このごろTwitterでは、中国古代の音楽論とお茶がちょっとした話題になっている。
http://www.twitter.com/eutonie/
中国古代の音楽論の言いだしっぺは橋本麻里さんで、彼女と新潮社の足立真穂さんは、内田樹さんをして「現在考えらうる最強の女性エディターコンビである」と言わしめた怪傑コンビのお一人です。
さて、中国古代の音楽論として多分、もっとも整っていたのは「楽経」だったはずなのですが、これが焚書坑儒で(この説、異論あり)散逸してしまい、いまは見ることができません。
で、現存するもので見ることができるのが・・
●『礼記』の楽記(「楽経」の注釈だったという説あり)
●『荀子』の楽論
●『呂氏春秋』の楽に関する諸編
・・などが儒家系統の主なもので、Twitterで話題になったのはこのうちの『礼記』と、そしてここからはちょっと外れた道家系の『荘子』咸池楽論(礼運編)でした。
日本の芸道における「道」が、楽記や咸池楽論からの影響では、という林屋辰三郎氏の説を橋本さんが紹介されたことから始まり、いろいろな人がちょこちょこと書いたのですが140文字のTwitterでは限度があり、欲求不満の気持ち悪さを解消する意味もあって、その話題をこちらに引き継ごうと思って書いています。
●孔子は「楽」を重視していた
さて、これらの音楽論よりも、もっと早い成立の音楽論が『論語』の中の音楽論です。とはいえ、それは音楽論としての集大成はなされていず(『論語』自体に一貫した思想はない)、孔子が音楽について断片的に述べているだけなのですが、これが面白い!
まず、孔子は礼より何より「楽」を重視していたということから。
孔子は、「詩」に興り、「礼」に立ち、「楽」に成る・・と言ってます。
子曰、興於詩、立於禮、成於樂(08-08)
「興」とか「立」とか「成」とかについて書いていくと、もういつまで経っても何も始まらないのですが、少なくとも論語の中では、自分の息子に孔子自身が、まずは「詩」を学べといい、それから後日、次に「礼」を学べといったところからすると、これらは学ぶ順番であることは確かです。
「楽」は最後。<成>ですから完成。最後の仕上げが「楽」なのです。
●武器としての「楽」
孔子は諸国を放浪(遊説)しましたが、その目的のひとつが諸国に散在している「楽」の収集だったのではないかという説もあります。それは小泉文夫氏が世界中を旅してワールドミュージックを収集した!というのとはちょっと違って、もっと政治的意味、あるいは呪術的な意味があった収集でした。
孔子が「韶(しょう)」の楽を、斉の国で聞いたとき、三ヶ月、肉の味がわからなくなり「楽が、この境地に至っていたとは想像もしていなかった(不圖爲樂之至於斯也)!」と驚嘆したというエピソードがあります。
これはただ単に感動して肉の味がわからなくなった・・のではなく、本当に味を感じなくさせてしまう力が韶の楽にあったのではないでしょうか。いまあれば最強のダイエット音楽。
敵の戦う気力を削いでしまう音楽とか、聞くだけで死に至る病に罹らせてしまう音楽とかも、たぶんあった。あ、『左伝』に載っているエピソードでは、聞いてもいないのに楽団と旗を見ただけで死病に罹る楽もあった(桑林の舞)。
知人のチベット人がダライラマの通訳でニューヨークに行ったときに、チベット声明をやったのですが、気持ちが悪くなって退席をした人が多くいて、「悪魔の和音」と呼ばれたと言ってました。チベット人や日本人には心地よい声明も、アメリカ人には悪魔の和音となる。
味方は平気なのに敵にはキツイ。これは最強の武器です!
●楽を求めての諸国放浪
周王朝は、そういった危険な楽を諸国に分散したんじゃないかな。今でいうと、原子爆弾のボタンを分散して置き、全員が同時に押さなければ発射しないようにしたようなもの。
で、孔子はそれらを収集しようとしたのかも。
論語の中には、なぜこんなのが入っているのか?と、よくわからない文章がたまに入っています。次のもそれ。
・大師(音楽の長官)である【摯(し)】は斉の国に行き、
・亞飯(二度目の食の時の学楽師)である【干(かん)】は楚の国に行き、
・三飯の【繚(りょう)】は蔡の国に行き、
・四飯の【缺(けつ)】は秦の国に行き、
・鼓の【方叔(ほうしゅく)】は河に入り、
・トウという鼓を打つ【武】は漢に入り、
・少師(副官)の【陽】と磬を打つ【襄】は海に入った。
(大師摯適齊、亞飯干適楚、三飯繚適蔡、四飯缺適秦、鼓方叔入于河、播●(兆+鼓)武入于漢、少師陽撃磬襄入于海[18-09])
なんかメモみたいでしょ。
これは『史記』「孔子世家」の中の、孔子と楽師・襄子とのエピソードや、「殷本紀」の中の、殷の大師と少師が祭祀の楽器を携えて周に亡命する話などや『尚書』なども併せて考えると面白いのですが、ここではそこまで書いている余裕はないので省略しますが、しかし亡命のときに、祭祀の楽器を携えて行くというのが面白い。
昔、ミグを携えて亡命したソ連将校がいたけど、それを思い出す。そのミグを分解して諸国に置いた。
ここでは「楽」ね。諸国には周王朝の王子たちが封じられている。王の命令ひとつで王子たちは、その部品を持って王朝に集まる。・・と、すごい武器が出来上がる・・はずだった。
むろん、孔子のときにはすでにそれは形骸化していて、何がなんだかわからなくなっていた。でも、孔子はなぜかそれを知っていて、収集しようとした。で、どこにどんな「楽」があるのかをメモした。
「楽」収集の旅のための備忘録、それが、このよくわけわかんない文章。
って、読むと面白いでしょ。学者の方には絶対、許されない読みですが、そんなことをしても許される(というか最初から無視されている)のが在野の魅力です。
だから原『論語』(ってものがあったらですが)は、実は「楽」の秘伝書としての性格もあったんじゃないかなと思うのです。たとえば次の文なんかはかなり怪しい。
師摯の始め、関雎の乱(亂)は、洋洋乎として耳に盈(み)つ。
(子曰、師摯之始、關雎之亂、洋洋乎盈耳哉[08-15])
何が怪しいかは、またいつか・・。
ちなみに、いまはあまり人気がない「郷党」編なんかも、そんな風にして読むとすごく面白いのです。
http://www.twitter.com/eutonie/
中国古代の音楽論の言いだしっぺは橋本麻里さんで、彼女と新潮社の足立真穂さんは、内田樹さんをして「現在考えらうる最強の女性エディターコンビである」と言わしめた怪傑コンビのお一人です。
さて、中国古代の音楽論として多分、もっとも整っていたのは「楽経」だったはずなのですが、これが焚書坑儒で(この説、異論あり)散逸してしまい、いまは見ることができません。
で、現存するもので見ることができるのが・・
●『礼記』の楽記(「楽経」の注釈だったという説あり)
●『荀子』の楽論
●『呂氏春秋』の楽に関する諸編
・・などが儒家系統の主なもので、Twitterで話題になったのはこのうちの『礼記』と、そしてここからはちょっと外れた道家系の『荘子』咸池楽論(礼運編)でした。
日本の芸道における「道」が、楽記や咸池楽論からの影響では、という林屋辰三郎氏の説を橋本さんが紹介されたことから始まり、いろいろな人がちょこちょこと書いたのですが140文字のTwitterでは限度があり、欲求不満の気持ち悪さを解消する意味もあって、その話題をこちらに引き継ごうと思って書いています。
●孔子は「楽」を重視していた
さて、これらの音楽論よりも、もっと早い成立の音楽論が『論語』の中の音楽論です。とはいえ、それは音楽論としての集大成はなされていず(『論語』自体に一貫した思想はない)、孔子が音楽について断片的に述べているだけなのですが、これが面白い!
まず、孔子は礼より何より「楽」を重視していたということから。
孔子は、「詩」に興り、「礼」に立ち、「楽」に成る・・と言ってます。
子曰、興於詩、立於禮、成於樂(08-08)
「興」とか「立」とか「成」とかについて書いていくと、もういつまで経っても何も始まらないのですが、少なくとも論語の中では、自分の息子に孔子自身が、まずは「詩」を学べといい、それから後日、次に「礼」を学べといったところからすると、これらは学ぶ順番であることは確かです。
「楽」は最後。<成>ですから完成。最後の仕上げが「楽」なのです。
●武器としての「楽」
孔子は諸国を放浪(遊説)しましたが、その目的のひとつが諸国に散在している「楽」の収集だったのではないかという説もあります。それは小泉文夫氏が世界中を旅してワールドミュージックを収集した!というのとはちょっと違って、もっと政治的意味、あるいは呪術的な意味があった収集でした。
孔子が「韶(しょう)」の楽を、斉の国で聞いたとき、三ヶ月、肉の味がわからなくなり「楽が、この境地に至っていたとは想像もしていなかった(不圖爲樂之至於斯也)!」と驚嘆したというエピソードがあります。
これはただ単に感動して肉の味がわからなくなった・・のではなく、本当に味を感じなくさせてしまう力が韶の楽にあったのではないでしょうか。いまあれば最強のダイエット音楽。
敵の戦う気力を削いでしまう音楽とか、聞くだけで死に至る病に罹らせてしまう音楽とかも、たぶんあった。あ、『左伝』に載っているエピソードでは、聞いてもいないのに楽団と旗を見ただけで死病に罹る楽もあった(桑林の舞)。
知人のチベット人がダライラマの通訳でニューヨークに行ったときに、チベット声明をやったのですが、気持ちが悪くなって退席をした人が多くいて、「悪魔の和音」と呼ばれたと言ってました。チベット人や日本人には心地よい声明も、アメリカ人には悪魔の和音となる。
味方は平気なのに敵にはキツイ。これは最強の武器です!
●楽を求めての諸国放浪
周王朝は、そういった危険な楽を諸国に分散したんじゃないかな。今でいうと、原子爆弾のボタンを分散して置き、全員が同時に押さなければ発射しないようにしたようなもの。
で、孔子はそれらを収集しようとしたのかも。
論語の中には、なぜこんなのが入っているのか?と、よくわからない文章がたまに入っています。次のもそれ。
・大師(音楽の長官)である【摯(し)】は斉の国に行き、
・亞飯(二度目の食の時の学楽師)である【干(かん)】は楚の国に行き、
・三飯の【繚(りょう)】は蔡の国に行き、
・四飯の【缺(けつ)】は秦の国に行き、
・鼓の【方叔(ほうしゅく)】は河に入り、
・トウという鼓を打つ【武】は漢に入り、
・少師(副官)の【陽】と磬を打つ【襄】は海に入った。
(大師摯適齊、亞飯干適楚、三飯繚適蔡、四飯缺適秦、鼓方叔入于河、播●(兆+鼓)武入于漢、少師陽撃磬襄入于海[18-09])
なんかメモみたいでしょ。
これは『史記』「孔子世家」の中の、孔子と楽師・襄子とのエピソードや、「殷本紀」の中の、殷の大師と少師が祭祀の楽器を携えて周に亡命する話などや『尚書』なども併せて考えると面白いのですが、ここではそこまで書いている余裕はないので省略しますが、しかし亡命のときに、祭祀の楽器を携えて行くというのが面白い。
昔、ミグを携えて亡命したソ連将校がいたけど、それを思い出す。そのミグを分解して諸国に置いた。
ここでは「楽」ね。諸国には周王朝の王子たちが封じられている。王の命令ひとつで王子たちは、その部品を持って王朝に集まる。・・と、すごい武器が出来上がる・・はずだった。
むろん、孔子のときにはすでにそれは形骸化していて、何がなんだかわからなくなっていた。でも、孔子はなぜかそれを知っていて、収集しようとした。で、どこにどんな「楽」があるのかをメモした。
「楽」収集の旅のための備忘録、それが、このよくわけわかんない文章。
って、読むと面白いでしょ。学者の方には絶対、許されない読みですが、そんなことをしても許される(というか最初から無視されている)のが在野の魅力です。
だから原『論語』(ってものがあったらですが)は、実は「楽」の秘伝書としての性格もあったんじゃないかなと思うのです。たとえば次の文なんかはかなり怪しい。
師摯の始め、関雎の乱(亂)は、洋洋乎として耳に盈(み)つ。
(子曰、師摯之始、關雎之亂、洋洋乎盈耳哉[08-15])
何が怪しいかは、またいつか・・。
ちなみに、いまはあまり人気がない「郷党」編なんかも、そんな風にして読むとすごく面白いのです。