今回の『論語』の本では書き残したことがいくつかあるのですが、その中で全くと言っていいほど書けなかったのが「君子」と「小人」のこと。
これについて書き始めると、もう一章か二章が必要になってしまうからです。ちょっともうこれ以上は増やせないということで、今回の本ではあきらめたのですが、ここでその概略を簡単に・・・。
概略なので例が少なくわかりにくいかも。すみません。
さあ、まず結論からいうと、僕たちが君子と小人に持っている「君子=いい人」、「小人=悪い人、劣った人」というのは間違いです。
この両者は実は全く違う次元にいる。あ、違う次元といっても<君子=いい、小人=悪い>ではありません。
そこはくれぐれも・・・。
◆◆◆◆◆
で、ここでは主に<小人>について見ていきます。
<小人>を『広辞苑(岩波書店)』で引くと、最初に日本の古典からの引用がいくかあった後、漢文の方の意味としては「徳・器量のない人。小人物⇔君子」と出てきます。
『大漢和辞典(大修館書店)』は最初の意味として出てくるのは小人=「庶民」で、これが文例も一番多い。広辞苑と同じような意味も書いてありますが、それは2番目だし、例もあまり多くない。
・『広辞苑』→徳・器量のない人
・『大漢和辞典』→庶民
・・です。
『広辞苑』と『大漢和辞典』、どちらを取るかといわれれば、漢文を読むのなら、そりゃあ大漢和だろう!・・・なのに日本人は、小人というと「悪い人」とか「劣った人」とか「不徳の人」とかいう広辞苑的イメージが強い。
僕も学校では確かにそんな風に習ったのか、小人とは不徳の人とか劣った人のようなイメージを持っていました。しかも『論語』の中の<小人>も、そうやって読んでもほとんど問題ない。
が、最初に「あれ?」と思ったのは『尚書(書経)』を読んでいるときです。『尚書』は五経のひとつです。『聖書(キリスト教のね)』でいえば『論語』や『孟子』の四書が新約聖書で、五経は旧約聖書って感じかな。
さて、その『尚書』の中に「無逸」という一篇があります。これは周公が周の成王に告げた教えということになっている篇です。周公は、孔子が夢にまで見たという人で、周を建国した武王の弟。
成王は武王の弟ですから、おじさん(周公)が甥(成王)に語ってきかせています。
この「無逸」に関してもいろいろ書きたいこともありますが、「小人」の話からはずれてしまうので今回はパス。
さて、この中で周公が殷の高宗のことを言っています。
高宗というのは、甲骨文などでは武丁と呼ばれている人で、漢字を作ったのは彼ではないか、と言われています。奥さんのひとりに女性将軍の婦好などがいます。
さて、周公は王に次のようにいっています。
「高宗は長い間、外で苦労をし、<小人>と(生活を)ともにしました」
高宗、すなわち武丁は長い間<小人>と生活をともにしていたのです。
また、次にやはり殷の王である祖甲のことに話が及ぶとさらに小人との関係が深くなります。
「祖甲は王となるのを<義>とせず、長い間<小人>となっていました(ひさしく小人と為る)」
だから祖甲は位についても<小人>の「依」を知っていた、と続けます。
この『<小人>の「依」』の「依」は「苦しみ」と訳されます。これは王引之の「依は隠なり」という注から出ていて、さらにその注の注の「隠とは<稼穡の艱難>とか<小人の労>のことを言い、今でいう<苦衷>と同じ意味である」というのによっています。
もちろん、それでいいとは思うのですが、もうひとつ「依」のそのままの意味である「よりどころ」とか「よって立つところ」と考えてみても面白い。
祖甲は長い間、自分が<小人>となっていたので、<小人>がどのようなことで苦しむのか。あるいは<小人>のよって立つところ(よりどころ)を知っていたのです、となります。
よりどころっていってもそんなに難しい意味ではなく、たとえば<小人>はマスコミのいうことを信じやすいとか、<小人>は安いものには飛びつくとか、そんなことです。
◆◆◆◆◆
さて『尚書』によれば、殷の明君であった高宗(武丁)も祖甲も<小人>と深い関係がある。高宗(武丁)は長い間<小人>の間にいたし、祖甲は自分が長い間<小人>であった。
となると、ここでいう<小人>は決して劣った人とか不徳の人とかいう意味ではなく、やはり大漢和の書くように<庶民>が適当だと思うのです。
・・が、<庶民>という訳語は決して間違いではないのですが、しかしそれだけで片付けてしまうと、その真意がうまく伝わらない。<庶民>というよりは<大衆>、あるいは<大衆性>と言った方がいいかも知れないのです。
僕たちは基本的には<大衆>、すなわち<大衆性>を持った存在です。
これは人間というものが、人との関係性においてのみ自己を規定できるという存在である限り逃れることはできないことです。
「いや、俺は他人と違うから」といったりもしますが、しかしそういうとき、すでに「他人と違う」という人との関係性ができているでしょ。大衆性を持っている人が、一生懸命に大衆性から逃れ出ようとしているのが、「俺は他人とは違う」です。
『わが命の唄 艶歌(舛田利雄)』という映画があり、ポップスのディレクターである渡哲也が「俺は艶歌がへどが出るほど(←表現、うろ覚え)嫌いだ」というのに対して、艶歌のディレクターである芦田伸介が「それはへどが出るほど好きだ、っていうのと同じ意味だ」というシーンがありました。
「俺は他人と違うから」というとき、その人はとっても他人と同じです。いや、その人だけではなく、どんなに偉そうなことをいっても、みんな他人と大差はないし、<大衆性>の中にどっぷりと使っているのです。
う〜ん、<大衆>って言葉自体がちょっと上から目線だな。「自分は違うもんね」目線です。むしろ<普通の人>とか<多くの人>とか、そんな風に訳した方がいいかな。これもちょっと上から目線だけどね。
現代の民主主義は多数決によって決まるし、輿論(世論)なんかもそうだし、マーケティングもそうだし、マスコミはすごい力を持っているし、現代社会はまさに<小人>の意見によって動いている社会です。
これまでの歴史の流れは、ひとりの君子が治める社会→少数の優れた人々が治める社会→多くの優れた人々が治める社会→<小人>たちによって運営される社会・・だといえるかも。
これがいいかどうかはともかくね。
◆◆◆◆◆
辞書にはいくつかの意味が書いてあって、そのときどきでどの意味かなあ、と考えます。だから『論語』の中の<小人>も「庶民」というときもあり、「不徳の人」というときもありなのですが、しかしたとえば岩波文庫の『論語』でも小人と君子が並び使われているときなどは、小人を「つまらない人、徳の無いもの」としています。
が、『論語』の中の君子と小人を比べている章の小人のところだけを抜き出してみると、「わかる、わかる」というのがたくさんあって(具体例は後日)、これをつまらない人、徳のない人としてしまうと、世の中のほとんどの人は小人ということになってしまいます。
「そうだよ。だからそんな人にはならずに君子になれ、って孔子はいっているんだよ」という意見もあると思うのですが、しかし、それは半分正しくて、半分違う。
僕たちはみんな<小人>なのです。小人に<なる>なんてことはできない。いや、これは僕たちだけでなく、孔子だって、周公だって、王様だってみんな小人です。
小人というのは、なるものではなく<である>ものです。
祖甲の「長い間<小人>となっていました」だって、「ひさしく小人と為る」なので「長い間、小人だった」としてもいいでしょう。
◆◆◆◆◆
で、小人が<である>ものに対して、君子は<なる>ものなのかというとそうではない。小人が努力しても、はい「君子になりました」とはならない。たぶん「君子」なんて境地はない。
じゃあ、何か・・というと、君子は<であると決めた>もの、だと思うのです。
自分は「君子である」と決めたもの、それが君子です。
これは実は小人、君子だけの話ではなく、どの世界でも多かれ少なかれそうでしょ。
学校の先生は、昨日まで学生だったのに今日は急に先生になる。しかもPTAなどでは自分よりずっと人生経験を積んでいる保護者に対して、先生として偉そうなことをいい、保護者だってそれを神妙な顔で聞いている。
それは「自分は教師である」と決めたからそうなるのであって、徐々にそうなったわけではない。
能でも(そして多分、何でも)玄人と素人の違いはうまい下手ではなく、玄人は玄人として生きていくと決めたから。素人は決めていない人だから、玄人以外はみんなそう。
で、「君子」の場合は、何を決めたかというと、「心」を使っていこうと決めた。
今まで自分が身に着けたきた行動パターンや思考パターンはある。思わずそう行動し、思わずそう考えてしまう。そこから抜け出して、自分の心を使おうと決めた。さらにはそれを人のために使おうと決めた人たちです。
うまく使えるかどうかは、君子であるか、小人であるかということとは関係ない。そう決めた人、それが君子です。
◆◆◆◆◆
う〜ん、やっぱりざっくりと書くのは難しいなあ。
最後にひとつ。
こんな風に書いても、やはり君子=いい、小人=あまりよくない、ってイメージは残るのですが、『論語』や『尚書』では小人に対して、基本的には非常に優しい目線を持っています。
いや、優しい目線というと上から目線だな。
今度くわしく書きますが「天」というのは「小人」の味方なのです。
「天」は、孔子も絶対の信頼をおいた存在なのですが、それは普段は自分の中にあって隠れています。で、本当に大変な状況に陥ったときに発動するのですが、君子でいる限りうまく動かない。「心」は天が発動するのを止めるのです。
だから君子も本当に大変な状態になったら一度「君子」であることを放棄して、もとの小人に戻る。そうすると「天」がチャカチャカ動き出します。
でも現代人は「心」を使わないというのは難しいなあ。
君子と小人については、また書きますね。
これについて書き始めると、もう一章か二章が必要になってしまうからです。ちょっともうこれ以上は増やせないということで、今回の本ではあきらめたのですが、ここでその概略を簡単に・・・。
概略なので例が少なくわかりにくいかも。すみません。
さあ、まず結論からいうと、僕たちが君子と小人に持っている「君子=いい人」、「小人=悪い人、劣った人」というのは間違いです。
この両者は実は全く違う次元にいる。あ、違う次元といっても<君子=いい、小人=悪い>ではありません。
そこはくれぐれも・・・。
◆◆◆◆◆
で、ここでは主に<小人>について見ていきます。
<小人>を『広辞苑(岩波書店)』で引くと、最初に日本の古典からの引用がいくかあった後、漢文の方の意味としては「徳・器量のない人。小人物⇔君子」と出てきます。
『大漢和辞典(大修館書店)』は最初の意味として出てくるのは小人=「庶民」で、これが文例も一番多い。広辞苑と同じような意味も書いてありますが、それは2番目だし、例もあまり多くない。
・『広辞苑』→徳・器量のない人
・『大漢和辞典』→庶民
・・です。
『広辞苑』と『大漢和辞典』、どちらを取るかといわれれば、漢文を読むのなら、そりゃあ大漢和だろう!・・・なのに日本人は、小人というと「悪い人」とか「劣った人」とか「不徳の人」とかいう広辞苑的イメージが強い。
僕も学校では確かにそんな風に習ったのか、小人とは不徳の人とか劣った人のようなイメージを持っていました。しかも『論語』の中の<小人>も、そうやって読んでもほとんど問題ない。
が、最初に「あれ?」と思ったのは『尚書(書経)』を読んでいるときです。『尚書』は五経のひとつです。『聖書(キリスト教のね)』でいえば『論語』や『孟子』の四書が新約聖書で、五経は旧約聖書って感じかな。
さて、その『尚書』の中に「無逸」という一篇があります。これは周公が周の成王に告げた教えということになっている篇です。周公は、孔子が夢にまで見たという人で、周を建国した武王の弟。
成王は武王の弟ですから、おじさん(周公)が甥(成王)に語ってきかせています。
この「無逸」に関してもいろいろ書きたいこともありますが、「小人」の話からはずれてしまうので今回はパス。
さて、この中で周公が殷の高宗のことを言っています。
高宗というのは、甲骨文などでは武丁と呼ばれている人で、漢字を作ったのは彼ではないか、と言われています。奥さんのひとりに女性将軍の婦好などがいます。
さて、周公は王に次のようにいっています。
「高宗は長い間、外で苦労をし、<小人>と(生活を)ともにしました」
高宗、すなわち武丁は長い間<小人>と生活をともにしていたのです。
また、次にやはり殷の王である祖甲のことに話が及ぶとさらに小人との関係が深くなります。
「祖甲は王となるのを<義>とせず、長い間<小人>となっていました(ひさしく小人と為る)」
だから祖甲は位についても<小人>の「依」を知っていた、と続けます。
この『<小人>の「依」』の「依」は「苦しみ」と訳されます。これは王引之の「依は隠なり」という注から出ていて、さらにその注の注の「隠とは<稼穡の艱難>とか<小人の労>のことを言い、今でいう<苦衷>と同じ意味である」というのによっています。
もちろん、それでいいとは思うのですが、もうひとつ「依」のそのままの意味である「よりどころ」とか「よって立つところ」と考えてみても面白い。
祖甲は長い間、自分が<小人>となっていたので、<小人>がどのようなことで苦しむのか。あるいは<小人>のよって立つところ(よりどころ)を知っていたのです、となります。
よりどころっていってもそんなに難しい意味ではなく、たとえば<小人>はマスコミのいうことを信じやすいとか、<小人>は安いものには飛びつくとか、そんなことです。
◆◆◆◆◆
さて『尚書』によれば、殷の明君であった高宗(武丁)も祖甲も<小人>と深い関係がある。高宗(武丁)は長い間<小人>の間にいたし、祖甲は自分が長い間<小人>であった。
となると、ここでいう<小人>は決して劣った人とか不徳の人とかいう意味ではなく、やはり大漢和の書くように<庶民>が適当だと思うのです。
・・が、<庶民>という訳語は決して間違いではないのですが、しかしそれだけで片付けてしまうと、その真意がうまく伝わらない。<庶民>というよりは<大衆>、あるいは<大衆性>と言った方がいいかも知れないのです。
僕たちは基本的には<大衆>、すなわち<大衆性>を持った存在です。
これは人間というものが、人との関係性においてのみ自己を規定できるという存在である限り逃れることはできないことです。
「いや、俺は他人と違うから」といったりもしますが、しかしそういうとき、すでに「他人と違う」という人との関係性ができているでしょ。大衆性を持っている人が、一生懸命に大衆性から逃れ出ようとしているのが、「俺は他人とは違う」です。
『わが命の唄 艶歌(舛田利雄)』という映画があり、ポップスのディレクターである渡哲也が「俺は艶歌がへどが出るほど(←表現、うろ覚え)嫌いだ」というのに対して、艶歌のディレクターである芦田伸介が「それはへどが出るほど好きだ、っていうのと同じ意味だ」というシーンがありました。
「俺は他人と違うから」というとき、その人はとっても他人と同じです。いや、その人だけではなく、どんなに偉そうなことをいっても、みんな他人と大差はないし、<大衆性>の中にどっぷりと使っているのです。
う〜ん、<大衆>って言葉自体がちょっと上から目線だな。「自分は違うもんね」目線です。むしろ<普通の人>とか<多くの人>とか、そんな風に訳した方がいいかな。これもちょっと上から目線だけどね。
現代の民主主義は多数決によって決まるし、輿論(世論)なんかもそうだし、マーケティングもそうだし、マスコミはすごい力を持っているし、現代社会はまさに<小人>の意見によって動いている社会です。
これまでの歴史の流れは、ひとりの君子が治める社会→少数の優れた人々が治める社会→多くの優れた人々が治める社会→<小人>たちによって運営される社会・・だといえるかも。
これがいいかどうかはともかくね。
◆◆◆◆◆
辞書にはいくつかの意味が書いてあって、そのときどきでどの意味かなあ、と考えます。だから『論語』の中の<小人>も「庶民」というときもあり、「不徳の人」というときもありなのですが、しかしたとえば岩波文庫の『論語』でも小人と君子が並び使われているときなどは、小人を「つまらない人、徳の無いもの」としています。
が、『論語』の中の君子と小人を比べている章の小人のところだけを抜き出してみると、「わかる、わかる」というのがたくさんあって(具体例は後日)、これをつまらない人、徳のない人としてしまうと、世の中のほとんどの人は小人ということになってしまいます。
「そうだよ。だからそんな人にはならずに君子になれ、って孔子はいっているんだよ」という意見もあると思うのですが、しかし、それは半分正しくて、半分違う。
僕たちはみんな<小人>なのです。小人に<なる>なんてことはできない。いや、これは僕たちだけでなく、孔子だって、周公だって、王様だってみんな小人です。
小人というのは、なるものではなく<である>ものです。
祖甲の「長い間<小人>となっていました」だって、「ひさしく小人と為る」なので「長い間、小人だった」としてもいいでしょう。
◆◆◆◆◆
で、小人が<である>ものに対して、君子は<なる>ものなのかというとそうではない。小人が努力しても、はい「君子になりました」とはならない。たぶん「君子」なんて境地はない。
じゃあ、何か・・というと、君子は<であると決めた>もの、だと思うのです。
自分は「君子である」と決めたもの、それが君子です。
これは実は小人、君子だけの話ではなく、どの世界でも多かれ少なかれそうでしょ。
学校の先生は、昨日まで学生だったのに今日は急に先生になる。しかもPTAなどでは自分よりずっと人生経験を積んでいる保護者に対して、先生として偉そうなことをいい、保護者だってそれを神妙な顔で聞いている。
それは「自分は教師である」と決めたからそうなるのであって、徐々にそうなったわけではない。
能でも(そして多分、何でも)玄人と素人の違いはうまい下手ではなく、玄人は玄人として生きていくと決めたから。素人は決めていない人だから、玄人以外はみんなそう。
で、「君子」の場合は、何を決めたかというと、「心」を使っていこうと決めた。
今まで自分が身に着けたきた行動パターンや思考パターンはある。思わずそう行動し、思わずそう考えてしまう。そこから抜け出して、自分の心を使おうと決めた。さらにはそれを人のために使おうと決めた人たちです。
うまく使えるかどうかは、君子であるか、小人であるかということとは関係ない。そう決めた人、それが君子です。
◆◆◆◆◆
う〜ん、やっぱりざっくりと書くのは難しいなあ。
最後にひとつ。
こんな風に書いても、やはり君子=いい、小人=あまりよくない、ってイメージは残るのですが、『論語』や『尚書』では小人に対して、基本的には非常に優しい目線を持っています。
いや、優しい目線というと上から目線だな。
今度くわしく書きますが「天」というのは「小人」の味方なのです。
「天」は、孔子も絶対の信頼をおいた存在なのですが、それは普段は自分の中にあって隠れています。で、本当に大変な状況に陥ったときに発動するのですが、君子でいる限りうまく動かない。「心」は天が発動するのを止めるのです。
だから君子も本当に大変な状態になったら一度「君子」であることを放棄して、もとの小人に戻る。そうすると「天」がチャカチャカ動き出します。
でも現代人は「心」を使わないというのは難しいなあ。
君子と小人については、また書きますね。