怒涛の日々がやっとひと段落しました。

ブログ、お休みしていてすみませんでした。

舞台も含めていろいろ用事があり、その間に寺子屋関係をバシバシ入れてしまったので、全く休みがない状態でした。でも、明日は夕方までヒマ!

内田樹さんのブログで、「ヒマができたから掃除をした」というようなお話が以前にあったということを、いまちょっと思い出したのですが、掃除はまたの機会にして、午前から昼にかけてマジメに原稿に取り組みます。

さて、今日の題名「社会的資源としての能」って前に書きましたっけ?

これは僕のアイディアではなく、能の笛方・森田流の槻宅(つきたく)聡さんの言です。



倫理研究所から依頼されて、槻宅さんといっしょに「デス・スタディーとしての能」というテーマで、浜松、広島、大垣と講演をしてきました。

デス・スタディーについてはじめて考えたのは、エイズの方たちをサポートする団体の立ち上げに関わったり、エイズの本を書いたりしていたときでした。もう20年くらいも前の話です。何人かの方の死にも立ち会い、キューブラ・ロスをはじめさまざまなデス・スタディーの本を読んだり、デーケンさんにお会いしてお話を伺ったりもしました。

キューブラ・ロスの本やデーケンさんもすばらしいのですが、日本人として(あるいはキリスト教徒ではないものとして)は、ちょっと違和感を感じました。でも、いま能とデス・スタディーということで考えてみると、その違和感が払拭されて、何かスッキリするのです。



デス・スタディーだけでなく、ニートの人や不登校の子どもたちとも能のワークショップをすることがあります。精神病院でしたり、児童相談所でしたこともあります。

能のワークショップをするというと、若い人に能を紹介して見てもらおう、という動機のように思われますが、それはそんなに大きな動機ではありません。

動機は自分自身でもよくわからないのですが、ただ、いろいろな人に能のワークショップをします。何をするかは、その場で、集まった人の様子で決めます。事前にはあまり決めない。

で、やっていると、何かが変わるということがよくあるのです。

知人のひとりは自殺をしたいと思っていたときに謡を謡って、なんとか生き延びることができたと話してくれました。

能が芸能として優れたものであることは多くの人が認めるところです。しかし実は能はそれ以上にさまざまなことに寄与できるのではないか、そしてそこにこそ他の芸能とは違う特質があるのではないかと思うのです。

で、僕はこれをあまり意識せずにしていたのですが、槻宅さんはこれをとても意識的にされていて、さらには「社会的資源としての能」という、すばらしいネーミングをされたのです。

さすが!



能のいいところは、まだ作者が匿名の時代に作られているということです。

いま、「この曲は世阿弥作だ」とかいうのも後の研究者がそう言っているだけです。本人には自分の名前を残そうという気はありません。

誰か個人が作ったものではなく、もっと大きな何かが作った作品なのです。だからいい!

「宝石にはさまざまな切子面がある」という台詞はジェイムス・ヒルトンの『失われた地平線(新潮文庫)』だったかな?

能にもさまざまな切子面があり、その切子面ひとつひとつに真理が輝いています。まだまだ見つかっていない切子面もあるでしょう。

たぶん「●●と能」っていえば、ほとんど大丈夫なくらいにマルチな芸能なんじゃないかな・・。