いま『奥の細道』の那須の段について書いていますが、やけに能の話が出てきます。

能楽師だからっていい気になって、「ちょっと出しすぎなんじゃないの」と思っていらっしゃる方もいるかも知れないので・・・。

芭蕉の発句や連句は、能がベースになっているものがたくさんあります。能を知らないとよくわからなかったり、全く違う解釈をしてしまう可能性のあるものもたくさんあります。

宝井其角は「謡は俳諧の源氏」と言っています。能の謡は、俳諧にとっては『源氏物語』なのです。

むろん、作品は一度作者の手を離れた瞬間から作品そのものとして一人歩きをするので、それが能がベースになっているかどうかなんてのはどうでもいいようにも思えるのですが、しかしそれを知っていると作品がより面白くなります。

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先日、あるアニメを見ていたら、主人公が印籠を出して「この印籠が目に入らぬか」と叫んでいました。

これは視聴者が『水戸黄門』を知っているという前提です。

数百年後に『水戸黄門』を知る人が少なくなり、そしてこのアニメだけが古典として残ったときに、『水戸黄門』抜きにこの印籠のメタファーとか、なんとかを論じていたらちょっとおかしいでしょ(それはそれで深くなりそうですが)。

で、同じように芭蕉を読むときには能が必要だと思うのです。

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が、同時に当時の謡というのは、たとえば落語や、たとえば漱石の『猫』などで扱われるように、そんなにたいしたものではなかった。むろん土地にもよりますが、みんながワイワイと気楽に謡っていたものだった。

なんといっても「お肴」といわれることもあったくらいです。

酒の肴にちょっと謡です。

そのくらい日常の中に入っていた。『水戸黄門』くらい(かどうかはともかく)にね。

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でも、それは江戸時代までで、「俳句」は明治になってから正岡子規が再興したものだから、「俳句」には謡や能は必要ないんじゃないの、という人もいるでしょう。

が、正岡子規も、謡も能も非常に親しんでいました。なんといっても若い頃には能を作っています。桜餅屋の娘がシテ(主人公)というナンとも不思議な能で、全然関心しないのですが、しかし漱石は非常なる賛辞を書いています。

高浜虚子などは謡だけでなく鼓(大鼓)もやっていて、元日に漱石とその仲間たちとした楽しいやり取りが『永日小品』の「元日」に書かれています。青空文庫にありますから、ぜひお読みください。

http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/758_14936.html

この「元日」は、語りの会でしようと思うのですが、いつも読みながら笑ってしまってうまくいきません。

そんなわけで俳句をされる人は、ぜひ謡を謡っていただきたいな、と思うのです。