●息は肺にしか入らない?

『弓と禅』や『日本の弓術』を書いたオイゲン・ヘリゲルが、師である阿波研造から「お腹に息を入れろ」といわれたとき、空気は肺に入るものでお腹になんか入るわけがないと反発したというエピソードは有名です。

まさに然り!酸素はお腹には入らない。

が、これは通訳の問題もあって、確かに「呼吸(酸素)」は肺にしか入りませんが、「息」はお腹にも、そして足裏にも入るものなのです。

(ヘリゲルの母国語のドイツ語はよくわからないので・・)英語でいえば「breathing」とか「inhalation」だと確かに肺なのですが、「inspiration」すなわち「spirit」はお腹にも入ります。

あ、最初にお断りを・・。

以下、長文で、かつ脱線もさまざまあります。読むのが面倒な方は各項の見出しだけでもお読み下さい。

●心の誕生以前には「息」もなかった

さて、ずいぶん長い間、心の問題を放置しておきましたが、久しぶりに「心」のお話です。

以前に「人の心は三千年前に生まれたのではないか」というジュリアン・ジェインズの説を紹介しました。彼は楔形文字を研究してその説を提唱したのですが、中国での漢字の発生と展開を見ていってもジェインズの説と全く同じ年代、すなわち今から三千年前より前には「心」という漢字がなかったということがわかります。

殷の時代の文字には「心」がなく、周になってから「心」は突如出現するのです。

となると、ジェインズ説のように三千年前より前の中国の人たちにも「心」がなかったのかも知れません。

brain01で、「心」がなかった時代の人たちは「神々の声」に従って生きていたとジェインズは言います。この「神々の声」を聞く脳は、右脳なんだそうです。そして、心は左脳にできたとか・・。

この右脳、左脳という考え方自体は「本当かなあ」と思うのですが、それは脳の専門家の方々に任せるとして、「心」誕生以前の人々は、「神々の声」すなわち、自分以外の超越者の声に従って生きていたというジェインズの説は面白いと思うし、甲骨文やら何やらを見ても、その説には賛同できます(ここら辺に関してはまたいつか)。

さて、そんなわけで「心」は三千年前に誕生し、そこに人の「意思」が生まれたとして話を進めたいと思うのですが、その前に「心」という漢字がなかったということは「心」や「りっしんべん(性の左側)」がつく漢字もなかったということを確認しておきましょう。

となると、今日のテーマである「息」という漢字もなかったのです。

●脱線:僕たちも心誕生以前の状態?

ちょっと脱線・・・。

心ができる前の人のよりどころであった「神々の声」、すなわち超越者による命令は、現代では特に統合失調症の患者さんの中に残っているとジェインズは言います。

じゃあ、僕たちは日常の選択を神から離れた、自由「意思」で行っているのか、というとそうでもない。

たとえばお店に行って何かを買おうとする。服でもいいし、食べ物でもいい。その選択は何に従って行っているか。・・というと自分の「意思」で!と思っちゃうけど、よく考えてみると、そんなことはない。

その選択は、CMとか流行とかマスコミとか、そんな「神々の声(自分以外の超越者)」の命令で行っていることが多い。

でしょ?

となると、私たちの中にも「心」誕生以前の人間が厳然と残っているということになります。

●呼吸という活動は意識も無意識もアリ

・・とかなんとかいう問題には、今回は深入りはせずに話を進めることにすると、「神々の声」は「意識をしていない」声で、「心」は「意識をしている」声だということができるでしょう。で、かなり乱暴ではありますが、「神々の声」と「心=意思」の二つの脳(ということにしておきます)は以下のようにしちゃうこともできるでしょう。

brain02・無意識
  =神々の声

・意 識
  =心(意思)

さて、ここで呼吸の話に戻ります。

呼吸というのは人体の活動の中でも不思議な活動で、「無意識」でもできますし、「意識」してもできます。

これがたとえば「心臓」の動きや「胃」の働きなんかだと、無意識で動いてはいますが、しかし意識的にそれをコントロールすることは(通常は)できない。逆に「歩行」などは無意識にやっているようだけども、眠ってしまうと(やはり通常は)できなくなってしまう。

ところが呼吸だけは、眠っていても(すなわち無意識でも)勝手にしているし、しかも意識的に止めることもできる。呼吸は無意識と意識の両方に足をかけた活動なんです。

●脱線:<二分心>はまだまだある

呼吸は「意識」と「無意識」の両方にまたがる活動だということをまずは確認しておいて、話は古代に戻ります。

約三千年前の人の中に「心」が芽生えました。

今まで神の命令に従って歩いていた道を、自分の意思でちょっと変えてみる。神が「止まれ」というまで歩き続けていた歩行を、自分の意思で止まってみる。「心」の誕生によってそんなことが可能になったのです。

・・なんてことを書いていると、若い頃の稽古を思い出します。

何時間も、ただひたすら同じ句だけを謡い続けたことがあります。

師匠から「ダメだ!」と言われ続けると、その句だけをひたすら謡い続けます。「もう疲れたからやめたい」とか、「もう飽きたから、そろそろ次に行きたい」とか、そういう意思は全くありません。そういう気持ちを我慢するのではなく、そんな意思が沸いてこないのです。

で、ただひたすら続けます。

また、伝授された謡を自分の意思で変えるなんてこともしません。まさに<二分心>状態です。

稽古や物事の修得には、この段階は絶対必要だと僕は思っています。

この「心」のない状態は稽古だけではありません。第一次産業が生業である田舎で育った人(ある程度以上の年齢のね)ならば、漁業や農業の多くの作業時間が、「心」がない状態で行われていたことを知っているでしょう。

実家の銚子(のさらに海鹿島)が、まだ手漕ぎの伝馬船で漁業をやっていたころの話です。農作業がほとんど手作業でされていた時代の話です。

よく「お百姓さんが心を込めて育てたお米なんだから」という言い方をしますが、「心を込めてしていたら田植えなんかできないよ」と、ある農家の方が話してくれたことがあります。

熟練したピアニストが、楽譜や鍵盤のことなどを一切考えずにピアノを弾くように、無意識に(すなわち心を込めずに)、しかし正確に、しかも精妙に田植えや稲刈りがされて、お米ができます。

明治期の漁村を画いた小説『人間の運命』(芹沢光治良)のはじめの方の巻には、そのような「心」が希薄な漁民がたくさん出てきます。芹沢自身もそんなひとりだったのですが、「心」が芽生えたおかげで苦労したりします。

あ、また脱線しちゃった。

●「息」という漢字には「心」がついている

話を戻します。

呼吸という活動は、意識的な活動でもあり、また無意識的な活動でもあるという、とても特殊な活動です。

でも、「あ、俺、呼吸してる」なんて、ふつう意識しないでしょ。

呼吸という活動を認識するには、ちょっと複雑な心的作用が必要です。普段は呼吸しているなんて気づかないし、死ぬときには確かに呼吸が止まりますが、それが普段自分がしている呼吸と同じだとは考えにくい。だって、もうその人は帰ってこないしね。

神々の声の下で生活している人は、これは呼吸の問題ではなく、霊魂が出て行くからだと考えるのが普通です。

「心」というものの存在に気づいた古人だからこそ呼吸を認識した。で、そんな彼らも呼吸の持つ「意識」、「無意識」の両面性には驚いたと思うのです。

「おーっ!よく考えてみれば、俺たち、眠っているのに息ができるし、しかも止めることだってできるじゃん!すご〜い!」

そこで彼らは呼吸を表す漢字を創る際に「新発見の『心』をつけようぜ!」と決めました。

それが「息」という漢字です。「息」は「自」と「心」から成っています。

nose「自」は「鼻」の象形です。ちょっとこれについては書きたいことがあるのですが、それはまた・・。

heartそして「心」は心臓の象形ということになっています。これについても書きたいことがあるのですが、それもまた・・。

「歩(足)」という漢字や「取(耳と手)」という漢字、あるいは「見(目)」にも「聞(耳)」にも「心」はついていません。( )内は、その漢字に使われている身体語です。

これらの文字は「心」という漢字が生まれる前、すなわち<二分心>時代にもあった漢字だし、認識されていた行動なのでしょう。それに対して「息」という漢字は<二分心>時代には存在しなかった漢字で、その活動が<二分心>時代には認識されなかったということを表します。

そして、それにわざわざ「心」をつけたのは、その活動が無意識(神の領域)にも意識(人の領域)にもまたがる活動だからです・・と思うのです。

●息はどこにでも入る

そして、さらに「息」のすごいところは、「息」を「心」で行うことによって、すなわち呼吸を「意識的」に行うことによって、本来ならば人がコントロール不能部分である自律神経系にも働きかけることができるところです。

「息」はすごい!

これに、古代人も気づいたに違いない。

いや、ひょっとしてこれは「息」に「心」をつけたことによって気づいたかも知れません。

息はただの空気の出し入れとしての呼吸ではない。それは「心」の一部なのです。

さて、最初の話に戻ると、空気は確かに肺にしか入らない。しかし、「心」の一部としての「息」はお腹にも入るし、足裏にも入るし、体のどこにでも入るのです。