2018年03月

何もしないことによってつくりだされる変化〜 身体意識と動き – 身体を響かせる

3月8日(木)は、ロルファーの田畑浩良さんとの対談です。

「ロルファー・Tのロルフィング対話 in 代官山 vol.04」ということで、古武術の甲野善紀先生、ヒモトレの小関先生、NYの小林健先生、吉本ばななさんと、まざまな方との対談をされている中で、今回、呼んでいただきました。

●田畑さんからロルフィングを受ける

田畑さんは、僕にロルフィングをしてくださった方です。田畑さんからロルフィングを受けたのは、たぶんもう10年以上も前になるでしょう。

田畑さんからロルフィングを受ける前、右半身が痺れてしまい、舞台に支障をきたすようになっていました。オリンピック選手を診ているという整体の先生のところに行ったり、脳神経外科に行ったり(はじめてMRIを撮った)、そのほかいろいろしたのですが、なかなか原因がわからなかった。

結局、頚椎が神経を押しているのが原因ではないかということで、「これは手術しかない」と言われました。首の手術です。失敗したら下半身不随のおそれもある。友人の臨床心理士などは、「まあ、そうなったら心のケアは俺がしてやるよ」なんて言っていました(笑)。

師匠に相談したら、手術はやめておけ、我慢しろということ。しかし、それはキツイ。

そこで、ロルフィングのことを思い出しました。

80年代、僕は西海岸文化が好きで、いろいろ調べていたときに知った施術でした。90年のはじめ頃、Rolf Instituteだったかエサレンだったか忘れましたが、「ロルフィングを勉強したい」と尋ねたら、「解剖学・生理学を大学で修めた人しかダメだ」と言われて、それ以来、忘れていました。

日本でロルフィングの資格を持っている人がいるとは思わなかったのですが、それでも藁をもつかむ気持ちでインターネットで調べてみると何人かのロルファー(ロルフィングの施術者)がいることがわかりました。

でも、実は怪しい人が多かった(笑)。

僕は、スピリチュアル系の人には近づかないことにしているのですが、当時のロルファーはそういう人が多かったですね。

あ、一応言っておきますと、僕はスピリチュアル全般が嫌いだというわけではなく、「スピリチュアルが好き!」という人には、逃避系の系の人やメンヘラ系の人が多いので(そういう人も嫌いではないのですが)、近づかないようにしているのです。

で、田畑さんからは全然、そうい匂いがなかった。

そこで、田畑さんに連絡をして通い始めました。

正直いって、そこから先の事はあまりよく覚えていません。ロルフィングでしびれが治ったと言う自覚は全くありませんでした。でも、気がついたらしびれがなくなっていた。

師匠を始め、周りの人から「しびれはどうした」と聞かれて、はじめてしびれがなくなっていたことに気づいたのです。

●何もしないロルフィングと何もしないワキ(能)

田畑さんだけでなく、ロルフィングと言うのはクライアントの主訴を基本、無視します。たとえば「腰が痛い」とか、「肩が凝っている」とか、そういう訴えを無視する。ただ、すべきことを淡々とします。そのうち、ひょっとしたら主訴の症状は治るかもしれないし、治らないかもしれない。それがロルフィングなのですが、その「主訴完全無視」の究極のロルファーが田畑さんなのです。

さて、それから僕もロルフィングを学んだのですが、その話は今回はパス。

田畑さんからロルフィングを受けて、10年以上経ったのですが、友人でも田畑さんからロルフィングを受けたと言う人がたくさんいます。

いま超多忙を極めている玉川奈々福さんなどは、田畑さんのおかげで過酷な日々を乗り切れているといます。しかし、ロルフィングを受けているときには、何をされているのか全然わからなかったと(笑)。田畑さんはロルフィングの間、ほとんど何もしないと言うのです。

僕がロルフィングを受けたときには、まだ少しはしてくれていたように記憶をしていますが、田畑さんのロルフィングは「何もしない」という方向に進化をしている。

さて、今回の対談のテーマは、これです。

何もしないことによって変化を生み出す。それがテーマです。

●あわいのワキも何もしない

僕は、能のワキ方に属しています。

ワキ方というのは、脇役という意味ではありません。ワキとは「分く」、すなわち2つの物の「分け目」、「境界」をいます。

能のシテ(主人公)はこの世の存在ではないものが多い。例えば幽霊、例えば神、あるいは精霊。ふだん私たちが死んでいる、「この世」とは違うところに住んでいる存在です。ですから普通の人はそういうモノに会うことができません。しかし、ワキはそういうモノに会うことができる。

会うことができるだけでなく、そういうモノの存在を、自身を通して観客に見せることもできる。それがワキです。

ワキというのは、この世に住みながら、あの世ともつながることができる。すなわちこのふたつの境界、すなわち「あわい」に住まいする者、それがワキです。

ちょっと細かいことを言うと、「間」と「あわい」はちがいます。

「間(あいだ)」と言うのは物と物の(それこそ)間をいいいます。それに対して「あわい」と言うのは「会う」が語源の語で、あるものとあるものとの重なり部分、そこを「あわい」というのです。ワキは、このあわいに住んでいます。

間あいだ

あわい


さて、あの世の存在である幽霊がこの世に現れるのは、この世に執心があるからです。解決できずに死んでしまった「思い」、未完の思いがあります。

それを晴らしにやって来るのですが、悩みや思いは深すぎると、自分でもそれをうまく表現することができない。いや、表現どころか、自分がどんな悩みがあるのか、どんな思いがあるのかを認識することすらできない。

ワキのするのは「問う」という行為によって、それを明確にすることです。

しかし、ワキの「問い」は最低限の問いです。それも思いや悩みとは関係ない問い。たとえば「ここはどこですか」とか「その歌を歌ったのは誰ですか」とか、そんなどうでもいい問い。

しかし、その問いがきっかけとなり、シテは自分の思いを語り始め、やがて舞い始める。

そうしたら、あとはワキは何もしない。いや、正確にいえば、それは正しくない。

全身全霊をこめて「何もしない」ということを「する」のです。

●「誠」も何もしないで変化を起こす

僕は東京を中心に「寺子屋」をしているのですが、いま『中庸』を読んでいます。儒教を学ぶ人の必読書である「四書五経」の四書の中の一冊です。

『中庸』の後半のテーマは「誠」です。「誠」の力を中庸では…

「勉めずして中たり、思わずして得、従容として道に中たる」

…と書きます。

努力をせずともぴたりと符合し、あれこれ考えなくても何でもゲットでき、そして自然にしていても「道(タオ)」にも合致している。それが「誠」の力です。

新渡戸稲造は、それを「動かずして変化を作り、無為にして目的を達成する力」といいます。

そして、「誠」に達した人(至誠)は、自分は何もしなくても、その人の持っている本来の力を十全に引き出すことができると『中庸』にあります。

それはまさに田畑さんのロルフィングであり、そして能のワキの機能でもあります。

田畑さんは「誠」のロルファーなのです。

3月8日には、そんなことを田畑さんとお話しながら、なんと田畑さんのワークもあるとか!すごいっ!

すごく楽しみです。

詳しくはこちらで→「晴れたら空に豆まいて」

平川克美さんの『21世紀楕円幻想論』を巡る対談

2018年3月初旬には、おふたりとの対談があります。

最初は3月6日(火)にミシマ社さんから『21世紀楕円幻想論』を出された平川克美さん、そして8日(金)にはロルファーの田畑浩良さん。ともにとても楽しみなので、その話を書こうと思います。

まずは6日(火)の平川克美さんとの対談から。

平川さんには隣町珈琲(荏原中延)での講座でお世話になっています(隣町珈琲は平川さんがオーナーです)。去年は『論語』をし、今年は『古事記』をしています。去年の『論語』の講座は、春秋社から『あわいの時代の『論語』: ヒューマン2.0』として書籍化され、いまお話している『古事記』も書籍化の話があります。

講座には、平川さんも何度も顔を出してくださり、ご挨拶やちょっとしたお話はさせていただいているのですが、ちゃんとお話をするのは今度の対談がはじめてです。

今回は『21世紀楕円幻想論(ミシマ社)』(平川さん著)を巡っての対談です。

楕円幻想論


その日暮らしの哲学」という副題が付けられている本書は…

一年前に、会社を一つ畳んだ。

…という書き出しからはじまる「まえがき」が巻頭に置かれます。続いて、それによって全財産を失ったこと、そして同じ時期に肺がんの手術で右肺の三分の一を失ったことという、下手をすると暗渠に引きずり込まれて、読者までもが暗闇の濁流にのみ込まれそうな話題を、たとえば「臓器移植の悪魔のセールスマンも、無い肺は売れない(言い過ぎですね)」という具合になんともあっけらかんと書く。

そして、「贈与は奴隷をつくり、鞭が犬をつくる」という、お礼をいわれることを拒否するエスキモーの狩人の話やら、平川さんご自身のご尊父介護の話やらから「全体給付のシステム」と「等価交換システム」について、さまざまに語られるのですが、これがとてもわかりやすくて、めっぽう面白い。

●等価交換

僕たちのふだんの経済活動は「等価交換システム」です。

たとえば何か商品を買うと、それに見合ったお金を支払う。等価の「商品」と「貨幣」が「交換」されます。当たり前ですね。

マーケティングの黎明期に、アメリカン・マーケティング・アソシエーションがマーケティングの定義を毎年、変えていた時期があって(って今は知らないのですが)、基本は「マーケティングは『交換』である」というのがあり、まずは…

商品と「貨幣」との交換

…と言っていたのですが、経済社会が変わると、やがて…

サービスと「貨幣」との交換

…になり、それが…

知識と「貨幣」との交換

…などなどいろいろ変化するのですが、でも「交換」「貨幣」は変化しない。

まあ、これも当たり前といえば当たり前。でも、よく考えると何か変ですよね。少なくとも、自分の肌感覚からすると、「あれ、ちょっと変…」と感じてしまいます。

なぜ「貨幣」と「交換」は固定しているのか。

特にF.コトラーが『非営利組織のマーケティング戦略』なんか書いちゃうと、教会も学校も「貨幣」との「交換」の場だと認識されてしまう。でも、「交換」ではないものもたくさんある。

たとえば僕は寺子屋をやっていて、それは「お賽銭形式」なのですが、これがよく誤解されます。東京以外で、主催してくださる方が「素晴らしいと思ったらたくさん入れてください」なんて言われます。いわゆる「投げ銭形式」ですね。でもそれは全然違う。

「投げ銭形式」は僕の話と貨幣との「交換」になります。しかし、交換をするためには、そこには評価が入る。僕は評価される気は毛頭ないし、自分の講義と貨幣との交換だなんてまったく思っていない。

今回、平川さんや田畑さんと対談をするのですが、それは出講料がいくらだから出るのではなく、相手が平川さんや田畑さんだから出る。交換なんかでは、全然ないのです。

●等価交換

だいたい「等価交換」だなんて、本当は誰も考えていないでしょ。

たとえば僕が、あるものを2,000円で買うとする。そのとき、心の中では「これ、2,000円にしては安いなぁ。ほんとは2,500円の価値があるぞ」なんて思っているわけです。

逆に売る方からすれば「本当は1,500円の価値しかないけど、2,000円で売れた。500円、儲けたわ」と思っている(これはダマしているのではなく、それが利潤になります)。

…で、みんな心のどこかでとなると、「等価交換」なんてないと知っているし、そんなもの、なくて当然だと思っている。本当に「等価交換」なんてしていたら、(少なくとも会社の方は)税理士さんからも公認会計士さんからも税務署からも叱られてしまうのです。

●全体給付のシステム

そんなわけで、僕はこの世の中には「等価交換」なんてありはしないと思っているので、基本的に経済活動を信じていないし、だからというわけでもないのですが「非・交換」的な行動をよくしています。

まあ、そこら辺は対談でいろいろお話をしますが、しかしなぜ自分がそれをするのか、あるいはそれをする意味がうまく説明できなかった。周りからは「バカなんじゃないの」と言われたり、そんな目で見られたりする。

あるいは、「あんなにしてもらったのにお礼も言わないで失礼な奴だ」と言われたりもする。

または「それによって、本当は何かを得られるからするんでしょ」なんて言われたりする。

論理的な思考は、あまり得意ではないので、「本当は何かを得られるんでしょ」なんてことを言われ続けていると「そうか。自分は何を得ているんだろう」なんて考えてしまう。あるいは「自分はアホなんやな」なんて思ってしまう。でも、やっぱり違うと思っていた。でもでも、答えが見つからなかった。

が、平川さんの本で、それは「全体給付のシステム」にのっとる活動で、実はそれはそれでアリ…どころかなかなかいい手だということを知ったのです。

…と、いろいろ書いていくと当日、話すことがなくなってしまうので、そろそろやめますが、この本の副題「その日暮らしの哲学」は、まさに僕の生き方そのもので、そして60歳を過ぎた今の目標として「その日の暮らしにも困りつつも優雅に生きる生き方」を目指しています。

そんなわけで、平川さんとの対談はとても、とても楽しみなのです。

この対談で、お金持ちには(絶対に)なれないけれども、いろいろなことがスッキリして、なんか身が軽くなるのではないかと思っています。

あ、そうそう。「楕円幻想論」とは何かは、どうぞ本をお読みになるか、あるいは当日をお楽しみに〜。

まだお申込みでない方は、ぜひお早目に!

*****記*****

2018年3月6日(火)19:00〜20:30(開場 18:30〜)
@青山ブックセンター 本店 大教室
料金 1,350円(税込)
お問合せ先
電話:03-5485-5511 受付時間:10:00〜22:00

詳しくはこちらで→
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