2016年08月

能『羽衣』って実は不思議(4)

日本の女性にシンデレラ・コンプレックスなんてない、という前回の続きです。

▼いまの浦島と昔の浦島

日本のおとぎ話で、このことと関連があるのは「浦島太郎」です。

浦島太郎と処女喪失説話って全然関係なさそうですね。まあまあ。

一応、(いま僕たちが知っている)浦島太郎の物語をまとめておきますね。

(1)子どもたちにイジめられていた亀を浦島太郎が助ける
(2)その亀に連れられて龍宮城に行く
(3)そこにはごちそうをしてくれる乙姫様がいる
(4)舞踊りをする鯛やひらめもいる
(5)それらを見ているうちに月日の経つのも忘れる
(6)帰ろうとすると玉手箱を土産にもらう
(7)帰郷するとまったく違う世界になっていた
(8)心細さに玉手箱を開けると中から白い煙が出てきてお爺さんになってしまう

これが僕たちが知っている「浦島太郎」ですが、これは明治時代に巌谷小波(いわや・さざなみ)がまとめたバージョンで、昔のそれはこれとはいくつかの違いがあります。

「昔のそれ」といっても、本当はね、一概にこれ!ということはできないんです。浦島伝説を載せる書物は多く、古くは奈良時代の『風土記』『日本書紀』、さらには『万葉集』にも載っています。そして平安時代になると『続浦島子伝記』なるものが出現し、さらに中世になると『御伽草子』に載り、なんと狂言や能にもなっているのです。

でも、そこら辺を詳しく書いていくと話がどんどん離れていくので、大雑把に「昔のそれ」ということで許してください。

で、これらすべてに共通するのは上記の(6)と(7)くらいです。(6)だって玉手箱ではなく「玉匣(たまくしげ)」となっているものもあり、意味としては大体同じですが、それでもちょっと違います。

▼イケメン浦島

さて、いまの浦島太郎と昔の浦島太郎(ほんと、大雑把ですみません)との一番の大きな違いは、浦島が亀を助けていないということです。

いまの浦島太郎は、どちらかというと、いい人だけど、あまりモテない。「わたしたち、いいお友だちでいましょうね」、「はい(涙)」というイメージです。

でも、昔の浦島は、すごく男前なのです。イケメンです。たとえば『丹後国風土記』には次のようにあります。

姿容(かたち)秀美(うるは)しく、風流(みやび)なること類(たぐひ)なかりき。

で、彼を見初めたのが海神の娘である「亀姫」さま。

浦島が釣りをするためにひとりで海上に浮んでいるのを見つけた亀姫は、五色の亀となって彼に釣られてしまいます。浦島が不思議に思って亀を眺めていると、なぜか眠くなって彼は眠ってしまうのです。

ふと目を覚ました浦島はびっくり!狭い船の上に美女が乗っているではありませんか。そう。亀が亀姫になったのです。

で、その美女は浦島にいいます。

「一緒に蓬莱山に行きませんか」

龍宮城に行きましょう、なんて言ったら、絶対「ヤダ!」といわれる。だって「龍宮」って龍の宮殿。能『海人(あま)』の中では「八龍並(な)み居たり」と謡われますし、龍だけでなく「悪魚(恐ろしい魚群)」や「鰐の口(サメ)」もいる、そんな怖いところです。そりゃあ、イヤです。

ですから、亀姫さまの誘惑は「蓬莱山に行きましょ」です。不死が約束されているパラダイス、仙郷です。

「行きます!行きます!」と浦島がいえば、またもや、ほわーんと眠らされて、気がつけばそこは大きな島、蓬莱山。

と、まずはここまでを見直しておきましょう。

浦島太郎の物語で積極的なのは亀姫の方です。しかも、二度も相手を眠らせて(睡眠薬を使ったかどうかはわからないけど)、自分の思うようにしてしまう。逆ナン。ストーカーといってもいいかも知れない。

シンデレラや白雪姫とは全然違います。

▼ちょっとエッチな浦島

さて、亀姫と一緒に蓬莱山に行った浦島は、スバル童子や亀姫のお父さん・お母さんにご挨拶をして、ご馳走をいただきます。そこには亀姫だけでなく、キレイなおねえさんたちがたくさんいて、お酌をしてくれたり、お給仕をしてくれたり、舞を舞ってくれたりします。

ところが夜が更けるにつれ、ひとりいなくなり、ふたりいなくなり、とうとう亀姫と浦島だけになってしまうのです。

アヤシイでしょ。

そう。そして、ご想像の通り、コトが始まるのです。

「肩を双べ、袖を接(つら)ね、夫婦之理を成しき」と書かれます。「夫婦之理」は「みとのまぐはひ」と訓じられ、イザナギとイザナミの性行為が、やはりこういわれます。

「あれ、鯛やひらめは?」

そんな細かいことは気にしなくてもいいの!

…なんてことはいいません。実は、これ大事なのです。

平安時代の『続浦島子伝記』によると、ふたりの夜のコトは次のように書かれています。
玉體を撫で纖腰を動かし、燕婉を述べ綢繆を盡くす。魚比目の興、鸞同心の遊。舒卷の形、偃伏の勢(撫玉體、動纖腰、述燕婉、盡綢繆。魚比目之興、鸞同心之遊。舒卷之形、偃伏之勢)。

ここに「魚比目」という語が出てくることに注意しましょう。これがおそらく「鯛やひらめ」の元ですね。で、これは何かというと、実は『医心房』という本に出てくる「体位」なのです。

どんな体位かというのは、良い子が読む可能性もあるので略しますが、「すべすべの体を撫で回し、細い腰を動かし、さまざまな睦言をいいながら手足をからませ(玉體を撫で纖腰を動かし、燕婉を述べ綢繆を盡くし)」、以下、「魚比目」ほかのさまざまな体位でいたしました…という文です。

こんな風に、現代の浦島と全然違う昔の浦島ですが、ラストシーンもちょっと違うのですが、今回はそこは省略します。

▼処女性はどうでもいい

さて…というわけで『古事記』のヒーローの相手の女性たちだけでなく、乙姫さまならぬ亀姫さまもシンデレラ・コンプレックスに無縁どころか、自分から男をゲットしに行くという積極性を見せるのです。

「あれ、処女性の話はどこに行ったの?」

あ、話がどんどん離れていってしまいました(寺子屋もよくこうなります)が、僕は古代の日本においては「処女性」ってどうでもよかったんじゃないかなと思うので、もう処女性の話なんかもどうでもいいと思っているのですが、そうもいかねいので一応書きますね。

たとえば処女を示すと思われる古代語に「未通女(をとめ)」という語があります。「未通」だなんて、まさに処女そのものの言葉ですね。

でも、注意したいのは和語(日本語)の「をとめ」は「若い女性」という意味で、これには「未通」か「既通」かなんて区別はありません(ちなみに、何歳までが若いなんていうのもない)。

で、これに漢字を当てたのが「未通女」なのですが、でもこの語は『古事記』にも『日本書紀』にも現れない、『万葉集』独特の用字なのです。

『万葉集』で「未通女」として使われるときは、神に仕える女性であることが多く、だから神に仕える女性は処女でなければいけなかったんだという説もあるのですが、しかし高橋蟲麻呂家集で「未通女」は次ような使われ方もされています。

鷲の住む 筑波の山の 裳羽服津(もはきつ)の その津の上に、率(あども)ひて 未通女(をとめ)壮士(をとこ)の 徃き集ひ かがふ嬥歌(かがひ)に 他妻(ひとづま)に 吾も交はらむ 吾が妻に 他(ひと)も言(こと)問へ…

鷲住、筑波乃山之、裳羽服津乃、其津乃上尓、率而、未通女壮士之、徃集、加賀布嬥歌尓、他妻尓、吾毛交牟、吾妻尓、他毛言問…


これは嬥歌(かがひ)、すなわち歌垣の歌です。男女が筑波山に登って、歌を歌いかけ、やがて男女の交歓となる。

「未通女(をとめ)壮士(をとこ)の徃き集ひ」と書いてあるので、参加条件は「処女」と「童貞」だけかと思いきや、「俺も人妻と交わるぞ(他妻に吾も交はらむ)。俺の妻に他人も言い寄れ(吾が妻に他も言問へ)」と言っていることから、人妻も人夫(「にんぷ」じゃないよ:ひとおっと)も参加していた。

参加者はいわゆる「処女」「童貞」だけではなかった。

となると「未通女」というのは、ただ「若い女」を意味していたようで(繰り返しますが年齢制限もない)、処女かどうかなどはどうでもよかったのではないかと思うのです。

ちなみに『古事記』の中で、ニニギ命が新婚の木花咲耶(コノハナサクヤ)姫がすぐに妊娠したので「まさかお前」と疑うのですが、それもその子が自分の子かどうかを疑ったのであり、彼女が処女だったかどうかではありませんでした。

…まだまだ続く 

能『羽衣』って実は不思議(3)シンデレラと天女

能『羽衣』についての続きです。

▼能『羽衣』は「白鳥処女説話」としても異例

前に能『羽衣』は「白鳥処女説話」の類型だ、という ことを書きました。

「白鳥処女説話」というのは…

(1)処女となって地上に降りた白鳥が、

(2)その衣を人間の男に取られてしまう

…という説話で、その白鳥は聖なる存在であることが多く、そういう意味では能『羽衣』は、確かに「白鳥処女伝説」のひとつの類型だということができます。

ただ、「白鳥処女説話」には、もうひとつ大きな特徴があります。それは…

(3)乙女と化した白鳥は男と結婚をする

…というものです。

白鳥は処女であることの象徴であり、男と結婚することによって「処女」性を捨てて「母」になるのです。

で、これは能『羽衣』以外の日本各地に残る「羽衣伝説」もみなそうで、結婚もせずに(すなわち処女性を奪わず)衣を返して別れてしまうというのは、「白鳥処女説話」としても、「羽衣伝説」としてもかなり異例なのです。 

▼処女喪失説話

これは、そのような羽衣伝説があったというよりも、能の作者がそのように変えたと見られています。

「白鳥処女説話」の特徴である乙女の処女性喪失というのは、「白鳥処女説話」に限る話ではなく、『シンデレラ』だって、『白雪姫』だって、『眠れる森の美女』だって、『ラプンツェル』だって、みんな王子様がやって来て結婚をするのですから、ある意味、これらをまとめて「処女性喪失説話」ということができます。

余談ですが、処女喪失という点から見ると『ラプンツェル』は、『シンデレラ』や『白雪姫』や『眠れる森の美女』とはちょっと違うところがあります。

『ラプンツェル』以外の物語では(諸本による異同はありますが)、結婚式や披露宴で終わることが多いのですが(すなわち処女喪失が暗示されて終わる)、『ラプンツェル』だけは王子様が塔に上った日にすでにセックスはすませているのです。

しかも「喜びと性的悦楽(joy and pleasure)」のうちにです(本当はドイツ語ですが英訳です)。

ちなみに、この表現は後代の訳本では、もっとやんわりした表現になっています。両訳を対照させたHPです。

http://www.pitt.edu/~dash/grimm012a.html

▼日本の女性は強い!

話を戻しますね。

さて、こうやっていろいろな童話のタイトルを並べてみると、「あれ?」と思うことがあります。

日本の昔話、たとえば「かぐや姫(『竹取物語』)」はどうなんだっけ?

そうなんです。かぐや姫は、天皇をはじめ多くの貴公子に求婚はされますが、最終的には誰のものにもならない。すなわち処女のまま月の世界に旅立ってしまいます。

かぐや姫も、天の羽衣の天人も男のものにはならない。

「だからナンなんだ」といわれればそれまでですが、これって面白いと思うのです。

西洋の童話の中の女性には、処女性と引き換えに男性(王子様)に助けてもらうというパターンがあるようですが、しかしそれは童話の中にとどまらず、「いつか私の王子様(Someday my prince will come)」の「シンデレラ・コンプレックス」として現実の中にもあるようです。

それに対して日本の物語はどうか…ということで日本"神話"英雄譚を見てみると…

あ、神話に「” ”」をつけたのは、厳密な意味では日本には神話というものがないからです。この話をしていくと長くなるので”神話”としてスルーさせてください。

さて、そんなわけで日本の古代の物語の例として日本”神話”を見てみようと思います。

日本”神話”で英雄といわれている人は主に次の3人です(このほかにもいますが典型的な3人を。神武天皇についてもちょっと…)。

  • スサノオ命
  • 大国主命
  • ヤマトタケル命

この3人の事跡の中で、西洋風の童話に近いのは、スサノオヤマタノオロチを退治する見返りとして、クシナダ姫をゲットするエピソードです。

しかし、これだって泣いているのは国つ神の両親だし、クシナダ姫は「私を助けて」なんて一度も言ってない。いやいや、両親だって、スサノオが「娘をくれ」といったときに、最初は「お前、だれや」なんて言ってる。

大国主命やヤマトタケル命に至っては、女性は彼らに助けられる存在ではなく、むしろ彼らを「助ける存在」としての女性として登場します。スサノオのお姉さんの天照大神なんて、日本の最高神の一柱だし、男装して戦ったりして、そりゃあ強い。

強い人に守ってもらいたい、救い出してもらいたいなんていう西洋の童話に登場する「シンデレラ・コンプレックス」丸出しの女性は、古代の日本の女性像ではないのです。

※この話、続きます

▼天籟能、いよいよ近づいて来ました。

8月7日(日)です。

お待ちしておりま〜す!今回は会場が広いので、お席もありますし、当日券もあります。詳細はこちらで〜。

http://watowa.blog.jp/archives/51460046.html  

能『羽衣』って実は不思議(2)怪しいワキ

能『羽衣』の不思議、第二弾です。

▼幻覚漁師、伯龍

前回の最後に、漁師「伯龍(はくりょう)」の名前について書きました。

「伯龍」というのは、龍を飼う一族の名前ではないか…と。

で、その最後にこんなことを書きました。
考えてみたら、ほかの漁師たちには見つけられなかった(というより、おそらくは見えもしなかった)羽衣を見つけることができたり、大口というすごい装束を着たり(今回は着流しでするかも)、このワキのただもの感はハンパないのです。  

そう、能『羽衣』の最重要アイテムである「天の羽衣」は、ほかの漁師には見えず、この漁師だけに見えたのです。

さらにその登場の際に漁師はこんな不思議なことを言っています。

我、三保の松原にあがり、四方(よも)の景色を眺むるところに
虚空に花降り
音楽聞こえ
霊香(れいきょう=霊妙なる香り)四方に薫ず 
三保の松原に出てみたところ、空中から花が降ってきて、しかも音楽も聞こえ、さらには妙なる香りも四方に漂ったとあるのです。

それを不思議に思った伯龍(はくりょう:漁師)がふと松を見ると、そこには衣がかかっていて、それが天の羽衣だったのですが、この衣を伯龍以外が見つかられなかったということは、ほかの漁師には、空中から降り下る花も、虚空から聞こえる音楽も、そして四方に薫ずる霊妙な香りも感じなかったに違いないのです。

まあ考えてみれば、「空中からの花吹雪」やら「虚空からの音楽」やら「霊妙な香り」やらを見たり、聞いたり、嗅いだりする方が変かも知れません。

現代だったら、これらはすべて幻視、幻聴、そして幻嗅として片付けられてしまうでしょう。しかし、これらを感じることができる、それが漁師、伯龍のすごいところであり、そしてそれこそ能の目指すところでもあるのです。

▼もうひとつの「目」

1969年にチャールズ・タートが『Altered state of consciousness』という本を出しました(和訳は出なかった)。日本語に訳せば『変性意識状態』。

『変性意識状態』というと、いわゆるトランス状態をいうことが多いのですが、しかしタートの本を読むと、そういうアブない話だけでなく、いま自分たちが思い込んでいる「意識」や「感覚」以外にもさまざまな、可能性としての「意識」や「感覚」があるんだなぁと思ったりします(もちろん危ない話も出てきますが:笑)。

たとえば、僕たちは何かを「見る」ときには角膜とか水晶体とか網膜とか、そういう器官を使います。ざっくりいえば「目」を使ってみます。

でも、夢を見るときに「目」という器官を使って見る人はいません。でも、ちゃんと見ている。

…となると「目」以外で「見る」ということも可能だということになります。

同じように「聞く」も「嗅ぐ」も、そして「触れる」もです。

僕の見た「夢」の話が本当かどうかは、他の人には絶対にわからないように(そして他の人には、それが本当かどうかの証明ができなくても、それでもやはり自分にとっては本当であるように)、漁師、伯龍にしか見えなかった「空中からの花」や「天の羽衣」、伯龍にしか聞こえなかった「虚空の音楽」、伯龍しか嗅ぐことができなかった「霊妙な香り」も「実在」であり、かつほかの漁師にとっては「非在」でもあるのです。

…となると「実在」と「非在」の違いって何なのでしょう。

▼ポケモンGOと能

能を大成した世阿弥は、天照大神が天の岩戸に隠れてしまった状態を「言語を絶して、心行所滅」と表現しました。

「言語を絶して、心行所滅」とは、あらゆる感覚や差異がなくなって、心の働きも、身体的な運動もすべてが滅した状態です。岩戸の闇は、視覚的な闇であることに留まらず、あらゆる感覚・思考・感情など、すべてが滅する完全な闇なのです。

ジョン・C・リリーの感覚遮断実験を思い出す人もいるでしょう。そういえば、『アルタード・ステイツ』という不思議な映画もありました。

そんな状態では、「実在」と「非在」の違いはない。

デカルトは「我思う、ゆえに我あり」と言いましたが、「心」も滅しているわけですから「思い」もなくなる。だから「我」もない。

おお…。

でも、逆にいえば、そこは何でも出現し得る世界。何でもあり得る世界。そこにないものも出現し得る世界でもあるのです(アメノウヅメ命の舞とか)。

それは「現実」のちょっと横にある、もうひとつの次元の世界なのかも知れません。そこに伯龍はふと迷い込んでしまった(芭蕉の旅もそうです)。

そうそう、「ポケモンGO」が流行り始めましたね。あの地図を見ていると、いま自分がいるところでありながら、まったく違う世界にいるように錯覚をしてしまいます。さらにそこにポケモンが出て来る。

あのようなものを「AR(拡張現実)」といいます。ARのAは「拡張された(augumented)」のAですが、それこそ「別の可能性(alternative)」のAかも知れないな〜、なんて思います。可能性体としての、もうひとつの世界です。

▼「脳内AR」

…と話がちょっと飛んでしまいましが、僕はこの「幻覚を見る」というのは伯龍の役割だけでなく、「能を観る」ということはそういうことなのではないかと思うのです。

野上豊一郎は「ワキは観客の代表だ」と言いましたが、観客も代表であるワキとともに幻覚を楽しむのが能ではないかと思っています。

能の舞台の上に、世界を再現するような大道具を設置しないことも、照明を使わないことも、効果音を使わないことも、すべて観客の幻覚を期待している。

ワキとともに花を見、音楽を聞き、香りを聞く。三保の松原の波の音を聞き、天に昇る天女を幻視する。それが能の楽しみ方なのです。実際にそのように楽しまれている方もいらっしゃるようです。

「え〜、そんなのできるわけないじゃん」という方。

実は"日本人"(←括弧付)は、この幻視がとても得意な人たちなのです。

子どもの頃、そろばん教室で暗算をした人は思い出してください。読み上げられる数字を、空中のそろばんに足していき、そして最後はその空中のそろばんを見て答えを言ったではありませんか。

お寺でワークショップをしたときに「障子の桟があると、そろばんのようでやりやすいです」とある小学生が言っていました。

障子の桟という「現実」の上に、そろばんの珠という「幻」を重ねる。まさに「AR」です。

ぜひ、みなさまもシンプルな能舞台という「現実」の上に、漁師とともに三保の松原の景色や松籟という「幻」を楽しみ、あるいは中天高く上っていく天女とともに空中遊覧すらをも楽しむ、そんな能の楽しみ方ができるようになってください。

「脳内AR」、それこそ能の楽しみ方です! 

▼天籟能、いよいよ近づいて来ました。

8月7日(日)です。

お待ちしておりま〜す!今回は会場が広いので、お席もありますし、当日券もあります。詳細はこちらで〜。

http://watowa.blog.jp/archives/51460046.html 

能『羽衣』影絵ストーリー

能『羽衣』の物語です。
 
ワキ持ち帰る02
ある春の朝、三保の松原の漁師、「伯龍(はくりょう)」が浜に出ると、空からは花が降り、音楽が聞こえ、妙なる香りが四方に漂っていた。不思議に思った伯龍が松を見ると美しい衣がかかっていた。「家宝にしよう」と伯龍は、その衣を取って帰ろうとする。
 
シテ呼びかけ
…とそこに呼びかける美女が。「その衣は天人の羽衣。人に与えるものではない」という天女に、「それならなおさら返せない。これは国の宝にしよう」という伯龍。

掛け合い02
「その衣がないと空を飛ぶこともできず、天に帰ることもできない」と嘆く天女。「なら地上に住めばいいじゃないか」という伯龍。そのやり取りの中で、天人の頭の華がしおれはじめ、天人自身も忽然と衰えていくのです。
 
衣を返す03
その嘆きを見て、かわいそうに思った漁師は衣を返すことにするが、その代わりに「天人の舞楽」を舞ってくれと頼む。「衣がなくては舞えない」という天女に、漁師は「衣を返したら舞わずに天に帰ってしまうのではないか」と疑う。すると天女は「いや疑いは人間にあり。天に偽りなきものを」という。我が身を恥じた漁師は、衣を返す。

シテ装束を着る青空
衣を身にまとった天人は、この三保の松原や富士の景色は月の都にも劣らないと謡いつつ舞い、東遊びの駿河舞を授ける。

七宝充満02
そして、報恩の舞を舞ったあと、「あらゆる願いが叶い、そして国土も豊かになるように」と、七宝充満の宝を降らしつつ、月の都に昇って行った。

※『羽衣』と『真田』が上演される8月7日(日)の「天籟(てんらい)」能の会。お待ちしております。

天籟能の会のおしらせ→http://watowa.blog.jp/archives/51460046.html  

能『羽衣』って実は不思議(1)


シテ装束を着る青空能『羽衣』は、能の中の能といわれている名作です。

「もし、この世の中に一曲だけ能を残すとしたらどれにするか」というアンケートを、能の雑誌で取ったことがあったのですが、その時も堂々の一位!

そのくらいの名曲です。

ところが、この『羽衣』、なかなか不思議なことがいっぱいあるのです。それをこれからお話してみたいと思うのですが、まずは物語を簡単に紹介しておきましょう(ご存知の方は飛ばしてください)。

ある春の朝、漁師「伯龍(はくりょう)」が浜に出ると美しい衣が松にかかっていた。取って帰ろうとすると天女に呼び止められ、「それは天人の羽衣、人間に与えるべきものではない」といわれる。

漁師が「天人の羽衣ならば、なおさら返すことはできない」というと、天女はみるみる衰え始める。かわいそうに思った漁師は衣を返すことにするが、その代わりに「天人の舞楽」を舞ってくれと頼む。衣がなくては舞えないという天女に、漁師は「衣を返したら舞わずに天に帰ってしまうのではないか」と疑う。

すると天女は「いや疑いは人間にあり。天に偽りなきものを」という。我が身を恥じた漁師が衣を返せば、天女は約束の舞を舞いつつ天上に帰っていく。

▼白鳥処女説話
 
人気の理由は、まずはその舞姿が美しいことでしょう。さすが天人の舞です。今回の天籟能でシテ(天人)をお勤めいただく梅若万三郎先生は、本当に美しいので、お楽しみに。

そして、そのテーマが普遍的だということも人気の理由のひとつです。

能『羽衣』は駿河国(静岡県)の三保の松原でのお話ですが、羽衣伝説は三保の松原だけでなく、『風土記』をはじめとして、さまざまな伝説が日本各地に残っています。ただ、多くの羽衣伝説では、天女は男と結婚をして、後年、どこかに行ってしまうのですが…。

また、「白鳥処女説話」という物語類型があります。白鳥が処女(おとめ)に化して地上に降り立ち、人間の男と結婚をするというものです。これって羽衣伝説に似ているでしょ。

そうなると羽衣伝説は「白鳥処女説話」として世界的に普遍な物語と見ることもできるのです(古い話ですがザ・タイガースの『花の首飾り』もこの類型ですし、『白鳥の湖』もこの類型の変形ですね)。

羽衣のお話は、日本だけでなく世界にも通用する普遍的な話なのです。 

▼天(あま)の羽衣とかぐや姫

この作品における最重要アイテムはなんといっても「天(あま)の羽衣」です。

松にかかっていた天の羽衣を、漁師(伯龍)が取ってしまうのですが、このアイテムがなかなか怪しい。

能の中では、羽衣は空を飛ぶためのツールとして紹介されています(「羽衣なくては飛行(ひぎょう)の道も絶え」)が、そんな単純なものではありません。

天の羽衣が日本の文学に最初に登場するのは『竹取物語』、かぐや姫のお話です。

まずは原文を紹介しますが、古文を読むのが苦手な方は無視してかまいません。

天人の中に持たせたる箱あり。天の羽衣入れり。またあるは不死の薬入れり。

ひとりの天人言ふ、「壺(つぼ)なる御薬奉れ。きたなき所のもの聞こし召したれば、御心地悪しからむものぞ」とて持て寄りたれば、わづかなめたまひて、少し形見とて脱ぎおく衣(きぬ)に包まむとすれば、ある天人包ませず、御衣(みぞ)を取りいでて着せむとす。その時に、かぐや姫「しばし待て」と言ふ。

「衣着せつる人は、心異になるなりといふ。もの一こと言ひおくべきことありけり」と言ひて、文(ふみ)書く。
『竹取物語』より

かぐや姫を迎えに来た月の使者が「天人」と呼ばれていることに、まずは注目してみましょう。

…となると、能『羽衣』の天人も、月の使者かも知れません。 

で、その天人が持っている箱の中天の羽衣が入っています(もうひとつは「不死の薬」。こちらも気になるけど今回はパス)。

使者は、かぐや姫に天の羽衣を着せようとしますが、かぐや姫は「しばし待て(ちょっと待って)」という。なぜならば、「羽衣を着てしまった人は、<心異(こころこと)>になってしまうから」というのです。「だから、その前にひとこと言いおくことがあります」と手紙を書きます。

となると「<心異(こころこと)>になる」ということは、今までのことを全て忘れてしまうということになります。「天の羽衣=忘却の衣」、すごいですね。実際にはどんな状態になってしまうのでしょう。

ということで、『竹取物語』の続きも見てみましょう。

ふと天の羽衣うち着せ奉りつれば、翁をいとほしく、かなしとおぼしつることも失せぬ。この衣着つる人は、もの思ひなくなりにければ、車に乗りて、百人ばかり天人具して上りぬ。
おお!天の羽衣を着た人は、すべてを忘れるだけでなく、「もの思ひ」そのものがなくなってしまうようです。

あんなに大切に育ててくれたおじいさんが嘆き悲しむのを見ても「いとおしい」という気持ちも「お気の毒」という気持ちも、きれいさっぱり消滅してしまう。そんな力を持つのが天の羽衣のようです。

<心異(こころこと)>になる」というのは、人間的な心がなくなってしまうことなのです。

「ひどい!」

なんて思わないでください。かぐや姫も、そして天人も、もともと人間ではない。だから人間的な心など、最初からないのです。

…というか、「心」というのは生得的なものではなく、どうも後天的に身に着けるもののようです。だから「心」がないからといって、かぐや姫や『羽衣』の天人を責めないでね。

余談ですが、漢字の「心」が生まれるのは最初の漢字の発生から300年も経ってからのこと。シュメール語にも純粋な意味での「心」に当たる言葉はありません。また、ヘレン・ケラーの自伝には、文字を知るまでの彼女には「悲しみ」という感情がなかったということが書かれています。

心がなければ悲しみもない。後悔もない。同情もない。

そして疑いも偽りもない。

だからこそ能『羽衣』の中で、「衣を返したら舞わずに天に帰ってしうまんじゃないの」と疑う漁師に対して、天人は
「いや、疑いは人間にあり。天に偽りなきものを」
…というのです。天女は、漁師の疑いが全然理解できなかった。「え、それ何?」って感じだったのです。

これは『鶴の恩返し』の中で、お金の話をされたときに、つうが「あなたの言っていることが聞こえない」というのに似ています。

そういえば、『かぐや姫』も『鶴の恩返し』も「白鳥処女説話」の類型ですね。

▼大嘗祭の天の羽衣
 
天の羽衣といえば、もうひとつ思い出すのは大嘗祭(だいじょうさい)において天皇陛下の着する「天の羽衣」。

天皇が即位した最初の新嘗祭である大嘗祭は、前の天皇の「天皇霊」を新しい天皇に移し奉る実質的な践祚(せんそ)の儀礼ともいわれています。

大嘗祭のメインの儀礼は「嘗殿の儀」と呼ばれますが、その前の「湯殿の儀(沐浴)」で天皇が着する衣が「天の羽衣」なのです。

折口信夫は、天の羽衣は、天皇が霊力を溜めて身に留めるために着用するといいますが、天の羽衣の基本機能である「過去を忘れる」ということを考えれば、人間(皇太子)としての過去を忘却する、すなわち一度まっさらな状態になって天皇霊を身に着けて天皇となるための衣だと見ることもできます。

忘却の衣である天の羽衣を身につけ、湯殿に入ることによって、すべてを水に流してリセットする。

天の羽衣、なかなかすごい。

▼月にもインドにも

天の羽衣は、能『富士山』の詞章にも出てきます。

能『富士山』でも、かぐや姫の話が語られ、かぐや姫は不死の薬を天皇に与え、自身は天の羽衣を召して神になったと謡われます。その後、帝はかぐや姫の教えにしたがって、富士の山頂で不死の薬を焼くと、煙は空いっぱいに立ち上り、雲や霞が逆風を受けて香ばしく薫り、日や月や星もまるで光が変わったとあります。

そして、富士山はなんと天竺(インド)から飛んで来た山だ、というびっくりするように新説までもが語られ、富士はそのまま天竺という秘義が明かされるのです。

富士山は、月への中継基地でもあり、天竺への中継基地でもある。

そして、富士山から月や天竺にワープするには「天の羽衣」が必須なのです。

▼ワキ、伯龍の不思議

さて、能『羽衣』のワキについてもひとこと…。

このワキには名があります。

…って、「当たり前じゃん」と思う方もいらっしゃるでしょうが、能のワキは「無名(anonymous)」であることが多く、しかもこのワキは漁師、そんなワキが名を持つというのは異例も異例、異例中の異例、大異例なのです。

しかも、その名前がすごい。

はくりょう」といいます。漢字の表記には二種類あります。

観世流では「白龍」と表記し、当流(下掛宝生流)では「伯龍」と書きます。両方とも「龍」がつく。漁師なのに…。

観世流の「白龍」は、宮崎アニメに出てきそうで、それはそれで素敵なのですが、当流の表記「伯龍」となると、さらにいろいろと妄想が膨らみます。

「伯」という漢字は、現代では「伯父さん」というときくらいにしか使いませんが、もともとは「ボス(首長)」を意味する漢字です。なぜ「伯」がボスを意味するのか。ワキの話からはちょっとそれますが、それについてお話をしておきましょう。

紀元前には、まだ「伯」という漢字はなく、「白」がその意味を表しました(ですから本当は「白龍」でも「伯龍」でも同じなのです)。

「白」は、「しろ」ですね。なぜ「しろ」がボスを意味するのか。これも2説あります。

この2説を紹介する前に紀元前1,000年くらいの「白」の文字を紹介しておきましょう。こんな形です。

白



さて、この形を踏まえて…

1つ目は、これは親指の「爪」の形だという説です。親指の爪を見てみてください。ね、こんな形してるでしょ。で、「ボス!」っていうときに親指を出したりします。親指の形がボスをあらわすようになったというのが第1説。

2つ目の説は、いやいや、そんなかわいいものじゃない。これは人の頭蓋骨だという説です。首長たちの首を頭蓋骨として保存したり、あるいは敵のボスの首も白骨にしたといいます。

ちなみに、その頭蓋骨を木の上に乗せて打つという形が「樂(楽)」、音楽のことです。古代中国における音楽というのは、先祖や敵の英雄の頭蓋骨に皮を張って打ち、その霊を招くためのものだったようです。

これが「楽」の古い漢字です。

楽



▼龍を飼う人

話が横道に逸れたので戻します。

まずは「白(伯)」はボスという意味でした。

では、「伯龍」は龍の中のボスかというと、彼は龍ではなく漁師なので、それはちょっと違います。

ここで思い出したいのが「伯楽」という言葉です。

人を育てることを上手な人を「名伯楽」といったりします。「伯楽」というのは馬使い、馬を育てる人です。

…となると「伯龍」は「龍使い」、龍を育てる人という意味になるでしょう。

「え〜、龍なんて、ただの想像上の動物なんじゃないの」

いえ、いえ。古代中国には龍使いはいました。たとえば漢帝国を創った劉邦(りゅうほう)の祖先である劉累(りゅうるい)は、自分が飼っていた龍の肉を食べたということで罰せられています。

唐の韓愈が『雑説』の中で次のような文を書いています。

「まず、この世の中に伯楽がいて、それから千里を走るような名馬が生まれる。千里の馬というのはどこにでもいるが、伯楽はそうそういない(世に伯樂あり、然る後千里の馬あり。千里の馬は常にあれども、伯樂は常にはあらず)」

伯楽ですらそんな貴重な存在だったのですから、伯龍(龍使い)=ワキなんてすごすぎきます。

考えてみたら、ほかの漁師たちには見つけられなかった(というより、おそらくは見えもしなかった)羽衣を見つけることができたり、大口というすごい装束を着たり(今回は着流しでするかも)、このワキのただもの感はハンパないのです。

※余談ですが、「伯」というのは「覇」にも通じます。伯王は覇王でもあるのです。

(続く…かも)

※『羽衣』と『真田』が上演される8月7日(日)の「天籟(てんらい)」能の会。お待ちしております。

天籟能の会のおしらせ→http://watowa.blog.jp/archives/51460046.html 
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