▼恥による支配

「情動」と「感情」の二つ目の例としてジェインズは「恥(情動)」と「罪悪感(感情)」を挙げています。

動物にも「恥」は見られるそうです。

へー、これはびっくり。恥ずかしいって人間の特権だと思っていました。

というわけで「恥」も情動ですね。前回に書いたように情動ということは解剖学的および生化学的反応が見られます。

さらに、恥は動物においては「支配原理」として機能しているのは明らかだとジェインズは書いています。

日本の芸能の起こりはまさにこれ。恥による支配が芸能の始まります。

山幸彦と海幸彦の兄弟のお話が芸能の始まりで、その起こりは『古事記』や『日本書紀』で見ることができます。ストーリーは両書か、あるいはリンクしたWikipediaなどを見ていただくこととして、簡単にいうとこの兄弟がいさかいをするのですが、海を自由にコントロールできる不思議な玉を手に入れた弟(山幸彦)が、兄(海幸彦)を負かしてしまうのです。

で、負けた兄はそれからずっと山幸彦の前で、負けた様を演じるという約束をします。これが芸能の始まりです。

『日本書紀』の一書によれば、顔や手のひらを赤く塗ったり、ふんどしをしたりしておかしな格好です(鬼に似てるでしょ。その関連はまたの機会に)。

で、そんな格好で、海で溺れるさまを演じるのですから、きわめて格好悪い。見ている方は嘲笑したり、あるいは大笑いしたりする。見られている方は「恥」を感じる。恥を自ら演じ、進んで笑われることによって、「はい。私はあなたに喜んで支配されます」と言っているわけなのです。

『日本書紀』の記述によれば「永遠に(!!)あなたの俳優(わざおぎ)者になりましょう」と言ってます。当時の俳優というのはお笑いの芸人です。

ちなみに海幸彦の一族は隼人になったといわれています。隼人って強い人ですから面白いでしょ。

▼能『土蜘蛛』もそれです

能『土蜘蛛(つちぐも)』も、そんな流れを汲む芸能です。

大和朝廷に逆らっていた土蜘蛛族。それを退治する源頼光とその部下たち。「源」姓は、皇族が臣籍降下するときに名乗る姓ですから、退治をしたのは天皇の血筋です。能の中で土蜘蛛は「天皇の治めるこの代を覆そうと源頼光に近づいた」といいます。

勇猛果敢に戦っていたそんな土蜘蛛も、最後は源頼光の部下たちに首を打ち落とされてしまいます。それが能『土蜘蛛』です。何度も何度も負けた様を演じさせることによって「恥」による支配をしようとする。

隼人(海幸彦)に対する仕打ちもそうですが、何度も何度も同じことを演じさせることによって、何度も恥という情動を感じさせる。そしてそれによって支配しようという戦略は、朝廷側の常套戦略だったようです。

お笑いなんかもそうですね。海幸彦も俳優(お笑い芸人)になろうと言ってますしね。視聴者は笑うことによって上から目線、すなわち支配者になれる。

で、この問題はとても面白い問題です。たとえばなぜ人は恥を感じるのか、とか、じゃあ、どうやったらそれを恥でなくすることができるのかとかね。

ロロ・メイ(実存心理学者)なんかも面白いことをいっているし、能は、ここでメタファーによる反撃を考え、それを実行するのですが(お笑いもそう)、それもここで書いていくと話がどんどん離れていってしまうので、これまたまたの機会ですね。

▼恥が罪悪感になる

さて、この恥を感じることは大人になると少なくなります。

それはジェインズによると「過去の恥によってきっちりと枠にはめられ、社会的に許容される行動の狭い帯域内に閉じ込められてしまう」からだといいます。そしてその過程で(すなわち子供時代には)、「絶対に目立たず、周囲に溶け込んでいようとする気持ち」によるさまざまな行為や情動を体験するのです。

で、この恥に時間が加わったものが「罪悪感(感情)」だとジェインズはいい、オイディプスの原型の物語を紹介します。

オイディプス王の物語はギリシャ悲劇で有名ですし、現代ではその物語から出た「エディプスコンプレックス」でさらに有名になりました。

詳しいお話はリンクしたWikipediaで見ていただくことにして、とても簡単にいうと父を殺し、それとは知らず実の母と結婚をしたオイディプスが、すごい悲劇を迎えるという物語です。近親相姦と実の親殺しという罪と、その返報としての罰の考えがベースになっています。

<二分心>時代の物語である『イーリアス』や『オデュッセイア』にもこれに似ている話があるのですが、ギリシャ悲劇と違うのは、主人公に罪悪感がないところだそうです。

「俺は父を殺し、母と結婚しているんだ!」ということに気づいた彼は、一時的に恥を感じたであろうが、しかしその恥からは立ち直り、その後も母である妻と幸せな生活を送り、後に王として栄誉ある死を迎える、という物語だそうなのです。

さっきから「〜そう」ばかりですみません。今は忙しくて『イーリアス』や『オデュッセイア』に当たっている暇がありません。

さて、恥は感じても、それが罪悪感になることはなかった。恥は情動で、これに時間枠、すなわち意識の魔法がかけられると罪悪感になります。

じゃあ、なぜ、罪悪感が生まれたかというと、それは「倫理」が生まれたからです。じゃあ、なぜ倫理が生まれたかというと、それは<二分心>の崩壊に伴って神々の命令という拠り所を失ったがために、新たな行動の拠り所としての「倫理」が必要となったからだとジェインズは言います。

これも重要なところですね。「倫理」の誕生。これについてもまた今度、詳しく見ていくことにしましょう。

▼それでも罪悪感を感じない人々

ここで次に行く前に、隼人とか土蜘蛛に何度も何度も恥をかかせるという戦略を大和朝廷が取らざるを得なかったということがちょっと引っかかります。

もし、隼人とか土蜘蛛の一族が<二分心>後の人たちだったら、何度も「恥の芸能」をさせなくても一度激しい恥を与えてしまえば、それで済むはずです。観る方だって面倒です。

何度も何度もそれをしなければならなかったのは、彼らが恥を忘れてしまうから、すなわち<二分心>の人たちだったからかも知れません。

『古事記』は上・中・下の三巻で成っています。上巻は神代の物語、下巻は人間界の物語。そして中巻はそれをつなぐ物語です。

上巻において「こころ」はあまり登場しません。登場するときも「心」という漢字か「許許呂」という万葉仮名で書かれます。が、中巻になると、こころに「情」という漢字が当てられるようになり、下巻になると「こころざし」という語すら登場します。

上巻の「許許呂」はオノゴロ嶋を作るときの擬音「許袁呂(コヲロ)」の仮名に似ているように、「凝る」すなわち固まる、がこころの語源だと本居宣長などは言ってます。とどまって動かない、それが心です。

が<二分心>崩壊後の人間の心は違う。ユラユラと動きます。

上巻の「許許呂」が静かな湖のような不動心なのに対して、中巻の「情」は湖に波が立ったような状態。そして下巻の「こころざし」とは湖から支流が出て川となって流れていくさま、ある方向性が与えられた心だということができるでしょう。揺れるだけでなく、動きだす。

同じ心でも神代の物語の心は、まだ揺れることを知らない<二分心>の心で、それが<二分心>の崩壊に伴って神々の命令という拠り所を失い、だんだんと不安定になるさまが『古事記』の構成の中にも見ることができます。

が、隼人とか土蜘蛛族はなかなかそうはならなかった。情動はあるけど感情はなかった。心も揺れない。だから喧嘩も強い。

そして頭も固い。・・から、大和朝廷のような新しい心と頭を持った策略には簡単に引っかかってやられてしまう(ここら辺も古事記、日本書紀、そして風土記に、その例をたくさん見ることができます)。

でも、やっつけた後も、やられたクセにぜんぜんこたえてないから手に負えない。

「まったく奴らは何度いってもわかんないんだから」とぼやきながら朝廷側は、隼人や土蜘蛛に何度も何度も恥をかかせるという面倒な仕事をしなければならなかったのかも知れません。

あ、あと近頃「恥」を知らない人が増えていますが、これはまた違う問題かな。でも、面白い問題です。が、これはまた、またね。

▼交尾とセックス

さて、話をジェインズに戻します。

彼が最後に扱うのは「交尾(情動)」と「セックス(感情)」です。

交尾は動物もする。が、動物は自分自身の交尾行動を意識することも、過去の交尾を回想することも、未来のそれを想像することもしません。情動としての交尾は、いま目の前の相手だけを対象とします。

それに対して、その行動を対象化(意識)し、過去のそれを回想し、未来を想像するのが人の交尾であり、すなわち「セックス」です。

もし、現代社会から「セックス」のこのような要素(意識、回想、想像)を取り除いてしまったら、ほとんどのビジネスは成り立たなくなります。いや、戦争すら成り立たなくなってしまうかも知れません。

これはちょっとゆっくり考えてみてください。

ね。でしょ。

さらには感情としての「不安」とか「罪悪感」とか、あるいは「喜び」とか「愛」とかも人から取り除いてしまったら、本当にビジネスや戦争のほとんどは消滅です。いや、社会自体が存在しなくなってしまうかも知れません。

興奮(情動)は喜び(感情)になり、親和(情動)は愛(感情)になったとジェインズはいいます。

そう考えると現代社会は「感情」によって動かされているといってもいいかも知れません。感情がなくなったら社会の崩壊です。となると社会を作ったのは、感情、すなわち「意識」、「心」なのかな。