●ドキドキした
先日、国立能楽堂で、「女性能楽師による演能」という企画公演があり、『経正(つねまさ)』のワキを勤めました。
おシテは足立禮子先生。御年84歳です。
小柄な足立先生が、少年武将、経正の霊を軽々と気持ちよさそうに舞われていました。また、津村禮次郎先生の後見もそのさりげなさに「すごい!」と感動しましたが、現役で能をしている間は演能に関しては書かないと決めているので、当日の模様に関してはこれ以上は書かないことにして・・。
さて、その日の演能で幕の前に立ったとき、胸がドキドキしました。
「ヤバイ、あがっているかも!」
・・と思ったのですが、しかし『経正』は何度もやっている曲で、そんなにアガルはずがない。で、体の中をよくよく観察してみたら、胸の辺りが苦しくて、それがどうやらドキドキになったのでした。
そして、この胸の苦しさはこの数日続いている引越しのせい。数十箱にも及ぶ本の整理で、たくさんのほこりを吸い込んだがためであろうと気がつきました。
と気づけば、あとは大丈夫。
「これは引越しのせいで胸が苦しいだけで、緊張でドキドキしているわけではない」と言い聞かせ、あとは足裏呼吸やら、擬似ストロー呼吸やらをやったらドキドキも収まりました。
・・ということをプロローグに今日の話は、身体から見た「心」です。
●重心は仙骨の前にある
あ、その前にもうひとつプロローグ。
立った状態での人間の「重心(Center of Gravity:重力の中心)」は、「仙骨の二番目の前」辺りにあるといわれています。ちょうど丹田の位置です。
すべての物体には重心があり、それがすなわち「中心」なのですが、人間の場合は「重心」と「中心」がよくズレます。そして多くの場合、そのズレが問題を引き起こします。
・・ということを第二のプロローグに話を「心」に移します。
●「心」って心臓に見えないよ
前回、「心」の金文を紹介しました。
これです。
ほとんど(すべてかも)の辞書には、これは「心臓の象形」だと書いてあります。
でも、本当にそう見える?
小学校などでこの字を見せると、ほとんどの子は「チンチンだ〜ッ!」って叫びます。僕にもそう見えます。これを「心臓」だと見る方が変だと思うのですが、どうでしょう?
「だって、この字から『心』って形ができたんだから、これはもう絶対、心臓でしょう」
という人もいますが、それなら『心』って漢字自体がもともとは「チンチン」って意味だったかも知れない!のです。
・・なんていうと学者の人からは叱られるかも知れませんが、在野の者だからいいもんね。
●心の第一相:はらわた感覚
さて、そんなわけで『心』はもともとチンチンだったかも知れない、ということで話を続けます。これが受け入れられない人には以下の話はさらに受け入れられません。
というわけでそういう方は今回はご遠慮を・・。スミマセン。
さて、心がチンチンだというのを、もうちょっと格好いい言い方をすると、心は「性器による思考」だったと言い換えることができるでしょう。
これ、男で考えるとイマイチだけど(っていうか、男性性器に振り回されるっていうのは、かなりバカっぽいけど)、これを女性にして「子宮の思考」っていうとどう?いいでしょ?
男性だとバカっぽくて、女性だとそれっぽいってちょっと悲しいけど・・。
で、さらにいえば、これは性器や子宮にとどまらず、それらにつながる「内臓による思考(Gut Brain)」、「はらわた感覚」、それが「心」の初期の姿だったのではないでしょうか。
はらわた感覚、それが「心の第一相」だったのです。
昔の日本人は「心はどこにある」と聞かれれば「肚(ハラ)」と答え、その穢れが疑われたときには自ら腹を割いて、そこにある「あかき、きよき」心を見せる儀式=「切腹」を行いました。
お腹に心があるという考えは、何も日本に限った話ではありません。
キリスト教でいう「あわれみ」とは古ギリシャ語では「はらわたが動く」という意味だったそうです(これは能の笛方の槻宅さんから伺った話で、資料もいただきました・・が、引越し中のため今ここに提示することができません。残念)。
自分の思考や意思決定の場所、すなわち自己の「中心」が、性器や子宮、あるいは「はらわた」にあれば、それはちょうど「重心」と重なるわけで、これはいい。
とてもしっくりしている状態です。
●心の第二相:胃の辺り
しかし、人間の心がどんどん発展して、そしてそれに伴って言語が発達すると、未来とか過去とかがすごく気になるようになります。
言語と時間との関係についてはヘレンケラーのことなどをかつて書きました。そしてどうも心と言語との関係も深いようなのですが、それについてはまた書きます。
さて、そのように時間感覚が強くなると、現在なんかどこかに行っちゃって、過去にしちゃったことを思い出してくよくよしたり(後悔)、未来に訪れるいやなことが浮かんでじくじくしちゃったり(不安)する。だから「Here and Now」なんて言ったりするけれども、言語を持ってしまった人間に「Here and Now」なんて不可能に近い。
で、こういう状態になると同じ「はらわた」でも「胃」が反応するようになる。
これは丹田付近にあった重心の位置からは、かなり上がった位置になります。
しくしく胃が痛くなったり、みぞおちの辺りがつまったような感じになる。呼吸筋である横隔膜のちょうどすぐ下なので、息も苦しくなる。
「はらわた感覚」時代の、地に足がついた感じもなくなってきます。
これが「心の第二相」です。
●心の第三相:胸(心臓)の辺り
そして、それがまたさらに変化して、最初に書いた舞台前にドキドキしてしまったりするような状態になると、もっと上がって胸の辺りがすごく気になる。
これは舞台だけでなく、古代の人が、たとえば森の中で虎なんかに出会ったときなどにも、やはり心臓がドキドキしたでしょうから同じ辺りが反応します。生体反応として、これは当然起こることです。
虎だけじゃない。好きな人といるときなども、胸はドキドキする。
で、そうすると意識の「中心」は、はらわたよりも、そして胃よりもさらに上がって、胸の辺りまできてしまうことになる。
これが「心の第三相」です。重心ははらわたなのに、中心が胸になる。両者の間にかなり大きな距離が生じます。
中心が本来あるべき位置からすごくずれるので、「浮き足」立つような状態になる。地に足がつくなんていうのはとうの昔に忘れてる。
で、そんな状態で、ポンとか押されちゃうとグラグラっときちゃうし、舞台でもへろへろになってしまう。虎にも負けちゃうし、好きな子にもうまく告白できない。
そんな状態が「心の第三相」です。
●心の第四相:頭に来たッ!
さて、これがもっと深刻になると、今度は夜も眠れなくなる。寝ようとしても目が冴えて、頭の中をいろんなことが駆け巡る。
意識の中心はとうとう、頭にまで上ってきてしまったのです。
「心の第四相」です。
ここまでくると「重心」と「中心」との乖離は、悲劇的なまでに大きくなっている。白隠禅師のいう「心火逆上」状態です。
精神を使いすぎたりすると、心火が上昇して、頭に血が上り、手足は氷のように冷たくなる。やる気が出ずに、体も全然動かない。そういう状態です。
●人前で裸になれる?:自己と自己イメージ
ちょっと脱線します。でも、大事なので本項も読んでくださいね。
「自己を保存したい(生き続けたい!)」という欲求はすべての生物が持っています。しかし、私たち人間はこの自己保存の欲求よりも強い欲求があります。
それは「自己イメージ保存の欲求」です。
「自己」と「自己イメージ」の違いを見てみましょう。
たとえば今みなさんと新宿住友ビル4階の朝日カルチャーセンターの講義室にいるとします。で、どなかたに「この窓から飛び出して新宿駅まで飛んで来ることはできますか?」と尋ねると、むろん「できない」と答えます。当たり前です。
次に妙齢の女性に前に出ていただいて、「ここで服を全部脱いで、何でもいいから踊っていただくことはできますか」と尋ねれば、やはり「できない」と答える。これも当たり前。
両方とも答えは「できない」ですが、この両者の「できない」は全く違います。
前者の「できない」は本当にできない、すなわち「自己」の「できない」です。
それに対して後者の「できない」は、本当はできないわけではない。むしろ「したくない」に近い。が、しかし正しくはやはり「できない」でしょう。それをしてしまったら「自分はこういう人間だ(自分は人前で裸になるような人間ではない)」という自己イメージが崩壊してしまう。
「自己イメージ」が崩壊するくらいなら「自己」を崩壊させた方がいい。・・などといって自殺をしてしまう人すらいます。自己よりも自己イメージの方が大切なのです。
そういう意味では、本当にこれも「できない」なのだといえるでしょう。
「自己」と「自己イメージ」は似ているようですが、ちょっと違います。
で、この「自己」と「自己イメージ」は動物は一致しているのですが(というより動物に自己イメージってあるのかなあ)、人間はよく離れます。
●太っているとは思いたくない
太っていく過程というのはなかなか気づかないものです。
自分の経験から・・。
太っていくときには、まず「体型」が変わってきます。
・・が、「体重」は変わらない。
しかも、自分では「体型」が変わったということにすら気づかない。なぜなら鏡を見ても変わっていないからです。鏡を見るときには、無意識で最もスマートになるように体の向きを調整して、素敵な姿を映してしまいます。
だから気づかない。が、ベルトの位置は確かに変わっている。
でも、これは「食べすぎだろう」くらいでやりすごす。鏡を見ても変化がないわけなので、「食べすぎだろう」という思いは強化されて、「まあ、大丈夫だろう」とやりすごします。
そのうちに体重が体型に追いついてきます。それでもやはり、鏡は嘘をつき続けます。「こんなのは一過性のものだろう」と、まだ安心している。
「自己」は確かに太って来ているのですが、「自己イメージ」はまだまだ痩せているときのままです。これは自分の場合はかなり続きました。数年、いや十年くらい続いたかも・・。
学生時代にコミック・バンドもやっていたのですが、そのときの芸名が「枯れすすきヤスダ」で、体重だって50kgを切っていたほどですから、「自分はすごく痩せている」という強烈な自己イメージを持っていたのです。
「痩せている」という自己イメージを持っていた人が、「太っている」と認めるのは難しい。自己イメージを変えるというのは本当に大変なことなのです。
・・ということを踏まえておいて・・。
●重心と中心の一致
さて、今まで「重心」と「中心」という語を使ってきました。これが「自己」と「自己イメージ」なのです。
「重心」とは「自己」のセンターです。
そして「中心」とは「自己イメージ」のセンターなのです。
「はらわた」に心があるときは、この両者が一致している状態です。それがどんどん移動して上い行けばいくほど、自己と自己イメージとが離れていきます。そうするとその乖離の分だけ問題が生じてきます。
そういう時には気を下げ、臍輪気海、丹田腰脚に満たすといい、そう白隠禅師は教えます。重心と中心を一致させるのです。
そのためには前回にも書いた「息」を使います。息を足裏に入れ、丹田に気を満たすのです。
・・ということで、今回は身体から心の発展について見てみました。
●予告
★漢字の「心」が「子宮」ではなく、「チンチン」だというところにも意味はあると思うのですが、それはまた・・。
★次回は「足」のことを書こうと思います。
★「文」の字との関係もいつか書きます
先日、国立能楽堂で、「女性能楽師による演能」という企画公演があり、『経正(つねまさ)』のワキを勤めました。
おシテは足立禮子先生。御年84歳です。
小柄な足立先生が、少年武将、経正の霊を軽々と気持ちよさそうに舞われていました。また、津村禮次郎先生の後見もそのさりげなさに「すごい!」と感動しましたが、現役で能をしている間は演能に関しては書かないと決めているので、当日の模様に関してはこれ以上は書かないことにして・・。
さて、その日の演能で幕の前に立ったとき、胸がドキドキしました。
「ヤバイ、あがっているかも!」
・・と思ったのですが、しかし『経正』は何度もやっている曲で、そんなにアガルはずがない。で、体の中をよくよく観察してみたら、胸の辺りが苦しくて、それがどうやらドキドキになったのでした。
そして、この胸の苦しさはこの数日続いている引越しのせい。数十箱にも及ぶ本の整理で、たくさんのほこりを吸い込んだがためであろうと気がつきました。
と気づけば、あとは大丈夫。
「これは引越しのせいで胸が苦しいだけで、緊張でドキドキしているわけではない」と言い聞かせ、あとは足裏呼吸やら、擬似ストロー呼吸やらをやったらドキドキも収まりました。
・・ということをプロローグに今日の話は、身体から見た「心」です。
●重心は仙骨の前にある
あ、その前にもうひとつプロローグ。
立った状態での人間の「重心(Center of Gravity:重力の中心)」は、「仙骨の二番目の前」辺りにあるといわれています。ちょうど丹田の位置です。
すべての物体には重心があり、それがすなわち「中心」なのですが、人間の場合は「重心」と「中心」がよくズレます。そして多くの場合、そのズレが問題を引き起こします。
・・ということを第二のプロローグに話を「心」に移します。
●「心」って心臓に見えないよ
前回、「心」の金文を紹介しました。
これです。
ほとんど(すべてかも)の辞書には、これは「心臓の象形」だと書いてあります。
でも、本当にそう見える?
小学校などでこの字を見せると、ほとんどの子は「チンチンだ〜ッ!」って叫びます。僕にもそう見えます。これを「心臓」だと見る方が変だと思うのですが、どうでしょう?
「だって、この字から『心』って形ができたんだから、これはもう絶対、心臓でしょう」
という人もいますが、それなら『心』って漢字自体がもともとは「チンチン」って意味だったかも知れない!のです。
・・なんていうと学者の人からは叱られるかも知れませんが、在野の者だからいいもんね。
●心の第一相:はらわた感覚
さて、そんなわけで『心』はもともとチンチンだったかも知れない、ということで話を続けます。これが受け入れられない人には以下の話はさらに受け入れられません。
というわけでそういう方は今回はご遠慮を・・。スミマセン。
さて、心がチンチンだというのを、もうちょっと格好いい言い方をすると、心は「性器による思考」だったと言い換えることができるでしょう。
これ、男で考えるとイマイチだけど(っていうか、男性性器に振り回されるっていうのは、かなりバカっぽいけど)、これを女性にして「子宮の思考」っていうとどう?いいでしょ?
男性だとバカっぽくて、女性だとそれっぽいってちょっと悲しいけど・・。
で、さらにいえば、これは性器や子宮にとどまらず、それらにつながる「内臓による思考(Gut Brain)」、「はらわた感覚」、それが「心」の初期の姿だったのではないでしょうか。
はらわた感覚、それが「心の第一相」だったのです。
昔の日本人は「心はどこにある」と聞かれれば「肚(ハラ)」と答え、その穢れが疑われたときには自ら腹を割いて、そこにある「あかき、きよき」心を見せる儀式=「切腹」を行いました。
お腹に心があるという考えは、何も日本に限った話ではありません。
キリスト教でいう「あわれみ」とは古ギリシャ語では「はらわたが動く」という意味だったそうです(これは能の笛方の槻宅さんから伺った話で、資料もいただきました・・が、引越し中のため今ここに提示することができません。残念)。
自分の思考や意思決定の場所、すなわち自己の「中心」が、性器や子宮、あるいは「はらわた」にあれば、それはちょうど「重心」と重なるわけで、これはいい。
とてもしっくりしている状態です。
●心の第二相:胃の辺り
しかし、人間の心がどんどん発展して、そしてそれに伴って言語が発達すると、未来とか過去とかがすごく気になるようになります。
言語と時間との関係についてはヘレンケラーのことなどをかつて書きました。そしてどうも心と言語との関係も深いようなのですが、それについてはまた書きます。
さて、そのように時間感覚が強くなると、現在なんかどこかに行っちゃって、過去にしちゃったことを思い出してくよくよしたり(後悔)、未来に訪れるいやなことが浮かんでじくじくしちゃったり(不安)する。だから「Here and Now」なんて言ったりするけれども、言語を持ってしまった人間に「Here and Now」なんて不可能に近い。
で、こういう状態になると同じ「はらわた」でも「胃」が反応するようになる。
これは丹田付近にあった重心の位置からは、かなり上がった位置になります。
しくしく胃が痛くなったり、みぞおちの辺りがつまったような感じになる。呼吸筋である横隔膜のちょうどすぐ下なので、息も苦しくなる。
「はらわた感覚」時代の、地に足がついた感じもなくなってきます。
これが「心の第二相」です。
●心の第三相:胸(心臓)の辺り
そして、それがまたさらに変化して、最初に書いた舞台前にドキドキしてしまったりするような状態になると、もっと上がって胸の辺りがすごく気になる。
これは舞台だけでなく、古代の人が、たとえば森の中で虎なんかに出会ったときなどにも、やはり心臓がドキドキしたでしょうから同じ辺りが反応します。生体反応として、これは当然起こることです。
虎だけじゃない。好きな人といるときなども、胸はドキドキする。
で、そうすると意識の「中心」は、はらわたよりも、そして胃よりもさらに上がって、胸の辺りまできてしまうことになる。
これが「心の第三相」です。重心ははらわたなのに、中心が胸になる。両者の間にかなり大きな距離が生じます。
中心が本来あるべき位置からすごくずれるので、「浮き足」立つような状態になる。地に足がつくなんていうのはとうの昔に忘れてる。
で、そんな状態で、ポンとか押されちゃうとグラグラっときちゃうし、舞台でもへろへろになってしまう。虎にも負けちゃうし、好きな子にもうまく告白できない。
そんな状態が「心の第三相」です。
●心の第四相:頭に来たッ!
さて、これがもっと深刻になると、今度は夜も眠れなくなる。寝ようとしても目が冴えて、頭の中をいろんなことが駆け巡る。
意識の中心はとうとう、頭にまで上ってきてしまったのです。
「心の第四相」です。
ここまでくると「重心」と「中心」との乖離は、悲劇的なまでに大きくなっている。白隠禅師のいう「心火逆上」状態です。
精神を使いすぎたりすると、心火が上昇して、頭に血が上り、手足は氷のように冷たくなる。やる気が出ずに、体も全然動かない。そういう状態です。
●人前で裸になれる?:自己と自己イメージ
ちょっと脱線します。でも、大事なので本項も読んでくださいね。
「自己を保存したい(生き続けたい!)」という欲求はすべての生物が持っています。しかし、私たち人間はこの自己保存の欲求よりも強い欲求があります。
それは「自己イメージ保存の欲求」です。
「自己」と「自己イメージ」の違いを見てみましょう。
たとえば今みなさんと新宿住友ビル4階の朝日カルチャーセンターの講義室にいるとします。で、どなかたに「この窓から飛び出して新宿駅まで飛んで来ることはできますか?」と尋ねると、むろん「できない」と答えます。当たり前です。
次に妙齢の女性に前に出ていただいて、「ここで服を全部脱いで、何でもいいから踊っていただくことはできますか」と尋ねれば、やはり「できない」と答える。これも当たり前。
両方とも答えは「できない」ですが、この両者の「できない」は全く違います。
前者の「できない」は本当にできない、すなわち「自己」の「できない」です。
それに対して後者の「できない」は、本当はできないわけではない。むしろ「したくない」に近い。が、しかし正しくはやはり「できない」でしょう。それをしてしまったら「自分はこういう人間だ(自分は人前で裸になるような人間ではない)」という自己イメージが崩壊してしまう。
「自己イメージ」が崩壊するくらいなら「自己」を崩壊させた方がいい。・・などといって自殺をしてしまう人すらいます。自己よりも自己イメージの方が大切なのです。
そういう意味では、本当にこれも「できない」なのだといえるでしょう。
「自己」と「自己イメージ」は似ているようですが、ちょっと違います。
で、この「自己」と「自己イメージ」は動物は一致しているのですが(というより動物に自己イメージってあるのかなあ)、人間はよく離れます。
●太っているとは思いたくない
太っていく過程というのはなかなか気づかないものです。
自分の経験から・・。
太っていくときには、まず「体型」が変わってきます。
・・が、「体重」は変わらない。
しかも、自分では「体型」が変わったということにすら気づかない。なぜなら鏡を見ても変わっていないからです。鏡を見るときには、無意識で最もスマートになるように体の向きを調整して、素敵な姿を映してしまいます。
だから気づかない。が、ベルトの位置は確かに変わっている。
でも、これは「食べすぎだろう」くらいでやりすごす。鏡を見ても変化がないわけなので、「食べすぎだろう」という思いは強化されて、「まあ、大丈夫だろう」とやりすごします。
そのうちに体重が体型に追いついてきます。それでもやはり、鏡は嘘をつき続けます。「こんなのは一過性のものだろう」と、まだ安心している。
「自己」は確かに太って来ているのですが、「自己イメージ」はまだまだ痩せているときのままです。これは自分の場合はかなり続きました。数年、いや十年くらい続いたかも・・。
学生時代にコミック・バンドもやっていたのですが、そのときの芸名が「枯れすすきヤスダ」で、体重だって50kgを切っていたほどですから、「自分はすごく痩せている」という強烈な自己イメージを持っていたのです。
「痩せている」という自己イメージを持っていた人が、「太っている」と認めるのは難しい。自己イメージを変えるというのは本当に大変なことなのです。
・・ということを踏まえておいて・・。
●重心と中心の一致
さて、今まで「重心」と「中心」という語を使ってきました。これが「自己」と「自己イメージ」なのです。
「重心」とは「自己」のセンターです。
そして「中心」とは「自己イメージ」のセンターなのです。
「はらわた」に心があるときは、この両者が一致している状態です。それがどんどん移動して上い行けばいくほど、自己と自己イメージとが離れていきます。そうするとその乖離の分だけ問題が生じてきます。
そういう時には気を下げ、臍輪気海、丹田腰脚に満たすといい、そう白隠禅師は教えます。重心と中心を一致させるのです。
そのためには前回にも書いた「息」を使います。息を足裏に入れ、丹田に気を満たすのです。
・・ということで、今回は身体から心の発展について見てみました。
●予告
★漢字の「心」が「子宮」ではなく、「チンチン」だというところにも意味はあると思うのですが、それはまた・・。
★次回は「足」のことを書こうと思います。
★「文」の字との関係もいつか書きます