2017年7月に春秋社より『あわいの時代の論語 ヒューマン2.0』を上梓しました。

その「はじめに」と「あとがき」を掲載しつつ、この本の紹介をします(これは小倉ヒラクさん@『発酵文化人類学』のマネです)。

「はじめに」には、各章の概略も書いてありますので、本書の内容もざっと知ることができます。


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表紙と各扉のイラストは中川学さんです。

最初に春秋社さんが書いてくれた内容説明を!
「君子」とはどんな人なのか?「仁」の境地に達するには?――
AI等の急速な進歩によって、3000年にも及んだ「心」の時代に大変革が訪れようとしている。かつてない激動の時代にこそ、文字が急速に発達した時期に書かれた孔子の『論語』が役に立つ! 究極の温故知新がここに!1

では、まず本書の「はじめに」を掲載します。
各章の概略もあって読んだ気になれます(笑)。

【はじめに】

いまからおよそ3,000年前(紀元前1,300年頃)。古代の中国では文字が誕生しました。

文字は「時間」を生み、「論理」を生み、そして「心」(という文字)も生みました。生まれたばかりの「心」の意味はいたってシンプル。すなわち、未来を変え、過去から学ぶ力、それが「心」でした。

02-02心金文02
<(ちんちんみたいな)心という文字>

文字が生まれる前、そして「心」が生まれる前、私たち人類はみな「夢」の世界に生きていたのではないのでしょうか。夢の世界といってもファンタジーのような楽しいことばかりではありません。

怖い目にあっても、夢(悪夢)の中の選択肢は「逃げる」ことのみ。恐怖の対象に対して何とかしようと冷静に思索を巡らし、計画を立てるなどということは夢の中ではできません。ただただ逃げるだけです。これは夢だけでなく、小さな子どももそうです。

文字以前の世界、「心」以前の世界は、夢の中の世界と同じであり、無力の子どもの世界と同じでした。

文字の発明によって「心」と「時間」を手にいれた人間は、変えられないと思っていた未来や運命を変える力を手に入れました。恐怖の対象から、ただ逃げるだけでなく、それを何とかしようと計画を立て、実行に移すことができるようになりました。どうすることもできないと思われていた自然災害や猛獣たちの災いからも身を守ることができるようにもなったのです。これは大きな革命でした。

そこから「心の時代」が始まりました。

しかし、明るい未来を手に入れた人間は、未来に対する「不安」をも同時に手に入れてしまいました。また、過去から学ぶ力を手に入れた人間は、同時に過去に対する「後悔」も手に入れてしまったのです。

未来を変える力を、心の「作用」だとすれば、「不安」は心の「副作用」です。

その副作用に対する処方箋を私たちに与えてくれたのがお釈迦様であり、イエスであり、そして孔子です。みな、2,000年以上も前の方たちです。それなのに今に至るまで、このお三方を凌駕する人物が現れないのは、「心の時代」がまだ続いているからです。

しかし、近年の急激な時代の変化を肌で感じていると、「ひょっとしたら、文字や心の誕生前夜もこうだったのではなかったか」と思います。文字が生まれたばかりの頃の文字資料を読んでいると、いま私たちが直面している不安や期待に似たものを感じるのです。

本書では、心の時代のもっとも重要な書物のひとつである『論語』をガイドとして、文字の誕生前後の世界のありさまを読み解きながら、これからの世界がどう変わるのかも考えていきたいと思っています。

本書の内容は以下のようになっています。

【第一章 あわいの時代】
間あいだ
あわい
<「あいだ」と「あわい」。「あわい」は縁側的境界>

2045年に訪れるという予測がなされているシンギュラリティ(技術的特異点)を目前に、いま世界は大きく変わろうとしています。人工知能がすべての人間の脳の総量の機能を凌駕するというシンギュラリティが訪れたら人間はどうなってしまうのだろうか。そう心配する人も多いでしょう。

しかし、人類は過去に何度もシンギュラリティを経験して、今に至っています。その直近のシンギュラリティが今から三〇〇〇年(古代中国)〜五〇〇〇年(古代メソポタミア)前に訪れた「文字の発明」でした。この文字シンギュラリティによって、人類の中には「心」が生まれ、それに伴い「時間」や「論理」なども生まれたのです。

文字ができた直後に書かれたものの中には、文字以前の記憶が含まれているものも多くあります。この時代は、前・文字時代と文字時代との双方の記憶を含む時代なので、「あわいの時代」と呼ぶことにしましょう。

このあわいの時代の神話や文学、思想書などを読むことによって、古代の人々が文字シンギュラリティをどう迎え、そしてどのように対処したのかを私たちは知ることができ、さらにはこれから来るシンギュラリティをも予測することができるでしょう。

そして、あわいの時代の書籍の一冊が『論語』なのです。

【第二章 心の時代】
古代の言語で書かれたものを読むと、最初期の「心」は、耳、腹(内臓)、血流、性器、子宮などの身体語によって表現されています。
『論語』の中にも「心が腹部にあったとイメージされていた」ことを推測される文があります。食べ過ぎると、お腹が飽和状態になって心が使えなくなると孔子はいう。でも、そういうときにはバクチをするといいとも孔子は言います。

長谷雄草紙
<飽食の日にはバクチ(博奕=双六)がおすすめ>
『長谷雄草紙(永青文庫蔵)』
※書籍掲載にはちゃんと掲載料をお支払いしました。ここは無断です。許して〜。

本書でいう「心」は、私たちが現在考える「心」の機能とは少し違います。定義をすれば「時間を知り、未来を計画し、過去から学ぶ」ことができる能力です。「意志」や「自由意思」の一種といってもいいでしょう。それができたばかりの「心」の機能でした。

古代中国の殷(商)の時代、しばしば生贄にされるという運命を担わされていた一族がいました。羌族といいます。彼らはなぜ唯々諾々と生贄にされていたのか。彼らの運命を甲骨文から読むことにより、心の誕生前後の消息を知ることができます。

人牲02
<生贄の甲骨文。三人の羌族が生贄にされる>

また、文字と心の関係を確認するためにヘレンケラーとピダハン(アマゾンに住む人々)の例を紹介し、また日本でもほんの数十年前には「心」が希薄な人々が多かったことを芹沢光治良の小説から紹介します。

【第三章 君子】
孔子の理想像のひとつは「君子」でした。反対は「小人」。しかし、君子や小人がどのような人であるかは『論語』の中では定義がなされていません。
そこで、五経のひとつである『尚書』を読んでみると「小人」というのは「ふつうの人」の意であることがわかります。たとえば人からひどいことを言われたら、思わずムカつく、あるいは落ち込む。そのようにふつうに反応するのが小人(ふつうの人)であり、その反応が小人の反応、自動反応です。

それに対して「君子」とは何か。君子も、むろんそのような自動反応はします。しかし、それに一度ストップをかけて選択的に応答する。それが君子です。そして、これこそ「心」の機能のひとつであり、このように「心」を使おうと決めた人を君子というのです。

君子の「君(尹)」という語の語源は、身体的な欠落を持った人であるという説があります。精神的な欠落を持った人もそうです。

尹
<尹という文字>

身体的、精神的に欠落を持つからこそ、「ふつうの人(小人)」に先立って「心」を使う必要がありました。古代中国の聖人はみな身体的な欠落を持っていたことを紹介し、『聖書』からもその例を見てみてみます。

【第四章 礼と六芸−身体拡張装置としての「礼」】
孔子が提案した最高の理想像が「仁」です。本章(四章)から最終章(六章)までは「仁」について考えていきます。
孔子は「仁」という概念を提出することによって、文字シンギュラリティどころか、これから来るべきシンギュラリティ後の世界までをも予測することになりました。しかし、「仁」はきわめてつかみにくい。そこで本章では孔子の導きに従って、まずは「礼」を通じて「仁」にアプローチしていきます。

「礼」をはじめとする六芸(礼・楽・射・御・書・数)は、身体を拡張するための装置でした。来るべきシンギュラリティでいえばロボットやアンドロイドがその役割を果たします。

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<六芸の一つ「御」>

本章では、この六芸ひとつひとつを見ながら「仁」への道をゆっくりと歩んで行きます。本章は、扱うべき素材が六つもあるので、ちょっと長いです。読んでいるうちに疲れてしまうかもしれません。ここで読むのをやめてしまう人もいるかも知れない。

もし、読み進めながら「大変だな」、「長いなぁ」と思ったら、本章は飛ばして次章に進み、最後にもう一度戻ってきてください。本章を読んでいなくても次章以下を読み進めることには(あまり)支障がありません。

【第五章 知識−脳の外在化によって生まれた精神活動】
前章の「礼」が身体の拡張装置であり、それが来るべきシンギュラリティにおけるロボットやアンドロイドだとするならば、脳の外在化装置は「文字」であり、それは今でいえば人工知能(AI)のようなものであったといえます。

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<シュメールの楔形文字>

文字によって脳を外在化させることによって、私たちの脳には余裕が生まれ、そこで「知」という精神活動が生まれました。

「知」とは過去や現在の知識から、誰もが考えつかなかったまったく新しい知見を得るという精神活動で、孔子はそれを「温故(而)知新」という言葉で表現しました。本章では、この「知」の過程を扱いますが、「切磋琢磨」についてもお話します。

【第六章 仁−ヒューマン2.0】
「仁」は君子とともに孔子にとってももっとも重要な概念のひとつでした。しかし、『論語』の中の「仁」の記述は逆説と矛盾に満ちています。孔子は仁について何を言いたいのか、またそもそも仁とは何なのか、『論語』の記述からだけでは全然わからないのです。

これは仁が知的に読まれることを拒否する概念であることを示すのではないか、ということで、本章では「仁」については細部にこだわらずに、自由に読んでみることにします。そういう意味では、本章のトーンは、ほかの章のトーンとちょっと違って戸惑う方もいるかも知れません。

孔子は「もし王者が出現しならば、ひと世代(三十年)後には、仁の世界が現れるだろう」という予言をしています。「王者」というのは『論語』の中ではここしか現れない言葉で、孔子以前の古典の中にもまったく現れない言葉です。

この王者というのは、ひょっとしたら顔淵のことではなかったか。顔淵は早世してしまいましたが、もし彼が長生きをしていれば、世界は「仁」の世界になったのではないか。

では、そもそも「仁」とは何なのか。

「仁」も孔子の時代にはない文字です。仁とは「人+二」、すなわちヒューマンver2.0(これは、ドミニク・チェンさん@『謎床』のアイデアです)、人と神をつなぐ、ニーチェの超人に近い概念だったのではないか

などという観点をベースに、殷の時代から神々がどう変容してきたのかも検討し、また天命についても考えます。

【付録 『大盂鼎』を読む】
『大盂鼎』という青銅器の銘文を読むことによって、私たちは古代中国において「論理」が生まれた瞬間に立ち会うことができます。『大盂鼎』の銘文を、論理の誕生を中心に読んでいきます。

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では、本書の「おわりに」を掲載します。

【おわりに】

付録の「『大盂鼎』を読む」の最後に、リニア(直線)とノンリニア(非・直線)の話を書きました。

文字そのものの持つ構造によって、リニアな世界に投げ込まれた古代中国の人たちは、『大盂鼎』においてリニア世界のひとつの成果である「論理」を獲得し、同時に過去や未来という「時間」や、それを知るための機能である「心」をも手にしました。

リニア世界は、心の世界でもあるのです。

私たちは、いまその世界にどっぷりつかっています。

が、しかし、論理も時間も心も、すべてリニア的思考によって作り出された、リニア世界の中で培われたもの、いわば幻影であるということを忘れてはならないでしょう。

時間がリニア(直線)に流れると思うのも私たちがリニア世界にいるからであり、悲しみや怒りが持続すると思っているのもリニア世界にいるからです。「いま泣いたカラスが、もう笑ろた」といわれるようにノンリニア世界に生きる幼児に感情の持続はないし、リニアな時間もありません。

しかし、魚に水が見えないように、私たちはよほど意識的にならなければリニア世界につかっているということにすら気づきません。

孔子は、リニア世界の外を見ようとし、そしてリニア世界から自由になろうとしたひとりでした。「君子」というアイデアによって、リニア的ツールを使いこなす方法を教えた孔子は、「仁」というまったく新しい人類の可能性を創造することによってリニア世界から自由になる道を示しましたのです。

リニアは私たちに有益であるとともに、感情の持続(いつまでも悲しい、苦しいなど)、不安、後悔などを生み出し、私たちを苦しめるものでもあります。

先年、マイクロソフトからホロレンズ(HoloLens)が出て、MR(複合現実)というアイデアが提示されました。むろん、まだまだ発展途上段階で、いまのホロレンズにはたくさんの問題がありますが、これが普及し、現実世界(と思っている世界)に、もうひとつの3D世界が出現し、そしてそれを皆が共有できれば、文字は今のような二次元である必要はなくなります。Z軸にも意味を持つ文字の創造が可能だし、そうなったときに文章もリニアである必要はなくなります。

また、図や表による思考も二次元の制約を受けません。(詳述している紙幅はありませんが)たとえば現代の民主主義や地政学的な限界、あるいはリストラなどの人間性を無視した方策は、二次元的思考が生み出したものです。

子どもの頃から三次元図形をZ軸からも眺めるのが当たり前になっていれば、3Dどころか4D、5D的思考ができるようになるでしょう。多変量を多変量のまま理解できるという、いまとはまったく違う思考ができるようになるはずです。

現代人にとっては当たり前のMRIなどによる病気の予測や天気予報などの「未来を見る」ということが、おそらくは古代人にとっては驚異であろうように、これからの子どもたちは、今の私たち現代人からすれば驚くべき「目」を持つことにもなるでしょう。

むろん、そのときには脳の機能や構造にも変化があるかもしれません。また、過去の文字シンギュラリティによって生み出された「時間」も「論理」も、そして「心」も新たなものによって上書きされるに違いありません。

これから数十年後、「昔の人は、時間が過去から未来に流れるものとだけ思っていたんだって」と笑われることになるかもしれません。

そうなったときのことを想像して、その視点でもう一度『論語』を読み直すと、また新たな発見があるかもしれません。

二〇一七 初夏

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