さあ、野良息子の話の最終回です。今回で『鳩翁道話』の第一巻はおしまいです。

●親は子に迷うもの

なんと子に迷う、親の哀れな心をもご推察なさりませ。親猫が子猫をくわえて歩くように、蔭になり日向になり、人のそしりもご先祖さまへの義理も、またわが身のつまらぬ行末も構うこともない。子が可愛さに心を捉われきって、迷いに迷った親の心。実にあわれに、また気の毒なものでござります。

しかし、これはこの親が特別というわけではない。子を持った世間の親のこころはみなこの通りなのじゃ。

先師、石田梅岩先生の歌に・・

 子に迷う親の心を見るにつけ
  我がかぞいろもかくやありなん

これは、人の親が子に迷うのを見て、自分の父母もこのように思し召されたのだろうと思われてお詠みなされた歌じゃ。実にこの通りに違いはござりませぬ。この親の大慈大悲の光明が、かの不孝者の腸(はらわた)に沁みわたるとありがたいものじゃが。

●子から光明が輝き出る

さて、さすがに恐ろしい鬼のような乱暴者も、このありさまを見て、五体を絞め木でギリギリと絞めつけられるように感じて、なぜかは知らねども、胸先、喉元まで涙が突き上げてきて、声をあげて泣くこともできず、袖口を口にくわえて大地に倒れ伏して声を忍ばせて泣いている。

円位上人の歌に・・

 何事のおわしますかはしらねども
  かたじけなさに涙こぼるる

まことによう詠んだ歌でござります。

このとき、かの野良息子は、親のことを忝(かたじけな)いと思ったわけでもなく、またありがたいと思ったわけでもない。ただ何かは知らず、親の慈悲心がはらわたへこたえると、ようしたものじゃ、いても立ってもいられぬようになる。

これがこれ、人々固有の「本心」と言って、明らかな徳をみな生まれつき備わってはいるけれども、おのれが気随気ままの身勝手で、しばらくその光を隠していたのじゃ。

しかし、親の大慈大悲の光明ではらわたを貫かれ、自然と息子が本来持っていた光明が誘われて輝き出すと、気随気ままのむら雲はどこかへやら消え失せて、そこから親の慈悲が本当にありがたくなってくる。

 木賊(とくさ)刈る園原山の木の間より
  磨かれ出づる月のさやけさ

<木賊というのはヤスリのようにものを磨くのに使われていた植物:安田注>

格別の悪党が本心に立ち返ると、ひときわ勝れて磨かれ出る月のさやけさ、なんとありがたいものではござりませぬか。

●親族会議の結末

さてかの野良息子は、すぐさま座敷へ駆け込み、親たちに詫びを申そうとは思ったが・・

「いや、待て。このまま駆け込んだら、親類縁者は驚き、どんなことをするだろうと親たちも気が気ではないだろう。何も知らない顔で表口から入り座敷に出て、まずは親類に詫びをしよう」

・・と心に決めて、裏口から表口まで忍び足で周り、それから先はわざと雪踏の音もたかく、咳ばらいをしながら座敷に通ると、親類どもは大いに驚き、親達は我が子の顔を見て、夫婦とも泣いてござる。

かの息子も、何も言わずにうつむいて泣いている。

少し経って、かの野良息子、親類の人々に向かって・・

「さてこれまでも、勘当、勘当と度々聞きはしましたが、さのみつらいとも思ったこともございませんでした。が、今夜、寄合と承り、どうした事やらしきりに心細く覚えまする。これまでの重々の無調法、この上はきっと改めまするによって、今夜の勘当は、なにぶんしばらくご容赦下されい。長くとは申しますまい。ただ三十日の日延べをお願いしたい。そのうちに性根が改まらなければ、そのときは勘当をされても、一言も申し分はござらぬ。どうぞお前様方のお取りなしで、わが両親に三十日の、日延べをいたしてくださるるよう、お詫びなされて下されまいか」

・・と、いつになく頭を畳へすりつけて頼む。

このとき親類中は、親達の強情なまでの返答に、その座が白けてしまって、立とうにも立つこともできず、なんとなく居心地が悪い思いをしていたところに、この息子のひとこと。

これ幸いと一同はロをそろえて、親たちに、「今夜の所は、待ってやって下され」と詫び言をする。

親たちは、本心に立ち返らなくても、もとより勘当はせぬ心。まして今の一言を聞いて、ただ嬉し泣きに泣いている。

親類もこれをしおに、息子に向かって「しっかりと孝行をさっしゃれ」と言い捨てて、その夜の親族会議は終わりとあいなりました。

●悪童かえって大孝行となる

これから、かの息子どのが、手のひらを返すように孝行な人になり、二親に仕えるありさまは、実に小児が父母を慕うがごとく、これまでの悪行はあとかたもなく消え失せました。

このことが世間のうわさにもなり、半年も経たぬうちに、ご地頭様のお耳に入り、ついにお目がねをもって、大庄屋役をかの息子に仰せつけられました。

この一事をもってしても、かの息子がどれほどの孝行をしたか、ご推察いただけると存じます。

さてそののち三年ばかり経って、母親が大病にかかり、その末期の枕に、かの息子を呼んで言われるには・・

「いつぞやの勘当の評定の日より、何と思うたかお前の心が改まり、この上ものう孝行にしてくれる。もしそのときに、そなたの心が改まらず、そのうちにわしが死んだならば、地獄へ行く外はなかったところじゃ。今はそなたが孝行にしてくれる。何も思い煩うことがないゆえ、いま死んだら極楽へ行くに違いはない。わしを仏にしてくれるは、皆そなたの孝行のゆえじゃ」

・・と、手を合わせて拝みながら臨終をされたという事じゃ。

なるほど「当来の果を以て未来を知る」と。

この世で心苦しければ、未来もまた心苦しい。今日の手遅れは明日について回る。心の苦しいは地獄、心の楽は極楽。

親の苦楽は子たるものの行状にある。子が善であれば親は仏、子が悪であれば親は鬼になりまするぞえ。

一旦若気のあやまりで、何の分別もなく親に心使いをさせたり、親を泣かせたりの不孝も、この道理をよく理解して、今日ただいま志を立て直し、我が身に立ち返って孝行すれば、親ご様は今日から極楽暮らし。しかし、立ち返らず、いままでの通り不行状がやみませぬと、親御はそのまま地獄暮らし。

地獄極楽は、ただ「身に立ち返る」と「立ち返らぬ」との違いだけ。

この「身に立ち返る」を孟子は「放心を求むる」という。これがすなわち学問の事じゃ。
またあとは明晩お話し申しましょう。

下座

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『鳩翁道話』第一巻が終わりました。これで『鳩翁道話』の連載はしばらくお休みします。

長い間、ありがとうございました。