●昔の心と今の心に分けてみよう

前の話の続きを書こうと思って、ちょっと間があきました・・。すみません。

前回は、孔子が使っていた「心」と、僕たちがいま使っている「心」とは、田舎で「もいで」食べるトマトと都会のスーパーで買って食べるトマトほどの違いがあるんじゃないか、ということを書きました。で、それは、孔子がすごいんじゃなくて(もちろんすごいけど)、「心」が取れたて、もぎたての時代と、「心」が手垢に塗れちゃっている現代との違いかも知れないってことも書きました。

むろん、実際には心というか、人間そのものが複雑なので、「昔の心」と「今の心」に分けられるほど単純な話ではないのですが、単純にしないと話が進まないので申し訳ないのですが、ここは単純化して話を進めます。

これは、たとえば立体を平面で見るために3Dから2Dに「微分」するようなもので、最後に「積分」して戻しておかないと危険であることは重々承知ですが、それはこの連載の最後の方にすることにして、まずは微分のまま話を進めます。

さて、ではバッサリ微分して「昔の心」と「今の心」という二項対立にしてしまうことをお許しいただくことにして、じゃあ、この二つはどう違うのか、ということを考えたいのですが、それを説明しやすくするためにちょっと遠回りして、「能」、というか「日本の古典」における・・

「こころ」
「思ひ」
「心(シン)」

について簡単に触れておきたいと思います。

これは僕が書いたいくつかの本の中ではすでに何度も書いた話で、確かブログでもどこかで書いたような気がするのですが、ちょっと見つからなかったので、重複しちゃうかもなぁと思いながら書きます。

●こころと思ひ

(以下も単純化しています。念のため・・)

さて、日本語の「こころ」というものを考えると、その特徴は「変化する」ことです。

「こころ」の語源は「こっ、こっ」という心臓音だという説があります(かなり怪しい話ではあります。日本語の語源って不思議とよくわからない)。まあ、その語源の可否はともかく、心というのは、刻々と変化します。

これは自分を見つめてみれば、すぐにわかる。

「昨日はあの子が好きだったのに、今日は全く違う子に心が惹かれている」なんてやつで、<こころ変わり>なんていう都合のいい言葉があります。

が、こころ変わりによって、そんな風にコロコロ対象は変わっても、変化しないものがある。それは「人を好きになる」という心で、対象は変化してもそれは変わらない。

その変化しない心を、日本語では「思ひ」と呼びます。

能『隅田川』の主人公は狂女です。この狂女は母親です。

息子が人買いに拐かされたため、その行方を追って、京都からはるばる武蔵野国(東京)の隅田川までやって来たのです。都から遠く離れた隅田川で、彼女はどこに行ってしまったかわからない息子のことに思いを馳せます。

それは、ここが「人を恋う」場所だからです。

息子に思いを馳せながらも彼女は、この隅田川で、遠い平安時代、在原業平が「京にいる恋人」を思いやった故事を思い出すのです。

自分はいとし子、業平は恋人、思いやる対象は違います。

が、彼女は謡います。

「思ひは同じ『恋路』なれば」と・・。

対象は違っても、その「思ひ」は同じなのです。

そして、それに名をつければ「恋路」になります。

「恋」とは「乞ひ」。英語でいえば「beg」であり「miss」です。

自分の中のある重要な部分(子とか恋いしい人とか食べ物とか)が欠落してしまって、そこが埋まらない限りいつまでが気になってしまって落ち着かない状態、それが「恋」、すなわち「乞ひ」です。ミッシング・リングですね。

対象はどんなに変わっても、その「恋の対象」を生み出す心的作用である「恋」=「思ひ」は変わらないし、なくなりもしない。

「こころ」がゆらゆら揺れる波だとすれば、「思ひ」は海の水です。

大波、小波と変化して、あるとき鏡のように静かな海面になっても、海水がある限り、また波は起こる。

生きている限り、私たちは「思ひ」である「恋」に翻弄されるのです。それは、たとえば相性ピッタリの恋人に会って、もう恋なんかいいやと思っても(あるいは性的な欲望が全くなくなった後などでも)、夕暮れどきにふと訪れる孤独の絶望の中で、誰かと話をしたいと密かに思うことかも知れませんが・・。

「こころ」を表現するには、表層の身体である「からだ」が適し、「思ひ」を表現するには、深層の身体である「み(身=実)」が適することはいくつかの本に書きましたので、それはここでは省略します。

●「シン」という心

さて、「こころ」の深層に「思ひ」がありますが、さらにその深層にあるのが「心(シン)」です。

これは「以心伝心」なんて言って、言語を通さず伝わる「心(シン)」です。以心伝心だけでなく、世阿弥が「心(シン)より心に伝ふる花」というのもそれですね。

そんなの実際はなくて、理論的にのみ存在しているに過ぎない、と頭しか使わない人は考えがちですが、禅とか古典芸能などで厳しい稽古を経験した人は、それが「ある」ということを「知って」いると思います(むろん、これも気のせいである可能性も否定はできませんが・・)。

で、「現代の心」ともぎたての心を「孔子時代の心」を対比すると、この「心(シン)」こそがもぎたての「孔子時代の心」ではないかと思うのです。で、「現代の心」は「こころ」と「思ひ」とかです。

・孔子時代の心・・「心(シン)」

・現代の心・・「こころ」「おもひ」

最初にも書きましたが、こんな風に「昔の人の心は<シン>で、今の人の心は<こころ>だ」なんて本当はすっきり割り切れるわけではないのですが、こんな風に一応(!)しておくと話が見えやすくなるのであります。

(続く)