▼意識と反応性

さて、前回はジェインズの『神々の沈黙』についてざっくりと書きました。

今から3,000年以上前の人々には意識がなかった。では何に従って行動していたかというと、それは「神」の声だった。で、その当時の人々の心を<二分心>とジェインズが名づけた、というのが前回の話でした。

あ、そうそう。要約は内田樹さんのブログで、と書いておきながら内田さんには何もお断りしていなかったのですが、今朝メールをし、快諾をいただきました。

今回は、前回、ペンディングにしていた「意識」とは何か(と、ジェインズが定義しているか)ということを書いておきます。

意識とは何か、ということを書くために、ジェインズは「意識とは何でないか」ということに最初の章を割いています。これはとても大切な章ですが、これに関してはぜひ本書をお読みください。今日、ここで書くのは、またまたざっくりです。

さて、そのざっくりの最初として「意識」に対応するものに「反応性」がある、ということを最初におさえておきましょう。

意識していなくてもできること、それが「反応性」です。これはいろいろあります。歩くのもそうですし、ご飯もそうやって食べている。

ピアノの演奏とか天才バレエダンサー、ニジンスキーとかもジェインズは例に出しています。

ピアノを弾いているとき、「意識はしばしば不要であるばかりか、非常に望ましくないことさえある」とジェインズはいいます。嵐のようなアルペッジオの最中に自分の指を意識した瞬間に演奏をやめざるを得なくなるだろうというのです。

これは大賛成!

『羽衣』という能があります。超人気曲で、もう百回以上は優にやってます。半分眠りながらでも謡はすらすら出てきます。・・が、前に一度、『羽衣』で謡を間違ったことがあるのです。それはまさに舞台上で、詞章に意識がいった瞬間でした。

「え、こんな歌詞は論理的に変だろう。正しくは何だったっけ」と思った途端、何が何だかわからなくなりました。結局は口に出した謡は間違いで、最初に「こんなのは変だろう」と思ったのが正解でした。

意識はかくも邪魔をする。

また、ジェインズの紹介するニジンスキーの話は面白い。

ニジンスキーは踊っているときはオーケストラ・ピットにいて、自分を振り返っている気がしたそうです。むろん、実際には舞台で踊っているんですよ。

ジェインズは言います。「彼は動きの一つひとつではなく、他人の目に自分がどう映っているかを意識していた」と。ニジンスキーは踊りに関しては反応性で行い、意識は別のところに置いていたのです。

これは能の大成者、世阿弥がいう「離見の見」を思い出させます。

役者は、「鏡の間」という特別な楽屋にある、大きな鏡に対しながら、まずはその役に完全に成りきります。しかし、舞台に出たら今度は見所(観客席)と同心になります。「目前心後」という言葉もあり、目は確かに前についているけれども、自分の後ろにある心から自分を見ている、そんな境地です。

舞は楽屋で達成したその境地に任せておき(反応性)、そこには意識は使わない。そして、意識はもうひとつ別のところに使う。

実はこれ、かなりいい方法で、そういう風に意識を飛ばしていると、いま自分がやっていることに意識を戻さなくてすむんです。

むろん、そのためには反応性で謡が出て、反応性で体が動くくらいに稽古をしておく必要はあるのですが。

というわけで人は意識を使わなくても行動できるだけでなく、意識が邪魔になるときもある、というジェインズの説でした。大事なキーワードは反応性です。

ただ、この説はちょっと乱暴ですね。たとえば歩くとか自転車を乗るとかが無意識化していく過程と、セリフなどが無意識化していく過程はだいぶ違います。そこら辺はもっとつっこんで考えたいところです。

漢字の「念」というのが、いいキーワードになるのですが、それはまた今度書くことにして、ここではジェインズの説の紹介を続けます。

▼情動と感情

今回はもうひとつ、「情動」と「感情」についても見ておきましょう。これを知っておくと、いろいろと便利です。本の中では後記の中に書いてある部分です。

<二分心>以前の人々には過去とか未来のように時間がありません。言語によって時間ができるということは前にもヘレンケラーのところで書いておきました。『ねこに未来はない』(長田弘)というように前頭葉がない猫には未来を知覚する能力がありません。<二分心>以前の人間が、ねこと同じであったかどうかはともかく、過去・未来という時間感覚がないのが<二分心>以前の人間の特徴です。

さて、ということを前提にして「情動」と「感情」の違いです。

まず「情動」。これは人間だけでなく、すべての動物にあります。情動には特定の「解剖学的表出」と特定の「生化学」を伴います。そして、さらに「生物学的」に体系化された行動を取らせます。

たとえば「恐怖」という情動が現れると、そのときしている行為を中断したり、逃げ出したり、あるいは特定の身体表現をしたり(以上が「解剖学的表出」)して、さらに体内ではアドレナリンやノルアドレナリンといったカテコールアミンの血中濃度が上がる(以上が「生化学」的反応)という反応が起きます。

イジメられたら顔が赤くなったり、ドキドキしたり、オドオドしたり、逃げ出したくなるのは人間だけでなく、すべての動物に共通する反応です。

情動の特徴は、それは時間の経過とともに消え去るというものです。たとえば「恐怖」ならば、恐怖を引き起こした対象や状況が取り除かれると、上記の反応は数分のうちに消えるはずです。

が、<二分心>以降の人間は違う。

ひとりになったときに、あのときのイジメ(過去)を思い出してしまう。あるいは会社や学校に行こうとする時に、「またいじめられたらどうしよう」と想像(未来)してしまう。

こんな風に過去とか未来とかいう時間との関連で現れてくるのが「感情」です。

「恐怖」は感情になると「不安」になります。

情動については科学はかなりの成果を挙げているのですが、残念ながら感情の方に関してはまだまだのようです。感情を断ち切る方法なども科学もうまい手をまだ考え付いていないのです。

・・が、ここでちょっと先走って書いてしまうと、『論語』が解決しようとした問題はまさにここです。が、これはまた後でね。

この「情動」と「感情」に関しては次回にも続きます。