前回は京都の蛙と大阪の蛙のお話でした。今回はその蛙の話を受けて始まります。まだ前回分をお読みでない方(あるいは忘れてしまった方)は、まず前回分をお読みください。

では、鳩翁先生のお話です。

******以下、本文の現代語訳*******

●義経の大松明

ある人の発句に、

 手はつけど 目は上につく 蛙かな

というのがございます。これはおもしろい発句でござります。

「ハイハイ畏りました」、「さよう、さよう。ごもっともでござります」と、口では言っても「目は上につく蛙かな」で「おれがおれが」の向こうみず。

これを「その心を放って求むるを知らず(放其心而不知求)」(『孟子』)と申します。

なんぼ「おれがおれが」で、何かをしようとしても、「おれが」の細工ではなかなか出来ることではございませぬ。

いや、このように申しますと「俺が体で俺が働き、俺が銭をもうけて、俺が口に俺が物を喰うのじゃ。人さまのお世話にはなるまいし、<おれが>でなくて、どうして世間が渡られるものじゃ」と、滅多やたらに「おれが」をいう人があるものじゃ。

これはきつい了見違いじゃ。

お上様(将軍)のご政道がなかったら、一日も「おれが」ではいられぬものじゃ。

昔、一の谷のいくさのとき、源義経公が、丹波の三草から摂津国へ押し寄せられるとき、山中で日が暮れた。案内する者はなし。暗くなっては困る。

そこで義経公、武蔵坊弁慶を召して「例の大松明(おお・たいまつ)をともせ」と御意(ぎょい)なされた。

弁慶かしこまって諸軍勢に命令を伝えた。配下の者たちは散り散りに走り回って、一の谷にある家々に火をかければ、一面に燃え上る。この火の光を便りに一の谷へ出られたと承ります。

●「おれが」なんて一瞬で消える

ここをよう考えてごろうじませ。

「これはおれが蔵じゃ」の「これはおれが家じゃ」の「これはおれが田地じゃ」の「これはおれが娘じゃ」の「これはおれが女房じゃ」のと、どのように「おれがおれが」を担いで歩いても、天下が乱れているときは、スッポンの間にも合いませぬ。

ありがたい事には、四海太平に治まり、ご仁政の至らぬ隈もなく、それぞれのお役人さまが、夜の守り、昼の守りと、お守りなされてござればこそ、屋根の下に寝ていることができるのじゃ。

自分だけの「おれが細工」では、手足を伸ばして寝ていられるものではない。

「雨戸を閉めたか、表の戸を閉めたか」と、しっかりと戸締りをして、「まずこれで用心よし」と落ち着いてお休みなされる。

が、その「用心」はどんな用心じゃ。四分板一枚、しかも裏表から削って、二分板一枚が、何ほどの用心じゃぞ。大きなおならをしても響き割れるくらいじゃ。そんな薄い板じゃ。

盗賊がそんな薄っぺらな板などを怖がって入らないとお思いか。

ちと思案してごろうじませ。

みなこれは、お上様(将軍さま)のご仁徳のおかけじゃ。結構な御代(みよ)に生まれ合わせた冥加のほども思わずに、「おれがおれが」と気随気ままを言いつのって・・・

「いや、おれの身代は千貫目、仰向けに寝ていても、五百年や七百年は遊んで喰っていられる。蔵が五つ、家は二十五箇所にある。貸付の証文が三百貫目だ。これほどあると、土佐踊りして贅沢をしても、五十年や百年は貧乏する気づかいはない」

などと、背中に目のある蛙の了見(りょうけん)。向こう見ずの胸算用、大丈夫な御要害じゃ。なんにも頼みにはなりませぬ。

寝ているうちに、彼の大松明になろうやら、大地震が起ころうやら知れぬというのが、浮世のありさまでござります。

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【蛇足な解説】

▼現代だって大変だ

ここで、最初に示された『孟子』の言葉のうち「その心を放って求むるを知らず(放其心而不知求)」が出てきました。「仁は人の心なり。義は人の路なり。その路を舎(す)てて由(よ)らず」に続いて孟子では「その心を放って求むることを知らず」とあります。ここはその説明の章です。

ちょっと「おれが」の話と「心を放つ」がつながらないかも知れませんが、次回につながるので次回までお待ちください。

さて、ちょっと脱線ですが、時代劇などでは将軍のことを「上様」と言ってますが、当時は「お上様」って言ってたんですね。

それと「向こう見ず」と「背中に目のある蛙」の関係。面白い。確かに背中に目があれば、向こうは見えませんね。

「おれの身代は千貫目」ってどのくらいかなあ。井原西鶴の『日本永代蔵』には借家に住みながら千貫目持ちという藤屋市兵衛が出てきます。

それはさておき、今回の話はすっと入ってきます。何の解説もいらないくらいです。

しかし、ここはすいすい飛ばさず、よくよく考えてみたいところです。

義経の大松明の話。ヒドイですね。義経、こんなことしてたんだ。現代は、滑走路のための土地買収だけでも大変なのに、平家を討つためならば有無も言わさず家々に火を放ってしまう。反対運動なんかしたら殺されちゃう。

それでも勝てば官軍。さらに討たれれば悲劇の英雄・・。う〜ん。

しかし、「ひどい、ひどい」と言ってられるうちはいい方で、これがわが身に降りかかったら大悲劇です。天災は保険がほとんど下りないし。

この数年、さまざまな土地で地震や噴火などの災害でつらい思いをしている人はたくさんいます。

いや、それだけじゃない。未曾有の大不況で、まじめに仕事をしていた人や、あるいはとても堅実な会社が一夜にしてすべて失われてしまう、なんてことも起こっています。

現代は、一見とても平安に見えるけど、実はとっても大変な時代なんですね。

▼海辺で育った昔のことなど

僕は海辺の町で育ちました。砂浜に伝馬船が数艘置いてあるような小さな町、というか本当は村です(行政区分としては町でしたが)。

当時の海辺の町の家々は、「浦の苫屋」という言葉がまさにぴったりというくらいに簡素な家々。

だって男衆の生活の大半は、板一枚下は地獄の舟の上か、あるいはパチンコ屋か飲み屋か映画館か淫売宿なわけですから、家なんかちょっと横になれればそれでいい。それも朝は三時くらいから起きだして舟を出すから、寝るといっても本当に簡単。

女衆だって、網を直したりする作業は、たいがい外でやってます。家の中でちまちまなんかやってない。

高校時代にちょっとの間だけつきあった女の子なんかは、「夫にするのは遠洋の漁師がいいな」なんて言ってました。「なんで?」って聞くと、「だって、その間、ほかの男と遊べるじゃない。みんなそうやってるよ」って。

まあ、みんな本当にそうやっているかどうかはともかく、そんな生活ですから、確実なものはない、「おれが」なんかない、という雰囲気が周囲には充満していました。

しかも夏になると年に一体は土左衛門(水死体)があがる。

都会から遊びに来ていたお兄ちゃんが、海面のすぐ下に渦巻く波を知らずに、よく呑み込まれたのです。ある年は、水中眼鏡をかけたまま飛び込みをした人がいて、すぐ下にあった岩に激突して頭をぐちゃぐちゃに割って亡くなったこともありました。

で、うちは浜から一番近いところにあったので、毎年そんな水死体の捜査本部が庭に設けられ、その家の子の特権で普通は「見ちゃダメ」と言われていた、毎年一体の土左衛門を拝むことができたのです。

さすがに岩と水中眼鏡でグチャグチャになった顔を見たあとは、当分その近くで取れる貝を食べる気にはなれなかったものです(が、いつの間にかまた食べてたけど)。

年に一度とはいえ、不慮の死を遂げた人を子供のころから見続けると、確実なものとか、「おれがおれが」ということなどが、いかに馬鹿げたものであるかということが身にしみてわかります。

▼父のことなど

現代の日本にも確かにたくさんの問題はあります。

派遣切り、ニート、老人問題、うつの増加などなど。隠れた格差も厳然としてあるのが日本の社会です。しかし、それでも一回の爆撃で多数の死者が出てしまっているようなところのニュースを見ると、日本は平和なんだなと実感します。

父は太平洋戦争中、陸軍の将校でした。学徒出陣です。

家は貧しかったために苦学してやっと大学に行ったそうです。が、戦況の悪化のため徴兵され、20数才で死を目の前に叩きつけられました。

幹部候補生の訓練の後、極寒の満州に送られました(南方だったら今ごろ僕はここにいないかも)。

主計将校で、しかも自動車部隊だったため実際の戦闘はほとんどしなかったし、体も楽だったといいますが、戦争中の話はあまりしたがらなかったし、僕が中国哲学を勉強するということに対しては異常なまでの反対をし、かつ自分は二度と中国の地を踏みたがらなかったことなどを考えると、意志に反した行為もかなりしたのではないでしょうか。

そのころの人たちにとって、「おれがおれが」という了見は無縁です。個人の夢は、国家の力の前にねじ伏せられていました。

そう考えると、「おれがおれが」という了見ができるというのはある意味、幸せなことなのかも知れません・・なんてことを言っていると危険。

「じゃ、いっか」というわけで、みんなが「おれがおれが」で過ごすと、いつの間にかまた大変な時代に逆戻りすることだってあり得ます。

▼クロアチアのことなど

1998年にクロアチアの能公演(梅猶会主催)に参加したときに、その舞台をトンカン、トンカンと作ってくれていた人と話をしました。

大工さんだと思ったその人は、実はちょっと前までは大学の教授。3年前まで続いていた内戦で教授としての職を失い、いまはそのような仕事をしていたのです。

彼が舞台を見ながら尋ねてきました。

「能は仏教がベースになっているのか。神道がベースになっているのか」

「両方だ」と答えると、彼は「なぜそんなことが可能なのか」と驚いていました。仏教と神道という全く異質の宗教が同じ芸能の中に存在し、しかも争いを起こさない。

彼のご子息は、宗教戦争が元となったクロアチア内戦で命を落としたということでした。そんな彼にとって仏教も神道も包み込んでしまう能という芸能(そして、日本という社会、文化)に強い興味を示し、さらにはその叡智をぜひ知りたいということでした。

むろん、のんびり日本で過ごしていた僕にはそんなことを答えられるはずもなく、ただその夜はその方とずっといろいろな話をしました。

その夜、彼はすごいことを聞いてきました。

「能でいう『幽玄』と、歌論で使われる『幽玄』とはどうも違うように感じるのだが、その違いは何だ」

お〜ッ!こんな人がトンカン、トンカン、舞台を作っているのです。

現代日本で生きていれば、努力はかなりの確率でむくわれるんだなと感じました。