朝早くにドバイの空港に着き、端から端までがとても長い空港。トランジットに6時間ある。カフェでコーヒーとクロワッサンを食べながら、本を読んだり、原稿を書いたりする。

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現地(ドバイ)時間10時発のサンパウロ行きに乗る。今度のフライトは14時間40分の予定。こりゃあ長い。アフリカ大陸を横断して、大西洋を渡り、赤道を越えてサンパウロに行く。

乗る前は気が重かったが、乗ってしまえば案外楽しい。気がついたら6時間経っていた。アフリカ大陸もそろそろ終わり、大西洋に入ればすぐに赤道だ。

『海辺のカフカ(上)』はトランジットの間に読んでしまい、下巻は預けたトランクの中なので、いま書いている書籍用に持ってきた『論語』と、雑誌「言語」連載用に持ってきた『古事記』を読む。機上で倭建や神武の旅を読むと東京で読んでいるときとはちょっと違う。

倭建や神武の旅と今している自分の旅行とが重なる。なんてこというと倭建や神武に怒られそうだが、それでも東京で読んでいるよりも旅の実感を感じる。

『論語』を読みながら孔子の旅にも思いを馳せる。

旅をしながら旅の物語を読む。しかも古典がいい。これはなかなか贅沢な読書法だ。

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先史時代の人間が非常によい保存状態で山中で発見され、アイスマンと名づけられた。胃の内容物から、彼は傷を負いながらも、その住居からはるばる旅をしてその山中に至ったと推測されている。

人は本能的に旅をしたいのだろう。旅というと限定されるので言い換えると、人は本能的に動きたい、あるいは歩きたいのだろう。

脳は変化にのみ反応するという。脳にとって変化が快感ならば、「一所懸命」というのは人の本能に反する。やはり能の旅僧のように「一所不住」というのが自然だ。

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先日、バスに乗っていたら後ろの座席にワーワー騒ぐ女の子と、そのお父さんが座っていた。女の子といっても、そんなに小さい子ではない。お父さんと話をした。娘さんは何かの障害があって、そうなんだという。アメリカにまで治療に行ったがダメだったそうだ。

彼女はバスが走っている間は静かで、止まると騒ぐ。「動いているのが好きなんです」とお父さんは言う。彼女のように本能的であればあるほど、自然の欲求がそのまま出るのだろう。

が、止まっていても静かなときがある。お父さんにそれを指摘したら、あ、本当だ、という。彼女の視線の先を追ってみる。と、そこに動くものがあった。次に止まったときに、動くものを探して、お父さんに彼女をそちらに向けてもらうと静かになった。

自分が動けない場合、動くものを見ることでその欲求は満たされるのだろうか。目と身は日本語では語源が同じだともいう。目は身体の欲求を代わり得る。むろん、全部じゃないけどね。一時的レスキュー。

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私たちは普段、無理やり定住させられてしまっている。一所懸命を求められる。変化も少ない。かといって自分が変化するのはイヤだ。だから映画やテレビドラマを見たり、ワイドショーを見たり、他人の不幸を喜んだりするのだろうか。

変化を求める脳の欲求は歪んだ形で解決を求めている。

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なんて考えているうちにサンパウロに着いた。ホテルに着いたのは夜の10時過ぎ。ちょうど12時間の時差なので、日本時間は朝の10時。

着いた途端にレセプション。早く寝たい。

てなこと言いながら、これをアップロードしてから寝ます。

 安田