さて、前回から書き始めた『奥の細道』ですが、まずは原文と、それに対照して現代語訳(久富哲雄氏:講談社学術文庫)を紹介しておきましょう。

●=原文 ◎=現代語訳

●那須の黒ばねと云所に知人あれば、是より野越にかゝりて、直道をゆかんとす。

◎那須の黒羽というところに、知人がいるので、ここから那須野越えを始めて、野中の真っ直ぐな近道をして行こうとした。

●遥に一村を見かけて行に、雨降日暮る。

◎はるか遠くに一村があるのをみとめ、それを見ざして行ったところ、途中で雨が降り出し、日も暮れてしまった。

●農夫の家に一夜をかりて、明れば又野中を行。そこに野飼の馬あり。

◎そこで、農夫の家に一夜の宿を借りて泊まり、夜が明けてると、ふたたび野原の中を歩き続けた。その途中に、野飼の馬がいた。

●草刈おのこになげきよれば、野夫といへどもさすがに情しらぬには非ず。

◎そばで草を刈っている男に近寄って嘆願したところ、田舎者ではあるけれども、やはり人情を知らないわけではなく・・

●「いかゞすべきや。されども此野は縦横にわかれて、うゐうゐ敷旅人の道ふみたがえん、あやしう侍れば、此馬のとゞまる所にて馬を返し給へ」と、かし侍ぬ。

◎「どうしたらよいかなあ。案内してあげるわけにもいきませんが、とは言っても、この那須野は道がむやみやたらに分かれていて、この土地に慣れない旅人はきっと道を踏みまちがえるでしょう。それが心配ですから、この馬に乗って行って、馬が止まったところで、馬を帰してくさだい」と言って、馬を貸してくれた。

●ちいさき者ふたり、馬の跡したひてはしる。独は小姫にて、名をかさねと云。

◎小さい子供が二人、馬の跡について走って来る。一人は小娘で、聞いてみると、名前を「かさね」という。

●聞なれぬ名のやさしかりければ、

◎聞きなれない名前が、いかにも優雅に感じられたので、

●かさねとは八重撫子の名成べし 曽良

◎かわいらしい子供はよくなでしこにたとえられるが、この小娘は「かさね」という名だそうだから、なでしこならば花びらの重り合った八重なでしこの名であろう。

●頓て人里に至れば、あたひを鞍つぼに結付て、馬を返しぬ。

◎まもなく人家のある村里に着いたので、馬の借り賃を鞍壷に結びつけて、馬を帰した。

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この段を書写しながら読んだときに、まずはいくつもの謡(能のせりふ)が口をついて出ました。

たとえば「是より野越にかゝりて、直道(すぐみち)をゆかんとす」。これは能『遊行柳』や能『山姥』に似ています(「またこれに数多の道の見えて候。広き方へゆかばやと思ひ候」とか)。詳細は後でね。

それから「遥かに一村を見かけて」。これは能『雲林院』の「遥かに人家を見て」云々の謡。そして続く「雨降り日暮る」。これは能の常套パターン。この後に何者かが訪れる。

次の文の「一夜を借り」、これも能ではよくあるパターン。この一夜が不思議な一夜になります。そして同文中の「明くれば」。これは能『松風』の謡。この「明くれば」の一句は非常に大切で、この一句で不思議世界が現出する雰囲気を作ります。

それから「さすがに情しらぬには非ず」は、後の「やさしかりければ」と呼応して、やはり能の謡を思い出させます。たとえば能『雲林院』の「惜むも乞ふも情あり」とか「あらやさしの旅人」とか「かかるやさしき狂女こそ」とか、さまざま。

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そして写し終わり、読み終わったときに、ずっと長い間忘れていた感覚が甦りました。

それはうまく伝えられないのですが、世界が逆転する感覚というか、ちょっと位相がずれる感覚というか、そんなものです。

chouden04b子供のころ、特に雨が降っている朝、小学校に向かう電車の駅にいると、本当は右から来るべき電車が左から来たりしたことがありました。お腹の調子が何となく悪く、吐き気を催してくる。で、周りの友達を見ると、みんな平然としている。それを見て、よけいに気持ち悪くなる。これは電車の間違いではなく、自分の内部の感覚が逆転していたのです。

で、そんな日は学校に行っても、すべてがちょっとずつチグハグで、いつもの教室にいるのにいつもの教室ではない、友達も先生もちょっとずつ別人のように感じられる、そんな感覚です。

ありますか。そういうのって?

で、そんなときは決まってお腹の辺りがちょっと変なのです。お腹の中も逆転している。