2009年12月

DEN05:復讐の隠喩

今年最後の「DEN」シリーズはリトアニアの話です。

バルト三国のひとつであるリトアニアは、風光明媚で、そして女性が強く、美しいことで有名です。しかし、そのようなことはともかく、リトアニアの人々との出会いは、それまでの人生観を一挙に変えるほどの衝撃がありました。

「明日も今日と同じ日が訪れる」という前提で暮らす毎日。そんな前提が一挙に崩される日が訪れたら私たちはどうなってしまうのか。ノストラダムスの大予言から始まり、いま話題の「2012」まで、人々はそのような日の来ることを恐れながらも、しかしどこかで心待ちにしています。

が、現実はそんなに甘くはない。そのような破局の日の後にも、日常は再び訪れる。再び訪れた、その日常の中で、私たちはどうやって生き直すことができるのか、それを考えさせられました。奇跡は起きないのです。

ここに書いてあるリトアニア公演以降、何度か彼の地を訪れました。そのときの写真を次回のブログでは載せておきますね。

【血ワ牛肉マウ●第五場】

<復讐の隠喩>

昨年(1999年)末、喜多流の松井彬(まつい・あきら)氏を団長とするポーランド、リトアニア公演に参加した。リトアニアでは、グレタという20歳の女姓が通訳をしてくれたが、彼女に山会うまで、この国についてはほとんど知らなかった。

今ではとても長閑なこの国で、たった9年前に「血の日曜日」と呼ばれる事件が起き、多くの市民の血が流されたということも彼女からはじめて聞いた。

1991年正月、リトアニアでは旧ソ連からの独立の気運が高まる中、突然ソ連軍の武装部隊が首都ヴィリニュスの議事堂を包囲した。抗議のために死を賭して議事堂にたてこもる議員たち。最高責任者である最高会議議長は、その一触即発の緊張を和らげるために、何とピアノに向かってチュルリョーニスの「海」を弾く。むろん彼も死を覚悟していた。

議会を守ろうと、数万人の市民が集まる。市民は武器を持たずに非武装の抵抗を示したが、ソ連軍の戦車や装甲車はそんな彼らを轢き殺し、女性1人を含む13人の命が消えた。

「5歳だった弟は、二階の窓から戦車に向かって泣きながら小枝を投げていました」

当時、12歳の少女だったグレタは、そんな弟を抱きしめながら、両親不在の家の中で恐怖と怒りに震えていた。それから9年、独立を勝ち取ったリトアニアで、グレタは国際経済学を大学で学びながら、自ら会社を経営する魅力的な20歳の女性になった。

社会主義から資本主義へ、まさに180度の価値観の変化についていけずに、無気力や非行、そして自殺に走る者も多いという。突然変わってしまった祉会に対する不満、旧ソ連に対する恨みもあるだろうし、そんな世の中に復讐をしたいと思うだろう。

しかし彼女は、いつまでも恨んだり、不満を言ってみても仕方がないという。この環境の中で「すごく幸せになることが一番の復讐」だと信じている。

近年、何度も大国の侵略を受けながらも、ついに心だけはまつろわなかった民の娘は、強固な、しかしとても優雅な意志を持つ。それは「優雅な生活」を「復讐」の隠喩に置き換えようとしたフィッツジェラルドのまさに実践版だ。

肉体的には服従を強いられても精神は決してまつろわぬ人々は、優雅に復讐するための知恵を隠喩という形で得るのだろうか。

そして、われらが能の中にもそのような精神の一部を見ることができるのだ。

たとえば能『土蜘蛛』がある。

この能は、隼人舞発生の神話を思いださせる。

自分の釣り針に固執した兄、海幸(うみさち)は、弟の山幸(やまさち)の得た塩盈玉(しおみつたま)でなぶられたあげくに結局は降参する。それ以降、海幸の一族は、山幸一族への服従を示すために塩盈玉で溺れた様を演じ続けることを強いられ、それが隼人舞という芸能になったという。

海幸の子孫たちは、おそらくは征服者たちの嘲笑と蔑視の中で、一族の敗北のさまを演じ続けたのだろう。その永遠に続く屈辱の記憶の繰り返しは、彼らから復讐への意志を奪い、その深部に底なしの空洞を空けてしまう。

征服者による恐ろしいほど残酷な心理作戦だ。

そして、『古事記』や『風土記』にも登場する勇猛な民、土蜘蛛族も朝廷軍に服従を替ったときから、同じ目的のために屈辱の芸能を強いられることになったのではなかろうか。

しかし、現在の『土蜘蛛』にその悲壮感はない。

能一番を見終わった観客の脳裏に鮮明に残るのは、土蜘蛛を退治した独(ひとり)武者ではなく、首を切られたシテ、土蜘妹であろうし、その拍手は見事に首討ち落とされた土蜘蛛に向けられる。能では『土蜘蛛』はすでに屈辱の芸能ではなくなっている。

『土蜘蛛』からは、屈辱の芸能を誇りの芸能へと変換させた土蜘妹一族による隠喩化への意志を読むことができる。武力では征服者に勝てないと悟った彼らは、屈辱のまねびを続けていくうちに、芸能を通じて復讐するという隠喩を考えたのだろう。

そして、その隠喩は単なる修辞法ではなかった。自分たちの理解者には伝わらなければ意味をなさず、しかし為政者にその意志を見破られれば一族の絶滅に直結するという、生死を賭けたギリギリの修辞術だった。

<2000年3月号>

★チュルリョーニス:1875年〜1911年。リトアニアを代表する作曲家、画家。35歳の若さで亡くなったが、彼の絵画や音楽はリトアニア国民の精神的な支柱となっている。音楽では「海」、「森林で」のように自然をテーマにした作品が有名。→Wikipedia

★ちなみにリトアニアはヨーロッパ最後の異教国家。異教って言葉がよけいなお世話だけど。→リトアニア大公国

DEN04:西暦二千年の大掃除

さてさて、「DEN」シリーズの4回目です。

年末年始の話です。ただし、これはちょうど10年前、1999年の年末に書いたので千年紀の最後の年末でした。世紀末よりもすごい千年紀末。

号としては2000年の正月号です。

1600字という字数制限の中で、たくさんの書きたいことを一挙に書いたのでジェットコースターのように速い文体です。何がなんだかわからないままに終わってしまうかも知れません。ぜひ、ゆっくりと解凍しながら読んでみてください。今回に限って「◆◇◆◇◆」を入れて節で分けてみました。

今度、これを倍くらいの量にして書いてみようかな、などと思っています。

◆◆◆◆◆

【血ワ牛肉マウ●第四場】

<西暦二千年の大掃除>

年末の憂うつは、大掃除に尽きる。忙しさを言い訳に散らかしっぱなしにしている自分が悪いのだが、憂うつなものは憂うつだ。放っておけば、これ見よがしに箒(ほうき)を部屋の入り口に立てかけておく山の神がいる。

さて、やっと大掃除の憂うつから解放されたと思って正月、またまた新年定番の能『高砂』で、お婆さんの箒に出会う。

ところで、どうもこのお婆さんの箒がクサイ。簡素な能の小道具群の中で、この箒はよくできすぎている。作りではお爺さんの熊手にも劣らない割に、お爺さんの熊手に比べるとその存在意義が薄すぎる。

これには何かわけがあるはずだ。

ということで、大掃除の恩人、箒の不審を晴らすために、まずは箒のイメージを見てみよう。

      ◆◇◆◇◆

箒といえば、まず掃除。特に、払暁の神社を掃き清める巫女さんの緋の袴はすがすがしい。西洋に行けば魔女の箒。高砂のお婆さんも魔女なのかなあ、などと思ってみる。そうそう、客に早く帰ってほしいときには、箒を逆さに立てる呪(なじな)いなんていうのもあった。

ここで、「神社」・「魔女」・「呪い」と、ちょっと怪しい三拍子がそろう。

そういえば『古事記』では、天若日子(あめのわかひこ)の葬儀の日、河雁・鷺・翡翠(かわせみ)・雀・雉などの鳥が喪屋に集まる中、鷺が箒を持つ役割をするが、箒に喪屋とはいよいよ怪しい。

さらに喪屋の近くの産屋では、箒は妊婦の枕元に立てて(しかも逆さまに立てて)使われる。ここでは箒は女性を助けるお産の神様だ。女性といえば、山の神を祭るときに、その依代・呪物としても箒を使う。

産屋ということで、能『鵜羽(うのは)』の鵜の羽なども箒と同系統とみることができるだろうし、神の依代ということでは狂女の笹も同じだろう。箒が魔女の乗り物ならば、西洋でも箒には呪物としての役割があったのだろうか。

といううちに今度は、「箒」・「女性」・「呪物」という三役がそろった。

      ◆◇◆◇◆

「女」篇に「帚」をつけると「婦」になるが、甲骨文では、「箒(★)」だけで「婦」という意味に使っている。

★箒の甲骨文字
houki

しかし、この字を「フ」と読む根拠が以前から納得いかない。

そこで呪文のイメージを借りて、「婦」は「巫(フ)」だと勝手に決めてしまう。「巫」は「舞(ブ)」にも通じるので、それならば「箒」は「舞」とも関係があるのだろうか。

字形で見れば、「箒(★↑参照)」は、茅(ちがや)を立てた形のようである。鳥の羽にも見える。

『周礼(しゅらい)』や『詩経』には茅を持って鳥の如くに舞いながら、風を呼び雨を招く風師や雨師と呼ばれる巫たちの姿が現れ、『説文解字』には「巫」とは舞で神を降すものとの釈文がある。また、巫が天帝と交信し、雨を呼ぶ能力を持つことが要求されたことは『左伝』にも記されるし、天若日子の葬儀の日には、箒持ちの鷺たちは「遊び(歌舞)」をしたと『古事記』にある。

お、箒と舞がつながった。

      ◆◇◆◇◆

となると、能『高砂』のお婆さんも、神社の巫女さんも箒を持って祭りの庭を清めているように見えてはいるが、実は箒舞を舞いながらこっそりと神霊と交信しているのかもしれない。

やはりこれはただ者ではない。

さらに、我らの卑小な身体を大宇宙と同一と考える神道の伝統を併せ考えれば、彼女たちが清めているのは実は自分自身なのかもしれない。神社を清めることは、体内の宇宙を清めることで、日常生活の汚れの中に隠れてしまっている自分の中の神を探し出すことにほかならないのだ。

ならば、箒を持って登場する『高砂』のお婆さんは、観客の心身を清めて、その神様を探し出す手助けをしているのかもしれない。

さてさて、西暦二千年は世紀末最後の年。一年通してこの百年間、いや千年間の師走と考えることができるかもしれない。汚れきった心の中や、ついでに家の中までも、一年間かけて掃除でもして、自分の中の神様でも探すとするか。

<2000年1月号>

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DEN03:うたてやな

またまた「DEN」からです。こんなに立て続けに投稿しているのは、今年度中に「5」まで行きたいと思っているからです。

今回は『ワキから見る能世界』(NHK出版)を書く元になったエッセイです。

1999年11-12月号です。もう10年も前の話なんだ。

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【血ワ牛肉マウ●第二場】
<うたてやな>

カウンセラーの友人がいます。芸術療法を専門とする彼は、公立の相談所で思春期の女の子たちを主なクライアントとしながら、大学でも講義を持ちます。もの静かな、思索的な、そして優しいといったカウンセラーのイメージとは程遠く、クライアントの女の子たちに彼の評判を聞くと、皆めちゃくちゃなことを言います。いわく、「品がない」、「なんにも知らない」、「うるさい」云々。要するにバカにされています。

しかし、彼の同僚によると、そのカウンセリングはかなりの成果を上げており、それは彼のずっこけな性格がクライアントに安心感を与えるからではないかとのことですが、もちろんそれだけではないでしょう。

さて、能を、特に複式夢幻能を、「思い」発露の場という意味で、カウンセリングの場面に似ていると指摘する人は少なくありません。

そして、その複式能の前半には、「名所教え」や「宿借り」といった定型が使われるケースが多いのですが、それら定型の一つに「愚か」だとか、「うたてやな」とか言いつつ、シテがワキをやり込めるというものがあります。

例えば、能『隅田川』では舟に乗せる、乗せないの問答や都鳥の一件、また能『杜若』では業平の東下りにワキが驚く場面などで、「心なき」船頭や僧が「優しき(優雅な)」シテにやり込められます。★

この定型対話は、「場」の統治者をワキからシテへと徐々に変化させるのに、重要な役割を果たします。

「げにげに」とワキが自分の非を認めだすあたりからは囃子のアシライも入り、そしてやがて地謡に引きつがれるときには、舞台はシテの「思い」を発現する場へと、完全な移行をはたします。自分の「場」に変化した舞台上で、シテは思う存分その思いを述べ、成仏への、あるいは正気への道を突き進むのです。

また観客にとっても、なんとなくよそよそしかった舞台が、いつの間にか一人ひとりの心の中に侵入し始めるのもこのあたりです。★★

しかし、ワキがそのような故事を全く知らない者でないことは、「げにげに」という言葉にも暗示されています。では、彼はシテに優越感を持たせるために、わざと知らないふりをしていたのでしょうか。いや、そのような偽善的な思いやりは、残恨のシテも、カウンセリングでのクライアントも望んではいないでしょうし、見破られてしまうに遠いありません。

ワキの心なき返答は、日常を生きる私たちの何気ない答えの象徴です★★★。しかし、非日常的存在のシテはそのような返答を許しません。

ただ知識としてのみ知っているワキと、己れの思いに根差した知を有するシテ、両者の間にある知の質的な相違がこのような問答を生み出し、ワキはシテの存在に庄倒されます。日常生活代表者のワキの視点からいえば、白き鳥が都鳥であることも、業平が東下りしたことも知ってはいました。

ただ知識としてのみ、そのことを知っていた(だからこそ容易に忘れ得た)ワキが、シテというその思いを体現している非日常的存在に出会い、瞬間的「信解」に至る過程こそが、この定型なのではないでしょうか。

そして、ワキがこの劇的な変化を経て、ただの「知る」から「思い知る」への移行が成就した時、その「場」は初めて共有されて、身に残る思いが実体化したシテは、その本来の姿を現し得るのです。

ワキという言葉は、「わく(解く)」の連用形名詞化としてみることができるでしょう。それには三つの用きがあります。すなわち、観客にとっては見えざる幻を見せて分からせてくれるという意味の「分く」であり、シテにとっては錯綜した記憶を名料理人、包丁(ほうてい)の如くに解いてくれる「解く」でしょう。そして、ワキ自身にとってはこの「信解」による瞬間的な自己成長の過程こそが、「わく」ではないかと思うのです。

カウンセラーの友人も、ずっこけであるお陰で、常にこの過程を受け入れる余裕を持ち続けているのでしょう。

<1999年11-12月号>

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『隅田川』より
シテ「なうなう我をも舟に乗せて賜はり候へ。
ワキ「汝は狂女ごさめれ。いづくよりもいづ方へ下る人ぞ。
シテ「これは都より人を尋ねて下る者にて候。
ワキ「たとひ都の人なりとも。面白う狂へ狂はずは。此の舟には乗せまじいにて候。
シテ「うたてやな隅田川の渡守ならば。日も暮れぬ舟に乗れとこそ承るべけれ。かたの如く都の者を。舟に乗るなと承るは。隅田川の渡守とも。覚えぬ事な宣ひそよ。
ワキ「狂女なれども都の人とて。名にし負ひたる優しさよ
シテ「なうその詞はこなたも耳に留るものを。彼の業平もこの渡にて。名にしおはゞ。いざ言問はん都鳥。我が思ふ人は有りやなしやと。なう舟人。あれに白き鳥の見えたるは。都にては見馴れぬ鳥なり。あれをば何と申し候ふぞ。
ワキ「あれこそ沖の鴎候ふよ。
シテ「うたてやな浦にては千鳥とも云へ鴎とも云へ。など此隅田川にて白き鳥をば。都鳥とは答へ給はぬ。
ワキ「げにげに誤り申したり。名所には住めども心なくて。都鳥とは答へ申さで。
シテ「沖の鴎と夕波の。
ワキ「昔にかへる業平も。
シテ「有りや無しやと言問ひしも。
ワキ「都の人を思妻。
シテ「わらはも東に思子の。ゆくへを問ふは同じ心の。
ワキ「妻をしのび。
シテ「子を尋ぬるも。
ワキ「思ひは同じ。
シテ「恋路なれば。
地「我もまた。いざ言問はん都鳥。いざ言問はん都鳥。我が思ひ子は東路に。有りやなしやと。問へども問へども答へぬはうたて都鳥。鄙の鳥とやいひてまし。実にや舟ぎほふ。堀江の川のみなぎはに。来居つゝ鳴くは都鳥。それは難波江これは又隅田川の東まで。思へば限なく。遠くも来ぬるものかな。さりとては渡守。舟こぞりて狭くとも。乗せさせ給へ渡守さりとては乗せてたび給へ。

★★

最初に謡われる地謡は「初同(しょどう)」といって、ちょっと特別な扱いがされる。情景を謡うことが多いのだが、その中にはすでに心象が歌いこまれている。

以下は能『殺生石』の初同

地歌「那須野の原に立つ石の。那須野の原に立つ石の。苔に朽ちにし跡までも。執心を残し来て。又立ち帰る草の原。もの凄しき秋風の。梟、松桂の。枝に鳴きつれ狐、蘭菊の花に隠れ住む。この原の時しも、ものすごき秋の夕べかな、もの凄き秋の夕べかな。

★★★
How are you? I'm fine, thank you.の類。

全くの余談だが若くして亡くなった才能ある友人は、高校一年の時に英語の関西弁訳をしていて、How are you?を「もうかりまっか?」、I'm fine, thank youを「ぼちぼちでんな」と訳していた。

天才は若くして亡くなる。僕は凡才だからまだ元気!

DEN02:チベットで聞いたあたらたらたらり

さて『DEN』の二回目です。

今回はチベットの話。いろいろな本で、このことは書いていますが、その初出です。

◆◆◆◆◆

【血ワ牛肉マウ●第二場】
<チベットで聞いたあたらたらたらり>

チベットは、さまざまな顔で私たちを引きつけます。

仏教の聖地として、あるいはシャングリラのモデル地として、あるいは明峰チョモランマをはじめ数々の名山を有する登山基地として、常に人々の憧れの対象になっています。

そして、私たちに親しい、いかがわしくも魅力的な顔のひとつに、『翁(おきな)』の「とうとうたらり」チベット語説があります。

この説は、昭和3年に朝日新聞紙上で「古今の学者連顔色なし」というスキャンダラスな見出しとともに、河口慧海(えかい)による『翁』チベット語表記とその日本語訳を付して発表されました★。

慧海師によるとこの詞章は太陽賛歌だというのです。

しかし、その後に能勢朝次氏や表章氏など斯界の権威によって完膚なきまでに叩きのめされ、現在ではほとんど再起不能の状態です。

反論の中心は「そんなチベット語はない」というもので、この反論が当を得ているならば慧海師もいいかげんなことを言ったものです。

1980年代、そんな経緯もよく知らないままに、私はチベットを訪れ、しばらく放浪をしました。

標高約4000メートルという空気の希薄さは、にわか仕込みの理性など一挙に吹き飛ばし、不在のダライラマの威厳を呈してそびえるポタラ宮や、五体投地の巡礼を迎える名利ジョカン(大昭)寺に異教徒の私ですら崇拝の念を感じました。

極彩色の曼陀羅に囲まれた堂内には、不思議な倍音を有するチベット声明の深い響きや変拍子の打楽器の音に唱和するパーカッシブな読経の声々が満ち、ヤクの油を使った灯明の炎や香りとあいまって仏国現前の幻影を生み出します。

一歩外に出れば、微笑みながら姨捨の山に向かう老女の一行や、あっけらかんと一妻多夫の性的正当性を語る女子高生★★などに、確かにここは私たちの文化とは異質の常識を日常規範とする生活空間であることを実感しました。

一泊300円にも満たない安宿の居心地は悪く、多くの時間を民家ですごしました。そしてある日、その家で『翁』の「とうとうたらり」によく似た歌を耳にしたのです。

聞けば、それは『ケサル王伝説』と呼ばれる叙事詩の一部とのこと。ケサル王とは伝説の英雄王であり、この歌は幾世紀にもわたって漂泊の吟遊詩人たちによって伝承されてきた大長編叙事詩であることを教えてくれ、さらに自分は専門の語り手ではないがと言いながらも、何冊かの本を示しながら歌ってくれました。

この叙事詩は、散文と韻文との混合文体で、「とうとうたらり」は韻文の部分の冒頭にしばしば唱えられる章句です。

よく聴いてみると、それは「とうとうたらり」ではなく、「あらたらたらり」だったり、「たらたらたらり」だったり、その他いろいろなバリエーションがあって、どうも定まったものはないようです★★★。

この詞章のチベット語での意味を尋ねたところ、「意味などない」とつれない返事。慧海説はここでもあえなく敗れ去ったのですが、なぜそれを歌うのかと、さらに尋ねると、「これは神降しの呪言のようなものだ」として、次のようなことを語ってくれました。

この句を唱することによって、語り手にケサル王の霊が降りて来る。霊をうけた語り手は、一種の神懸かりの状態になり、自身がケサル自身に変身して、その叙事詩を己れの事跡として語るというのです。

それならば、「とうとうたらり」を謡った後に翁面をかけて神になる『翁』の構造ともよく似ています。『翁』の「とうとうたらり」も神降しの呪言として考えることは、そんなに無理なことではないでしょう。

しかし、だからといってこれだけで『翁』がチベットから伝わったなどと決めつけるのはあまりに短絡的すぎるし、ケサル王叙事詩の発生年代が確定していない今、それを云々することはできません。

それよりも、一介の野次馬として、彼我の降神呪言の音韻が似ていることにとても興味が引かれます。

「た」行、「ら」行という歯茎音を繰り返すことによって一種の憑依状態を引き出そうとする彼我の呪言の類似性は、大袈裟ですが両者の精神風土の根っこにある元型的な傾向を暗示しているようで面白いと思うのです。これはチベットと日本だけでなく、ひょっとしたらいろいろな地域に見い出せるかもしれません★★★★。

<1999年9月号>

********注********

▼「シャングリラ」が登場する『失われた地平線』(J.ヒルトン)は現在、絶版中でアマゾンなどでもすごい値段がついています(僕は英語版も含めて数冊持ってます!)。高校時代に読んで、とても影響を受けたました。「読んでみたい!」という方は図書館か、ぜひ復刊リクエストを--->

★朝日新聞昭和3年4月10日(『謡曲大観』では4月13日となっているので注意)

★★チベットの方の家に遊びに行ったら壁には何人かの男性の写真が飾ってあって、お母さんは「これみんな私の夫なの。いい男でしょ」と自慢する。女子高生の娘に一妻多夫について尋ねたら、「だって一夫多妻だと男性がモタないでしょ」と笑いながら答えられた。とてもきれいな女の子だったのでドキドキした。

現在は(多分)一妻一夫制はほとんど存続していないんじゃないかな。

★★★これについてはまた今度。

★★★★「たりらりら〜」とか、巻き舌でする「ららららららら〜」とか「れれれのおじさん」とか、ら行、た行のような歯茎の裏側を連続して刺激するような音は口内の快感を生み出し、そしてそれを際限なく繰り返すことは変成意識を呼び起こすのではないだろうか。

********資料********
『翁』初日。
翁「とう/\たらり/\ら。たらりあがりらゝりとう。
地「ちりやたらりたらりら。たらりあがりらゝりとう。
翁「処千代までおはしませ。
地「我等も千秋さむらふ。
翁「鶴と亀との齢にて。幸ひ心に任せたり。
翁「とう/\たらり/\ら。
地「ちりやたらりたらりら。たらりあがりらゝりとう。
千歳「鳴るは瀧の水。/\。日は照るとも。
地「絶えずとうたりありうとうとうとう。
千歳「絶えずとうたり常にとうたり。
千歳「処千代までおはしませ。
地「我等も千秋さむらふ。
千歳「鶴と亀との齢にて。処は久しく栄え給ふべしや。鶴は千代経る君は如何経る。地「萬代こそ経れ。ありうとうとうとう。
<後略>

DEN01:心のあばら屋が見えてくる

『DEN』という雑誌がありました。

1999年7月に創刊の古典芸能の雑誌で、10年間続き、2009年7-9月号で休刊になりました。最初は隔月刊だったのですが、途中から季刊になり、それでも50号が出ました。

国際的な免疫学者の多田富雄先生らが中心に、渡辺さんや竹下さんなどが実務を行って頑張って出されていました。写真は、森田拾史郎さんです。

ここら辺に関しては今度ゆっくり書きます。

さて、私(安田)も第1号からずっとエッセイを書いてきました。執筆陣の中では唯一、一号も落とさなかった!ということだけが自慢の気楽なエッセイですが、実はここに書いたことが『ワキから見る能世界(NHK出版)』や『身体感覚で「論語」を読み直す(春秋社)』に活きています。

『DEN』連載のときには、いつもギリギリまで何のアイディアも浮かばず、でもギリギリになると、舞台で座っているときに「あ、そうか」といろいろなことが浮かんできました。締め切りと舞台がなかったら、できなかった連載です。

◆◆◆◆◆

さて、その連載ですが、読者の方もあまり多くなかったので、せっかくなのでブログで再録したいのですが、と元DENの竹下さんに相談したら、「どうぞ、どうぞ」というご返事をいただきました。

元のデジタル原稿はすでになくなってしまっているので(僕自身も書いてしまったものには興味がないので、だいたい捨てるか消去してしまいます)、雑誌をスキャニングしながら掲載していきたいと思っています。

スキャニングとOCRを使って手作業でコツコツやっていきますので、変な文字のミスとか、変換間違いとかがあるかも知れません。どうぞご容赦を(しかしご指摘いただけると助かります)。

また、いま読むと書き直したいところもあるのですが、明らかな誤り以外はそのままで行きます。

『奥の細道』もまだ終わらないのに!とお思いの方もいらっしゃるでしょうが、そちらもちゃんとやっていきますので、どうぞご寛恕のほどを。

さて、連載のタイトルは「血ワ牛肉マウ」です。

これは竹下さんがつけてくれたタイトルで、「血沸き肉踊る」を僕がワキであることと、やはり能だから踊るではなくてマウだろうということでのタイトルです。

では、今回は第1回目です。

はじまり、はじまり〜!

◆◆◆◆◆

【血ワ牛肉マウ●第一場】
<心のあばら屋が見えてくる>

酒席でカラオケに盛り上がっている最中に、白けたもう一人の自分がふと顔を出す。あるいは、わかっちゃいるけどやめられない悪癖に自己嫌悪の日々。自分ではどうしようもできない、自己の裏側にうごめくこの心の働きは、意識の背景として、時には意識以上に私たちに影響を与えることがあります。

無意識や下意識よりはもう少し広い範囲で、それを「背景意識」と呼んでみます。

古来の表現者たちも、意識と背景意識の双方を同時に表現したいという欲求をもったに違いありません。絵画ならば、背景の中にヒントをこっそり隠しておくこともできますが、音楽や言語芸術のような時間とともに流れていくものでは、なかなか大変なことです。

昔からいろいろな方法が試みられていますが、まず西洋に目を向けて、ワグナーの大作『ニーベルングの指輪』の仕掛けをみてみます。

この作品では、背景意識を表現するのにライトモチーフ (示導動機)という仕掛けを使っています。ライトモチーフは、音楽によって人物や事物を象徴します。これはプロレスラーが登場する時に鳴るテーマに近いのですが、ライトモチーフは人物や事物だけでなく、そのものの感情や思考、さらには下意識や背景意識までも象徴するのです。

『指輪』全曲中、ライトモチーフを使って背景意識を表現しているところで最も有名なのは、『ワルキューレ』におけるヴォータンの怒りのシーンです。

神々の世界の支配者であるヴォータンは、自分の命令を無視した愛娘の女騎士(ワルキューレ)ブリュンヒルデを烈火のごとき怒りをもって叱ります。その時に演奏される音楽や歌は、当然激しい怒りに満ちたものです。

しかし、よく耳を澄ますと、その怒りの響きの奥に、バスクラリネットとファゴットの、音としては極めて控えめな、しかし深い響きをもった楽器によって演奏される「ヴォータンの挫折」と呼ばれるライトモチーフを聴くことができます。

その仕掛けによって、私たちは当のヴォータンですら気づいていない、彼の背景意識を、そこに読み解くことができるのです。

日本の文学・芸能では、掛け詞、縁語、枕詞、序詞といった和歌の修飾技法を使います。和歌が生んだこの技法は、能という対話形式の長詩を得て、主題とは直接関係のないもう一つの世界、あるいは存在しないはずの風景すらもソフトフィルターのかかった半透明の映像として観客の脳裏に描き出します。

例えば、能『藤戸(ふじと)』★の前半で老女の思いを地謡が述べる部分。

『藤戸』では、能が始まってすぐに緊張した場面が現れます。わが子を殺した佐々木三郎盛綱に「恨み申しに参りたり」と詰め寄る老女。それを「音高し何と何と」と知らぬふりをする盛綱。そして、それに続く老女のクドキ★★。

地謡は、その緊張感を受けて老女の思いを静かに謡います★★★(下歌(さげうた)、上歌(あげうた))。地謡の詞を一語一語、心の中に反射しながら、いつの間にかシテの心中に引き込まれていく観客は、上歌に入るやそこに突如現れる異質な風景に驚きます。

それまで瀬戸内海の島廻りや児島の海岸の情景など、海辺の風景が占めていた観客の脳裏に幻のあばら屋が突如出現するのです。

これは、ここまで一貫して使われてきた「海」系の用語に対して、「山」系の用語が修辞の詞として使われ出したがために現出した幻です。この荒野に見捨てられた一軒のあばら屋、それは老女の心の風景、背景意識が実体化したものです。そして、上歌(あげうた)後半にはその景色は消え去り、再び海辺の景色が現れますが、しかし荒野のあばら屋の残像は老女の心の内を象徴する通奏低音として、いつまでも鳴り続けるのです。

能にしろワグナーにしろ、このような読み解きの楽しさを得るためには、かなりの予習が要求されます。しかし、私たちがその苦行も厭わず舞台に通い続けるのは、思いも掛けない新しい発見をし、かつその読み解きに成功した時に生じる脳の感情半球と知的半球の結合のもたらす歓喜の瞬間を忘れることができないためではないでしょうか。

<1999年7月号>

********注********

★能『藤戸』
<前シテ>漁夫の母 <後シテ>漁夫の霊
<ワキ>佐々木三郎盛綱 <ワキツレ二人>従者
源氏方の武将である佐々木三郎盛綱は、藤戸の先陣をしたその恩賞に、備前の国の児島をもらった。日もよい今日、その島に領主として入ったが、そこにひとりの老女が現れる。

彼女は「罪もない我が子を海に沈めた恨みを申しに来た」と盛綱に詰め寄る。盛綱は最初、「そんなことは知らない」と突っぱねるが、よく聞けばその子とは確かに、盛綱が刀で刺し殺し、海に沈めた漁師。

この海は月の出によって浅瀬が変わる。そこを知れば敵には知られずに海を渡ることができる。漁師を盛綱にそのことを教えた。その知識によって盛綱は先陣を切ることができたのだが、同じことを敵に知られないように漁師を殺したのであった。

盛綱は、母にその時のありさまを語り、彼の妻子を世に立つようにしよう、もう恨みを晴らせというが、母は「自分もわが子と同じように殺せ」と盛綱に詰め寄り、その刀に手をかけようとする。盛綱に払われた母は「我が子を返せ」と人目もはばからず臥し転び泣き続ける。

母をなだめ家に帰した盛綱らが、彼の男の霊を慰めるために法事を行っていると、水の中から水死した男が現れ、水底にすむ悪竜の水神となって、盛綱に恨みをなそうとする。

が、法(のり)の力で弘誓の船に乗り、生死の海を渡って彼岸に至り、成仏をしたのであった。

★★
なう猶(なほ)も人は知らじとなう。中々にその有様を現して。跡をも弔らひ又は世に。生き残りたる母が身をも。訪ひ慰めてたび給はゞ。少しは恨も晴るべきに

★★★
下歌「いつまでとてか信夫(忍ぶ)山。忍ぶかひなき世の人の。あつかひ草も茂きものを何と隠し給ふらん。
上歌「住み果てぬ。此の世は仮の宿なるを。此の世は仮の宿なるを。親子とて何やらん。幻に生まれ来て。別るれば悲しみの。思ひは世々を引く。絆となって苦しみの。海に沈め給ひしをせめては弔はせ給へや。跡弔はせ給へや。

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