『DEN』という雑誌がありました。

1999年7月に創刊の古典芸能の雑誌で、10年間続き、2009年7-9月号で休刊になりました。最初は隔月刊だったのですが、途中から季刊になり、それでも50号が出ました。

国際的な免疫学者の多田富雄先生らが中心に、渡辺さんや竹下さんなどが実務を行って頑張って出されていました。写真は、森田拾史郎さんです。

ここら辺に関しては今度ゆっくり書きます。

さて、私(安田)も第1号からずっとエッセイを書いてきました。執筆陣の中では唯一、一号も落とさなかった!ということだけが自慢の気楽なエッセイですが、実はここに書いたことが『ワキから見る能世界(NHK出版)』や『身体感覚で「論語」を読み直す(春秋社)』に活きています。

『DEN』連載のときには、いつもギリギリまで何のアイディアも浮かばず、でもギリギリになると、舞台で座っているときに「あ、そうか」といろいろなことが浮かんできました。締め切りと舞台がなかったら、できなかった連載です。

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さて、その連載ですが、読者の方もあまり多くなかったので、せっかくなのでブログで再録したいのですが、と元DENの竹下さんに相談したら、「どうぞ、どうぞ」というご返事をいただきました。

元のデジタル原稿はすでになくなってしまっているので(僕自身も書いてしまったものには興味がないので、だいたい捨てるか消去してしまいます)、雑誌をスキャニングしながら掲載していきたいと思っています。

スキャニングとOCRを使って手作業でコツコツやっていきますので、変な文字のミスとか、変換間違いとかがあるかも知れません。どうぞご容赦を(しかしご指摘いただけると助かります)。

また、いま読むと書き直したいところもあるのですが、明らかな誤り以外はそのままで行きます。

『奥の細道』もまだ終わらないのに!とお思いの方もいらっしゃるでしょうが、そちらもちゃんとやっていきますので、どうぞご寛恕のほどを。

さて、連載のタイトルは「血ワ牛肉マウ」です。

これは竹下さんがつけてくれたタイトルで、「血沸き肉踊る」を僕がワキであることと、やはり能だから踊るではなくてマウだろうということでのタイトルです。

では、今回は第1回目です。

はじまり、はじまり〜!

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【血ワ牛肉マウ●第一場】
<心のあばら屋が見えてくる>

酒席でカラオケに盛り上がっている最中に、白けたもう一人の自分がふと顔を出す。あるいは、わかっちゃいるけどやめられない悪癖に自己嫌悪の日々。自分ではどうしようもできない、自己の裏側にうごめくこの心の働きは、意識の背景として、時には意識以上に私たちに影響を与えることがあります。

無意識や下意識よりはもう少し広い範囲で、それを「背景意識」と呼んでみます。

古来の表現者たちも、意識と背景意識の双方を同時に表現したいという欲求をもったに違いありません。絵画ならば、背景の中にヒントをこっそり隠しておくこともできますが、音楽や言語芸術のような時間とともに流れていくものでは、なかなか大変なことです。

昔からいろいろな方法が試みられていますが、まず西洋に目を向けて、ワグナーの大作『ニーベルングの指輪』の仕掛けをみてみます。

この作品では、背景意識を表現するのにライトモチーフ (示導動機)という仕掛けを使っています。ライトモチーフは、音楽によって人物や事物を象徴します。これはプロレスラーが登場する時に鳴るテーマに近いのですが、ライトモチーフは人物や事物だけでなく、そのものの感情や思考、さらには下意識や背景意識までも象徴するのです。

『指輪』全曲中、ライトモチーフを使って背景意識を表現しているところで最も有名なのは、『ワルキューレ』におけるヴォータンの怒りのシーンです。

神々の世界の支配者であるヴォータンは、自分の命令を無視した愛娘の女騎士(ワルキューレ)ブリュンヒルデを烈火のごとき怒りをもって叱ります。その時に演奏される音楽や歌は、当然激しい怒りに満ちたものです。

しかし、よく耳を澄ますと、その怒りの響きの奥に、バスクラリネットとファゴットの、音としては極めて控えめな、しかし深い響きをもった楽器によって演奏される「ヴォータンの挫折」と呼ばれるライトモチーフを聴くことができます。

その仕掛けによって、私たちは当のヴォータンですら気づいていない、彼の背景意識を、そこに読み解くことができるのです。

日本の文学・芸能では、掛け詞、縁語、枕詞、序詞といった和歌の修飾技法を使います。和歌が生んだこの技法は、能という対話形式の長詩を得て、主題とは直接関係のないもう一つの世界、あるいは存在しないはずの風景すらもソフトフィルターのかかった半透明の映像として観客の脳裏に描き出します。

例えば、能『藤戸(ふじと)』★の前半で老女の思いを地謡が述べる部分。

『藤戸』では、能が始まってすぐに緊張した場面が現れます。わが子を殺した佐々木三郎盛綱に「恨み申しに参りたり」と詰め寄る老女。それを「音高し何と何と」と知らぬふりをする盛綱。そして、それに続く老女のクドキ★★。

地謡は、その緊張感を受けて老女の思いを静かに謡います★★★(下歌(さげうた)、上歌(あげうた))。地謡の詞を一語一語、心の中に反射しながら、いつの間にかシテの心中に引き込まれていく観客は、上歌に入るやそこに突如現れる異質な風景に驚きます。

それまで瀬戸内海の島廻りや児島の海岸の情景など、海辺の風景が占めていた観客の脳裏に幻のあばら屋が突如出現するのです。

これは、ここまで一貫して使われてきた「海」系の用語に対して、「山」系の用語が修辞の詞として使われ出したがために現出した幻です。この荒野に見捨てられた一軒のあばら屋、それは老女の心の風景、背景意識が実体化したものです。そして、上歌(あげうた)後半にはその景色は消え去り、再び海辺の景色が現れますが、しかし荒野のあばら屋の残像は老女の心の内を象徴する通奏低音として、いつまでも鳴り続けるのです。

能にしろワグナーにしろ、このような読み解きの楽しさを得るためには、かなりの予習が要求されます。しかし、私たちがその苦行も厭わず舞台に通い続けるのは、思いも掛けない新しい発見をし、かつその読み解きに成功した時に生じる脳の感情半球と知的半球の結合のもたらす歓喜の瞬間を忘れることができないためではないでしょうか。

<1999年7月号>

********注********

★能『藤戸』
<前シテ>漁夫の母 <後シテ>漁夫の霊
<ワキ>佐々木三郎盛綱 <ワキツレ二人>従者
源氏方の武将である佐々木三郎盛綱は、藤戸の先陣をしたその恩賞に、備前の国の児島をもらった。日もよい今日、その島に領主として入ったが、そこにひとりの老女が現れる。

彼女は「罪もない我が子を海に沈めた恨みを申しに来た」と盛綱に詰め寄る。盛綱は最初、「そんなことは知らない」と突っぱねるが、よく聞けばその子とは確かに、盛綱が刀で刺し殺し、海に沈めた漁師。

この海は月の出によって浅瀬が変わる。そこを知れば敵には知られずに海を渡ることができる。漁師を盛綱にそのことを教えた。その知識によって盛綱は先陣を切ることができたのだが、同じことを敵に知られないように漁師を殺したのであった。

盛綱は、母にその時のありさまを語り、彼の妻子を世に立つようにしよう、もう恨みを晴らせというが、母は「自分もわが子と同じように殺せ」と盛綱に詰め寄り、その刀に手をかけようとする。盛綱に払われた母は「我が子を返せ」と人目もはばからず臥し転び泣き続ける。

母をなだめ家に帰した盛綱らが、彼の男の霊を慰めるために法事を行っていると、水の中から水死した男が現れ、水底にすむ悪竜の水神となって、盛綱に恨みをなそうとする。

が、法(のり)の力で弘誓の船に乗り、生死の海を渡って彼岸に至り、成仏をしたのであった。

★★
なう猶(なほ)も人は知らじとなう。中々にその有様を現して。跡をも弔らひ又は世に。生き残りたる母が身をも。訪ひ慰めてたび給はゞ。少しは恨も晴るべきに

★★★
下歌「いつまでとてか信夫(忍ぶ)山。忍ぶかひなき世の人の。あつかひ草も茂きものを何と隠し給ふらん。
上歌「住み果てぬ。此の世は仮の宿なるを。此の世は仮の宿なるを。親子とて何やらん。幻に生まれ来て。別るれば悲しみの。思ひは世々を引く。絆となって苦しみの。海に沈め給ひしをせめては弔はせ給へや。跡弔はせ給へや。