っても無駄だ(罪を天に獲(う)れば、祷る所なきなり)」

祈りとは、心の奥深くに沁みこむまでそれを思うこと(念)で、そうなると全身がそのまま「祈り」になる。で、その祈りの身体で、祈りの「型」を行うこと。それも祈り。もちろん、そんな型をしていないときにも、祈りの身体である体は、常に祈り体制!

それが孔子の祈りなのかも。

だから子路が「病気平癒のために祷りましょうよ」といっても、「俺は常時、祷っているもんね」と孔子は言えちゃうんですね。

ちょっと尻切れトンボですが、今回はここまで・・・。

詳しくはまた本になったときにでも(笑)。

次は「過ち」について。