『古事記』は、日本最古の歴史書といわれていますが、その中には漢字の用法の誤りがいくつかあります。その中でも「故」の誤用は面白いので、それをちょっと・・。

「故」は「ゆえに(because)」という意味です。『古事記』では「かれ」と読みます。

Aした→「故(かれ)」→Bした

となれば当然、Aをした→「から」→Bをした、という用法が一般的です。お腹がすいた→「から」→ご飯をたべた、とか、むかついた→「から」→殴った、とか。

『古事記』の中でもむろんこのように「because」という意味での使われ方もないことはないのですが、でもそれよりずっと多くのところで「故」は「and」の意味で使われているのです。

「で、で」・・って使われ方。

お腹がすいた→「で」→ご飯をたべた、とか、むかついた→「で」→殴った、とか。理由のようにみえて理由ではない。

ま、正確にいえば、これは誤用というのには当たらない。

「故」の漢字そのものにも「and」の意味もあります。でも、接続詞としての使い方としては周代の金文ですら「ゆえに」であり、やっぱり「ゆえに」がその基本の意味です。

★ちなみに金文では「古」を「故」に使う。

◆◆◆◆◆

『古事記』、特に上つ巻を「故」に印をつけながら読んでいくと、「どうも、古代の日本人には<ゆえに>と<そして>の違いってなかったんじゃないか」と疑いたくなることがあります。そのくらいにめちゃくちゃ。

・・というよりも、<ゆえに>を引き出す<WHY?>が、そもそも少ない。

ちなみに「なぜ」という語自体は江戸も後期(だったかな)に生まれた語で、それまでは違う表現(なにゆゑ、とか)が、いろいろ使われていました。が、それはともかく、その前に<WHY?>って何なんだろう?ということを考えてみましょう。

<WHY?>は理由を尋ねる疑問詞である、ということで安心してはいけない。じゃあ、なぜ人は理由を尋ねるのか。

と考えると、これまたいろいろあるのですが大別すると次の三つになります。

(1)問題解決のため
(2)自分が安心(納得)したいため
(3)人を責めるため

胸に手を当てて考えればすぐにわかるように、人が<WHY?>を使う理由は(3)→(2)→(1)の順です。純粋な(1)なんかはほとんどない。

(1)のフリした(2)、(1)のフリした(3)なんかは、よく見かける。

◆◆◆◆◆

「(2)自分が安心(納得)したいため」の<WHY?>の人に対しては、ちょっと面倒だけれども、気長に説明すれば落着する。

でも、非常に面倒くさいこともある。その人の論理の筋道と、普段の自分の論理の道が全然違う場合は、本当に大変。相手の論理に合わせる必要がある。同じならば最初っから「なんで?」って聞かずにわかるから、まあ大変なのは当たり前。

その人が納得できるようなアプローチを探って、「わかんない」って顔をしてたら、違うアプローチからまた攻めて・・。

でも、そんなことをしているうちに、話がだんだんウソに近くなってくることもある。そして、限りなくウソっぽくなったあたりで相手が納得する・・なんてこともよくある。

というか「安心」する。ああ・・。時間のムダであることが多い。

が、もっと面倒なのは「(3)人を責めるため」に<WHY?>を使う人。この人をさらに分けると、それをわかってやっている超イジワルな人と、自分では意識せずにやっている人がいる。

失敗やイタズラをした子供にお母さんが「何度言ったらわかるの」と言っているときなどは後者の好個の例。子供が「あと10回!」などと言ったらぶっとばされるけど、そういわれるまでお母さんは、自分が責めるために質問しているということにあまり気づいていない。

でも、こういう人に「スミマセン」と謝っても、「謝ってほしいんじゃなくて、私が聞いているのは後、何度いったらわかるのってことなの!」なんてなる。全然、違う道を歩いているので、どこまでいっても交わらない。

(2)の人と(3)の人に対して、孔子は「道、同じからざれば相ともに謀らず」と言っている。親子は仕方ないけど、一緒にお仕事はしたくない。

◆◆◆◆◆

話を戻します。

「故」が「ゆえ」という意味に使われていないということを最初に指摘したのは本居宣長さん。『古事記伝』の中で書いています。が、彼は疑問を提示しただけで後は知らんぷり。

それ以降の注釈者の方たちも、この問題はあまり重視していない。

不思議だ。

ちなみに『古事記』の<WHY?>は、海原を治めよという命令を無視して、いつまでも泣いているスサノオに父、イザナギが「なぜ(何由かも)命令したところを治めず、いつまでも哭いているのだ」と尋ねるところ。

それに対してスサノオは「妣(はは)の国である根の堅州国に行きたいんだ!」と答え、それならばとイザナギはスサノオを追放する。

で、このエピソードを見ると、父の<WHY?>は追放のための<WHY?>であり、(3)のようにも見えるけど、でも、これはスサノオの希望を叶えた追放であり、そういう意味では(1)問題解決の<WHY?>であるといえるでしょう。

◆◆◆◆◆

それに対して『旧約聖書』を見てみます。

『旧約聖書』の最初の<WHY?>はカインとアベルのところに出てくる。

*************
4:1 さて、アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、「わたしは主によって男子を得た」と言った。
4:2 彼女はまたその弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。
4:3 時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。
4:4 アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、
4:5 カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。
4:6 主はカインに言われた。「【どうして】怒るのか。【どうして】顔を伏せるのか・・」
*************

・・ここです。

キリスト教徒ではない僕などは、この質問は「わかっているクセに【どうして】なんて聞くのはひどい!」と思ってしまうのです。まさに(3)の質問です。

で、さらに追い討ちをかけるように次のようにいいます。

***********
4:7 もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」
***********

で、その予言通りに、「カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した」となるのです。

カインにしてみれば、主によって最初から仕組まれた罠に嵌められたって感じ。しかも「どうして、どうして」と矢継ぎ早に質問を浴びせかけられ、答えに窮する。

こういう問いは『旧約聖書』には、かなり多いのです。

だからって西洋と東洋の違いが云々なんていう気はないのですが、しかし「故」を元にもう一度『古事記』から奈良、平安、鎌倉、室町と読み直して、日本人の論理って何だろう?って考え直してみたい気がしています。

ああ、時間が・・。