昨日、せっかく時間があったはずなのですが・・・。

時間があると思って久しぶりにメルマガを出して、で、次にはホームページにカレンダーを付けて、なんてやっていました。ところがカレンダーを作るためにGoogleにメールアドレスを登録したら、急にすごい量のスパムメールが来て、その対応をしているうちにヒマなはずだった時間が終わってしまったのです。

ああ、ムダな時間だった。

というわけで、昨日書けなかった分を今日、書いています。今は電車の中。やはり下手にヒマがある日よりもバタバタしている日のほうが書けるようです。

▼要約は内田さんのブログで

さて、前回はミズンの『心の先史時代』の紹介をしました。今回紹介するのはジュリアン・ジェインズが書いた『神々の沈黙』です。

同書の出版社である紀伊国屋書店のホームページには紹介と目次が出ています。--->

『神々の沈黙』を書いたジュリアン・ジェインズ(故人。1997年没)は、プリンストン大学の心理学教授です。前に紹介した『心の先史時代』は認知考古学からのアプローチなのに対して、こちらは心理学からのアプローチかなと思いきや、叙事詩『イーリアス』からアプローチして、人間の心の発生を考えています。

さて、この本については内田樹さんがブログで何度か書かれているので、そちらをご覧いただくのが手っ取り早く、しかも確実です。内田さんのブログに行かれて「ジェインズ」と検索すると何箇所か出てきます。

まずは手っ取り早く「内容を知りたい!」という方は以下の日のブログがいいかも。--->

▼心とは「内省する意識」(ジェインズ)

さて、前回紹介したミズンは、心が生まれたのは6万年前(ないし3万年前)だといい、今回のジェインズは3千年前だと言います。

この差はすごい。ちょっとした誤差などと言って済まされる差ではありません。

この差は「心」の定義の違いから来ています。ミズンは心とは何かという定義はちゃんとはしていませんが、心の中のさまざまなモジュール(アーミーナイフのおのおの)の間に認知的流動性ができた時点が「心」ができた時だとしています。これが6万年前、ないし3万年前(この幅もすごいけど)。

それに対してミズンにとっての心は「内省する意識」です。

が「内省する意識」といわれたって、「意識」とは何かという問題はそう簡単には解決しません。そこでミズンは本書の最初で、意識とは「何でないか」を考え、ついで意識の「特徴」を検証してから、本題に入っています。

これも大切なのですが、ここで扱っていると複雑になるのでまた後日・・。

ちゃんとした要約は内田さんのブログに譲って、以下では究極の単純化をして数行で本書の内容(特に第一部)を書いてしまうことにしましょう。

▼『神々の沈黙』600字概要

その昔、人間には「意識」とか「意思」がなかったとミズンは言います。

意識とか意思がないのに、じゃあ、どうやって行動していたのかというと、それは「神」の声に従っていたというのです。

こういう人間の心をジェインズは<二分心>と名づけます。

なぜ「二分」心というかというと、古人の心の中は・・

(1)命令を下す「神」と呼ばれる部分と
(2)それに従う「人間」と呼ばれる部分

・・という具合に二つに分かれていたからです。そしてそのどちらも意識されませんでした。<二分心>の人間には意識がないのです。

「えー、意識がない状態で人は生活ができるの?」

という問に対してジェインズは、だって僕たちだってふだんほとんど意識しないで生活してるでしょ、と、たとえば車の運転とか、たとえばピアノの演奏とかを例に出しています。

と、ここまでがジェインズの言いたいことの概要で、それが第一部の内容。

そして、そんな風に神の声に従っていた<二分心>の人間から、現代の私たちのように「内省する意識」を持つ人間への変遷を文明の発祥からギリシャの神話とか、旧約聖書とかを紐解きながら解いていくのが第二部です。

で、この「意識」が生まれるのがジェインズによれば3千年前だというのです。

続く第三部では、現代に残る<二分心>の名残を「神託」、「預言者と憑依」、「詩と音楽」、「催眠」、「統合失調症」そして「科学」の中に見るという試みをしています。

ジェインズによれば、「今なお、新しい精神構造への移行のまっただ中にある」ので、実は現代人の多くも<二分心>で生きているといってもいいのです。

▼漢字の『心』の誕生もジェインズ説と同じ

『神々の沈黙』を知ったのは、松岡正剛さんのところに遊びに行ったときです(その日のことは松岡正剛さんのところのブログにあります)。

ちょうど「心」という漢字が甲骨文にはなく、周の時代になって唐突に現れたということに気づき、それを『心の先史時代』との関係で考えていました。そして、じゃあ「心」という漢字がどんな変遷をしていったのかな、ということを知るために該当箇所を『金文集成』から抜き出したのを持って、松岡さんのところにお邪魔しました。

松岡さんのところにある膨大な書籍群を見せていただきながら、その解釈を考えようというためだったのですが(すみません図書館のように使ってしまって)、ちょうどチェックをし終わったころ、お出かけをされていた松岡さんがお帰りになり、さまざまなお話をうかがっているうちに『神々の沈黙』の話が出たのです。

で、その帰りに購入し、一気に一部(178頁)を読んだのですが、漢字でも「心」が表れた周の時代が、ジェインズの説と同じでちょうど3千年前なのです。

びっくりしました。

『神々の沈黙』の中にも、ほんの一節ですが、次のようなフレーズがあります。

「中国の文献では、孔子の教えを記した『論語』によって主観性の世界へ飛び込んでおり、それ以前にはほとんど何もない(P.381)。」(索引には孔子の名前も『論語』も出てきませんが)

「後記」によると同僚のマイケル・カーが中国のこの問題について論文を書いているという話なのですが、まだ読んでいません。

ジェインズの「『論語』によって主観性の世界へ飛び込んだ」という直感はかなり当たっています。

ただ、正確にいえばちょっと違うし、孔子のしようとしたことは(多分)ジェインズが想像したことよりももっと重要なのですが、それに関してはもう少し経ってから書くことにして、次回も『神々の沈黙』についてもう少し書くことにしようと思っています。