心の生まれた日の4回目です。まだまだずっと続きます。

▼心という文字がないなら心もないのか

前回は、漢字の発生から見てみると、今から3,000年ほど前までは「心」という文字がなく、さらに「心」は生まれてからも長い間、日陰の存在だったということを書きました。

さあ、となるとここで生まれる疑問は、「『心』という文字がなかったとき、人間には心そのものもなかったんだろうか」というものです。これは、文字云々をちょっとわきに置けば、「人間には『心がない』という時代があったんだろうか」と問い代えてもいいかも知れません。

然り!という人たちがいます。

が、それについてお話する前にちょっと個人的な経験を・・・。

以前、中学生たちと漢文の「矛盾」の話を読んだことがあります。で、その数日後にひとりの中学一年生がちょこちょこっとやってきて、「あの漢文のおかげで大変なことになった」と文句をいいます。彼がいうには、こうです。

漢文で「矛盾」という言葉を知るまでは、自分の中に「矛盾」があることに気づくことがなかった。が、一度「矛盾」という言葉を知ってからは、自分の中の矛盾が気になって、それまでの確信がグラついてしまって大変になってしまった、というのです。

なるほど。

ちなみにこの彼には、このほかにも名言がたくさんあるのですが、それはまた・・。

▼コトバがなければ時間もない

ヘレンケラーも似たようなことを書いています。

彼女がサリバン先生との「Water」の衝撃的体験で「すべてのものには名がある」と知った瞬間(瞬間だったかどうかは忘れましたが)、今まで感じたことのなかったふたつの感情、「悲しみ」と「後悔」が訪れたそうです(これは記憶だけの未確認ですので引用される方は要チェック!)。

私たちの記憶は「コトバ」によるところが大きい。このコトバというのは、いわゆる言語としての言葉だけではなく、絵とか音楽とか、そんなのも入ります。コトの端、すなわち実物とか実体験とかの一部を切り取って象徴したものです。アイコンのようなものですね。

昨日起こった<あること>を記憶するのに、そのまんまなんかはムリだから、ある一部(事の端=コトバ)で象徴して記憶する。で、後刻、そのコトバ・アイコンがクリックされると、そのときの感情とか行動とかが一挙に湧き上がってくる。

三重苦というのは、そのアイコンであるさまざまなコトバのどれもが認識できないのだからこれは大変。記憶もほとんどなくなる。記憶がないということは、時間もない。時間がなければ過去も未来もない。

で、「後悔」は過去にやったことに対する感情だから、コトバがなければそれがないのは当たり前。「悲しみ」も、かつてあるもの、あるいは本来はあるべきものがないときに生じる感情で、さらにはこれから先も多分ないんじゃないかなってことが含まれるとさらに増大する感情だからコトバがなければこれもない。

さらにいえば未来がなければ「不安」もない。

「名」や「言葉」がないとき、私たちは動物ととても近い存在になるのです。

過去や未来の呪縛から離れて、とっても自由!

▼身体文字と心理文字

となると「心」という文字がなかったときには、心がなかったかも、という意見もあながち荒唐無稽とはいえないかもしれないのです。

・・が、そうはいっても「文字はなくても『こころ(中国語ならシン)』というコトバはあったんじゃないの」という反論はあります。日本だって、コトバは話していながら無文字であった時代はすごく長いし、今だって無文字文化の方が文字文化よりもずっと多いほどですから。

でも、これは漢字文化では考えにくい。だって「心」という漢字ができるずっと前に、かなり多くの文字が、そしてかなり複雑な文字ができていたという事実があり、もし心を現すコトバ「シン」とかがあった場合は、それを文字にしないという理由があまり見当たらないからです。

人間に関する文字を「身体文字」と「心理文字」に分けるとすると、それまでの文字はみな「身体文字」で、「心理文字」はひとつもないんです。

ただ、だからといって「心がなかった」というのはやっぱりちょっと言いすぎだと思うのですが、その前に「心」の発生についての二人の説を次回から二度にわたって紹介して、それからこの問題についてまたあとで考えてみましょう。

次回から紹介するのは、ひとつは『心の先史時代』を書いたスティーブン・ミズンの説、そしてもうひとつは『神々の沈黙』のジュリアン・ジェインズの説です。

では、次回に・・。