●ちょっと復習から

もともと、この「心の生まれた日」を考え始めたのは、『論語』がきっかけです。孔子が生きていた時代の漢字に直して『論語』を読むという作業の中からです。

・・ということは前にも書きましたが、読んでいない方のために・・。

さて、そんなことをしていると『論語』の中の漢字には、孔子が生きていた時代には使われていなかったものが沢山あるということに気づきました。『論語』が編纂されたのは、孔子が亡くなってからかなり経ってからで、孫弟子、ひ孫弟子・・どころか、ひひ孫弟子たちの間に伝承されていた記憶の集成が『論語』なので、まあ、それは当たり前です(途中に焚書坑儒もあるしね)。

が、しかしこれは「当たり前」ですませていい話でもなく、少なくとも孔子はそれらの漢字は使っていなかった。

むろん孔子が話していたのは、<漢字(文字)>ではなく<言葉>なので、漢字も何もあったもんじゃない、といやぁ、ないのですが、それでも孔子の時代の漢字ではない字を使うというのは、孔子の真意からはかなり離れてしまう可能性があると思うのです。

「じゃあ、孔子は本当はどう言っていたのか」ということを考えつつ読んで行きました。

で、そんなこんなをしていると、特にないのが「心」がつく漢字で、「あれ?」と思って『甲骨文集』や『殷周金文大成』などをチェックしてみたら、どうも殷の時代には「心」という漢字、そのものが生まれなかったらしいということがわかった。

ということは「恋」や「思」などの「心」がつく漢字や、「性」や「悔」などの「リッシンベン」が付く漢字、「恭」や「慕」などの「シタゴコロ」がつく漢字など、すなわち<いわゆる心系>の漢字もなく、だからむろん「悪人」もいなければ「愛人」もいないのです(悪人も愛人も、そして<シタゴコロ>もない世界って何だかいいような、でもちょっと寂しいようなそんな世界です)。

「心」という漢字が誕生して発展していく様を探るために『殷周金文大成』をさらに見てみると、周になってやっと生まれた「心」も、その周の時代にはあまり使われることがなく、心系の漢字もあまり増殖しなかったらしいということがわかります。

周の時代では、せっかく生まれた<心>も、まだまだマイナーな存在を続けざるを得なかったのです。

現代の漢和辞典を開いてみれば、心系の漢字はもっとも多い漢字のひとつですから、これは面白い。

「心」は今から約3,000年くらい前に生まれたけれども、それから1,000年ほどは低迷していて、あるときに急に増殖爆発を起こしたらしい、ということがわかります。

で、どうもそのきっかけを作ったのが孔子だったんじゃないか、と思ったのです。むろん、孔子はきっかけですから、孔子の時代にはまだまだ爆発にはならないのですが・・。

●心は欲する?

なんで「孔子がきっかけを作った」と思ったかというと、例の「吾十有五にして学に志す」が含まれる文章です。この中で四十の「不惑」は変だ、ということについてはすでに書きました。

で、「七十」です。

七十は「從心所欲、不踰矩」と言います。

ふつうこれは「心の欲する所に従いて矩(のり)を踰(こ)えず」と読まれ、「自分の思うままに行ってもゆきすぎがなくなった(貝塚茂樹・訳)」などと訳されます。

さすが孔子様。自分の好きに振舞っても、規範を超えることがなくなったんだ、と解釈されるのですが、ちょっと待った!

この文はよく考えるとちょっと変な文なのです。

特に「心の欲する所に従う」というのが変。

「心が欲する」という表現を『論語』の中で探してみると、ここ以外に見つけることができません。いや『論語』どころではない。五経の中を探してみても、「心」が「欲する」という表現を見つけることは難しい。

「心」は欲しないのです。

じゃあ、「欲する(欲)」は何か。

それを探ってみると、「欲する(欲)」の主語になるのは「人」であることがほとんどです。それも「われ(我、吾)」か「おのれ(己)」が多い。

心がしたいのではなく、「俺がしたい」のです。欲望の主体は「俺が、俺が!」の「オレ、オレ」なのです。

●欲はセクシャル

欲望の主語が「俺」であるということは当たり前といやあ、当たり前です。

実はこの「欲」という漢字は、とってもセクシャルな漢字です。

この「欲」も、新しい漢字で、孔子の時代にはなかった。たぶん・・。少なくとも『殷周金文大成』を見る限り、孔子時代以前の金文には見当たらない。

じゃあ、孔子はどんな漢字を使っていたかというと、こういうときは、まず偏を取ってみる。

すると「谷」になります。

西周期の金文などでは「谷」という漢字をそのまま「欲」という意味に使っています。

「谷」=「欲」なのです。

で、この「谷」というのがセクシャルな漢字なのです。

「谷」の上の「八(ハチ=ハツ)」は「分け入る」というイメージを持ちます。「分け入る」の「分」の上についているでしょ。

noboru同音の「癶(ハツ)」は両足を開いて進む意です。「発(發)」とか「登」とかの上についているやつです。甲骨文字の「登」を見てみると、上の方に足が二つついているのがわかります。

で、その進む先が「谷」なのです。

で、で、谷といえば『老子』の「谷神(こくしん)」です。

『老子』にいう。

谷神は死せず。これを玄牝(げんぴん)と謂う。
玄牝の門,これを天地の根と謂う。
緜緜として存するが若く,
これを用いて勤(尽)きず

谷神不死,是謂玄牝。玄牝之門,是謂天地根。緜緜若存,用之不勤

老子がいうには、谷神は玄牝(げんぴん)です。

玄牝とは、すなわち「奥深いところ(玄)」にある「女性(牝)」であり、谷の如くに濡れそぼり、産む働きを永遠に続ける、という。

となると、谷神とは女性性器であるだろうと想像することは難しくない。そして、そんな性的なイメージを持つ「谷(欲)」に「心」はやっぱり似合わない。「オレ、オレ」すなわち、おのれの肉体が欲するという方がしっくりくるのです。

●オレと心

ちなみにこの「俺」は、ジェインズ的にいえば、まだ心を持たない<二分心>の「俺」です。目の前においしいものがあれば、思わず手を出してしまい、いい女がいれば思わず襲っちゃうという、心以前の「オレ、オレ」です。

動物的「オレ」ですね。

さて、そんなオレの心の欲するところに従ったら大変なことになってしまう。動物的「オレ」でなくても、我らのごとき凡夫は、心の欲するところに従っていたら、もう大変になってしまいます。ノリを越えないどころではなく、ノリなんか簡単に踏み越えてどっかに行っちゃいます。

心の欲するところに従って、それでも規範から外れない孔子というのは、さすが聖人!

と、解釈されるのですが、どうもこれはそうではないんじゃないか、って感じがする。

●孔子の言う「心」は別物かも

前にも書きましたが、孔子は人ができないことは言わない。俺はすごい人だから、こんなことできるんだよ〜、なんてことは言わない。

そうならば「心」の欲するところに従っていれば、誰だって規範を超えない、というのが孔子の言いたかったこです。が、しかし、これは現実的な話ではない。

ということは、孔子のいう「心」は、いま僕たちが使っている「心」とは、別物かも知れないのです。

ちょっと卑近な例でいえばね・・・。

田舎とかに帰るでしょ。で、トマトとかをもじって食べる。そのトマトと、都会のスーパーとかで買って食べるトマトは、もうこれはとても同じトマトとはいえないくらいに別物。大根だってそうだし、そうそう、トウモロコシなんかは全く違う。

牡蠣もそうだし、いわしもそう。

心が生まれたて、もぎたての孔子時代の「心」と、時代と都会の垢や煤にまぎれた「心」は、絶対トマト以上に違うと思うのです。

で、それがどう違うか。

それについては次回以降に書いていきましょう。