2009年02月

入試に・・・

先日、「和と輪」経由で、あるメールが来ました。

「大東文化大学の2009年度入学試験に使用させていただいた先生の著作物の二次使用(赤本とかHPとか)の認可について」

・・云々という内容でした。

自分の文章が入試に使われるなんてことは聞いてないし、「安田登なんて名前はどこにでもあるので、違う安田登なんじゃないですか?」というメールを返信したら、先方も慌てて、「なるほど、そういえば、そうかも!」と思ったらしく、さっそく電話がかかって来ました。

結局、雑誌『言語(大修館書店)』の「神話する身体」からの引用だそうで、それなら確かに僕でした。

「入試という性格上、事前にはお知らせしない」ということなんだそうで、なるほど!確かにそうですね。

で、今日、その入試問題が届きました。

多田先生も林望氏も、ご自分の文章が出題された問題文で正解できなかったと話されていましたが、僕なんかは自分がどんな文章を書いたかすら忘れてしまう方なので、もっと無理だろうなあ・・

と思って解いたのですが、案の定、一問かなり悩みました。これは絶対、正解の導き方ってあるんだろうな。

友人で塾の講師をしている人がいるけど、彼ならわかるかな。今度、聞いてみよう。

入試に拙文が使われるなんていうのは、はじめての体験でした。穴埋め問題とかがあって面白いです。

そうそう、これとは逆の話で、先日、楽屋で某先輩から言われました。

「このごろ『安田登』って名前を新聞とか雑誌とかでよく見るけど、『安田登』って運気のいい名前なのかな。前に見たのはスポーツ関係だったし、この間のは健康だったし、大学の講座の欄でも見た。いろんな分野で君と同じ名前の人が活躍しているようだから君もがんばりなさい」

この先輩は、それが全部、目の前にいる安田登だとは思っていなかったようで、むろん僕も「はい、がんばります」って、元気に答えておきました。

ちなみに、大修館書店の「神話する身体」は雑誌『言語』に去年一年間、連載していましたが、入試に使われたのは、連載前にプレ連載として巻頭エッセイで書いたものでした。これも含めて、連載に大幅加筆したものが(うまくいけば)秋に出版されます。

引越し中に見つけた洋書

この数週間、引越しでバタバタしており、ちゃんとまとまったものが書けず、申し訳ございません。むろん、その間にも舞台もあり、前から決まっていたワークショップやら講座やら合宿やらもあるので、その合間を縫った引越しはなかなか大変です。

さて、引越しは人生最大の苦しみではありますが、しかし同時に楽しみもあります。その楽しみとは忘れていた本を見つけ出すことです。

が、これまた同時に、これが引越しに要する時間を大幅に増大させてしまうものでもあるのですが、今回の収穫はかなり長い間埋もれていた洋書です。それも、まあ言ってしまえばポルノ小説。

一冊は『Her』、もう一冊は『John and Mimi』。

●『Her』

高校の夏休みに「『老人と海』を原書で読め」という課題が出ました。

育った土地が銚子市の海鹿島(あしかじま)という、名前からして、もうモロ海の近くで、しかもうちは海岸から歩いて三歩のところにあったので、『老人と海』なんかはそんじょそこらに飽きるほど見ているので、とても読む気にならない。

買ったは買ったのですが、最初の数行読んで放っておきました。

そんな折、巡回の古本屋さんが海鹿島に来ました。巡回の古本屋さんってすごいでしょ。見たことある?

で、その古本屋さんが洋書も何冊か扱っていて、そこで見つけたのが『Her』でした。

田舎の高校生ですから洋書を一冊読破!なんてことはなかなかできない。それがこの『Her』はしちゃったのです。むろん、それはポルノだったから。

でも、実はこの『Her』はポルノといっても、そんじょそこらのポルノとはわけが違う。ちょっと有名な本で、確か日本語訳も出たかなあ(日本語訳は読んでいないので不確定)。どっちかというとシュール・レアリズムっぽい小説です。

むろん買うときにはそんなこと全く知らなかったけど。

今回、引越しの合間にちょっと読んでみたのですが、別にエッチというわけではない。けど、身体表現がすごくいい。特にキス・シーンなんかはすごい!

かつ、全身性欲の高校生ですから、もうほんのちょっとのことで興奮しちゃいます。

この本によって、それまでの

「英語→苦痛」

という脳内構造が・・

「英語→快感」

・・に変わった思い出の一冊でした。

でも、今回読み直して、難しい箇所はほとんど読み飛ばしていたことにも気づいた。

「洋書を読むときには、わからないところは読み飛ばす!」

これもこの本で教わったことでした。

この本の作者(といっても匿名)は『Him』とか『You』とか『Us』なんかも書いています。

●『John and Mimi』

次の『John and Mimi』は、ダスティン・ホフマンとミア・ファローの『ジョンとメリー』の原作をパロディった、これまたポルノ小説。

『ジョンとメリー』は、ある章はジョンの独白で、そしてある章は、同じ時間のメリーの独白で書かれていて、ふたりが全く違うことを考えていながら、しかしある会話をしている面白さで物語が進行します。

『John and Mimi』も同じ構成です(途中からかなり変わるけど・・)。

この本は映画『ジョンとメリー』を観て、小説『John and Mary』を読んで、それから読むとより面白い本です。

映画も面白い。ミア・ファロー、いいです。『フォロー・ミー』も観たい!ビデオでもDVDでもないかなあ。

三日坊主学校

20090223
この週末はCLCA(子どもと生活文化協会)主催の合宿ワークショップを行ってきました。

●CLCAとはじめ塾

CLCA(ホームページは現在、工事中のためにラフなものになっています)は、戦前から行われている寄宿生活塾である「はじめ塾」が母体となって生まれたNPO法人です。

「戦前から」とか「寄宿生活塾」というと、すごく堅苦しいイメージがあるのですが、CLCAにもはじめ塾にも、いわゆる「堅苦しさ」は全くありません。子どもたちはとても伸び伸びしています。が、ちゃんとしっかりもしてます(はじめ「規律がある」と書こうとしたのですが、それはちょっと違いました)。

CLCAの面白いところのひとつは、不登校の子が元気なこと。不登校になっちゃうと、元気だといけないような感じがしてみんな暗くなります。

でも、CLCAにいる不登校の子は元気です。で、高校卒業認定試験なんかを高一のときに全部、取っちゃって、あとは元気に不登校を楽しんで、毎日を暮らす、そんな子もいます。「不登校」とか「ドロップアウト」っていうのはもともと自動詞ですから、自分の意志で不登校をしているっていう感じです。

よく不登校の問題として「学校に行かないと人間関係が築けない」というのがありますが、そんなことはここでは無論ない。周りに子どもも大人もたくさんいるから、むしろ学校よりもいい人間関係が築ける。はじめ塾に入っている子たちは、掃除、洗濯はもちろんのこと、薪割りから風呂焚きからご飯炊きから献立から、さらには数十人の食事の差配から何でもします。そんじょそこらの大人よりもしっかりとしています。

大鼓の大倉正之助さんが、大鼓を通じて、子どもたちにさまざまな大切なことを伝えるという「正之助塾」というのをCLCAでされていて、最初はその関係で呼んでいただきました。子どもたちと新作能を作ったり、その指導を何人かの能楽師としていたりしたのですが、去年から能の活動はちょっとお休みになり、いまは新たなことを始めています。

●三日坊主学校

そのひとつが「三日坊主学校」。

これはずいぶん前からのアイディアで、最初は「自分は何がしたいのかわからない」という高校生の発言から思いついたものでした。彼に「じゃあ、今までにどんなことをしてみたのか」と聞くと、ほとんどしていない。

自分の高校時代は、バンドを4つ掛け持ちして、雑誌を作って、ハンググライダーを設計図だけから自作して、映画も作って、家出も何度かして、当然夜遊び、朝遊び、昼遊びもして・・。もう、何でもかんでもやってみた高校時代でした。

だから「『何したいかわからない』っていう前に何かしろよ」というのがまずはきっかけ。

さらに、3日間マジメにやると、かなりのことがちょっとはできるようになります。たとえばパラグライダーとか、スキューバとか、スキーとか、飛行機の操縦とか、陶芸とか・・。全くの初心者でも、3日間で、ある程度「やった!」という感じがつかめるのです。

「何をしたいのかわからない」という若者に、この3日坊主レッスンを1年間受けさせてみたい!

そうすると1年で約100個のことにチャレンジできるのです。かりに自分に向いているものが見つかって、「これをもっとやりたい!」といってもダメ。何が何でも「三日坊主」であることが大事です。

で、まずは100個すべてをやってみる。

というようなアイディアでした。

これをCLCAで話したところ、「それは面白い」ということになり、しかし、むろん100個は無理なので、時々気が向いたときに「三日坊主学校」を開講しようという話になりました。

●桃山晴衣さんにもおいでいただいたことが

今までの三日坊主学校では、たとえば桃山晴衣さんにおいでいただいたこともあります。桃山晴衣さんは先日、本当に悲しいことに亡くなられてしまいました。

桃山さんのLP(坂本龍一プロデュース)を持っていて、すごくファンだったのですが、松岡正剛さんのご紹介で、おつきあいをさせていただくようになりました。桃山さんのパートナーが、かの土取利行さん。土取さんには、それからずっとお世話になっています。

で、桃山さんからは子どもたちは、本当の「わらべ歌」を伝えていただきました。そのときの模様は、CLCAの機関紙、『あやもよう』に書かれていますので、ご興味のある方はCLCAの事務局にバックナンバーの有無をお尋ねください。

●ミュージカルに挑戦

さて、今回の三日坊主学校は「ミュージカルを作ろう」というものでした。

ミュージカルといっても、どちらかというと群読劇にちかいかなあ。

題材は『沈める寺(ドビュッシー)』。海の底に沈んでしまった寺院から聞こえてくる鐘の音を探しに、みんなとうまくいかない五人の子どもたちが船出をするという物語です。

この物語は、臨川小学校の去年の演劇フェスティバル用に作ったのですが、今回はそれを元にCLCAの子どもたちがセリフを自分たち用に直したり、音楽をつけたりします。ダンスもつけます。

ダンスの指導は、臨川夢くらぶでもお世話になっている楠美奈央さん(ナオちゃん)と山口夏絵さん(ナッちゃん)。

CLCAの子どもたちは能もやっているので、音楽や群読にも能的な要素を入れたりして、なかなかいい作品に仕上がりそうです。CLCAバンドもなかなかいい味を出しているし、音楽もセンスがいい!

この三日間で、だいたい形が見え、台本が一応固まりました。これからあと一回練習をしてラフな状態で一度発表会をします。その時点ではセリフも入っていないし、動きもちゃんとは決められそうにないので、立ち稽古を見ていただく形かな。

で、さらにそれに手を加えていって6月にちゃんとした作品に仕上げて発表会をします。

お知らせをしますので、お時間のある方はぜひ見に来てください。

夢くらぶ(2)

●香西さん、ありがとうございます

他人の褌で相撲を取るのが大得意です。というか、他人がいなければ何もできないに等しい。

「夢くらぶ」そのものだって東江寺の飯田住職や荒井校長先生のおかげでできています。銚子だって吉田さんのおかげだし・・。

本当に「おかげ」だけで生きているなあって実感します。

そして、今回の音楽フェスティバルでは指揮者の香西(こうざい)克章さんや、ダンサーの楠美奈生さん、山口夏絵さんにお手伝いいただきました。いや、お手伝いというよりも、僕はほとんど見ていただけなので、このお三人に稽古をつけていただいたのです。

指揮者の香西さんは、練習や本番ではグレゴリオ聖歌の指導をして下さったり、『タキシード・ジャンクション』や『赤鬼と青鬼のタンゴ』ではトランペットを吹いて下さいました。

香西さんはふだんは合唱の指導や指揮をされていて、1,000人の男性コーラスをも指揮をしたという方です。また、ご自身でもトランペットやコルネットも吹き、ブラスの指導もされています。

そんな方が来て下さったのは、謡の会に香西さんがいらっしゃっていて、そのご縁でお手伝いをしてもらっちゃったりしたのです。

香西さんの指揮で歌うと、全く違う響きが奏でられます。すごい聖なる響きになるのです。

練習で始めてこの曲を子どもたちと合わせたとき、それまでワサワサしていた子どもたちが、父母のグレゴリオ聖歌が始まった瞬間にシーンとなりました。すごい!お父さん、お母さんの力もすごいけど、指揮の力も恐るべし!と本当に驚きました。

●鍛えることによって失われるもの

ある日、練習の後、香西さんが「鍛えられていない方(←いい意味ね)たちのグレゴリオ聖歌は、まるで『おらしょ』みたいですね」とおっしゃいました。

『おらしょ』とは、キリシタンなんて呼ばれていた時代に歌われていたグレゴリオ聖歌ベースの聖歌です。民謡のような、グレゴリオ聖歌のような、そんな不思議な響きをもった音楽です(グレゴリオ聖歌とオラショとの関係をレコードにしたものが、ずいぶん前に出ていましたが失くしてしまった)。

おらしょは祈祷の文であり、祈りの言葉です。父母の皆様が歌うグレゴリオ聖歌からは、そんな敬虔が調べが聞こえてきます。しかも、それはキリスト教という一つの宗教を超越しています。

同じような時代のキリスト教の教義書『どちりな・きりしたん(岩波文庫:長崎版)』を読むと、キリスト教が日本という風土の中で、キリスト教の教義を残しながらも民俗宗教化されて受け入れらていく過程のようなものが見えて素敵なのですが、おらしょにもそういうところがあります。

確かに日本化されてしまった『おらしょ』は元のグレゴリオ聖歌と比べれば、音楽的には劣ります。が、その祈りの本質は何も変わっていない・・というより、むしろ深かったりする(なんていうとキリスト教の信者の方に叱られるかな)。

鍛えるということは、むろん素晴らしいことなのですが、しかし鍛えることによって失われる何かもあります。鍛えていない声による聖歌は、まさに祈りの歌そのものです。

●祈りはすべてを超える

クロアチアで能をしたときに、そこで舞台をトンカン、トンカン作ってくれていた元大学教授の大工さんが、「能の中には仏教と神道という相容れないはずの宗教があるのに、共存していてすごい」と話していたと以前に書きました

クロアチアは宗教の対立による内戦で、多くの人々が殺し合い、彼の息子も内戦で亡くなった。だからこその感慨であり、感動です。

夢くらぶで群読劇をするときには、ベースが能なので、その祈りは仏教的な祈りだったり、神道的な祈りだったりします。今回はグレゴリオ聖歌でキリスト教的な祈り。

ヘブライ語による祈りの歌が最後に入る作品(『ワルシャワからの生存者』シェーンベルク)もやりたいと考えていますし、アラブの作品をするときにはウードを入れたりします。

村上春樹がイスラエルの文学賞を受けるのを「辞退すべきだ」という意見が多く寄せられたとのこと。意見どころか脅迫めいたものも村上氏のもとには行ったに違いありません。

国家(特に軍)とひとりひとりの人間、政治と芸術、宗教と祈り、実はみな違うものです。

宗教は違っても「祈り」の精神は共通します。いや、宗教だけでなく、祈りは科学も超えるかも知れない・・。

<まだ続く>

ロマンスカーの中にて・・

銚子

浜には坂があります。しかも小さな峠のようになった坂が多く、だらだらした上り坂を歩いていると急に坂が終わり、その終わりとともにやはり突然、視界が開けて、そこにドーンと大海原が出現します。

まるでだまし絵のような風景が海辺の町には隠されているのです。

千葉県の端っこの町、銚子で生まれ育ち、家は海のすぐそばにありました。

高校時代、夜、学校からの帰り道、わかっていながらも毎日、このだまし絵のトリックにひっかかって、そうして感動してしまい、毎日、毎日ドキドキしていました。

晴れた夜は、波に月が砕けてキラキラするのですが、坂の上に突き出た木がちょうど月を隠すので、月の本体は見えずに波のキラキラだけが見え、坂が作り出すだまし絵と、月と影とのだまし絵が二重のトリックになって、まるで酔ったような気持ちになります。

銚子ってすごいなあ、と高校時代は本当に毎日、毎日感動していたのですが、大人になってからはとんと帰っていませんでした。

飛び回るのは大好きで、北は北海道から、南は奄美大島まで、海外だって26カ国でワークショップをしているクセに、出身地の銚子では一度もワークショップをしたことがありませんでした。

それが今日(あ、日を越えた。昨日だ!)、実現したのです!

保育所と高校の同窓生、吉田孝至さんが骨を折って実現してくれました。吉田さんは銚子で花清さんというお花屋さんをしています。

◆◆◆◆◆◆

生まれて育った土地ですから、銚子でワークショップをしたいという気は前からあったのですが、今まで機会がありませんでした。

学校や教育委員会に「能のワークショップをさせてください」というと、だいたい「小学生には難しすぎて」とか「うちの子は何も知らないのでご迷惑をかけてしまうから」といって断られることが多く、あちらからの要請か、何かの伝でもなければ実現は難しいのです。

でもなぜか今回はとてもしたくなって、(そしてこれもなぜか)吉田さんのことがふと浮かんで、高校卒業以来始めてメールで連絡を取ったのです。それもほんの二週間前。そのメールのやり取りの間に、「2月17日が空いているので、まずは打ち合わせに行きます」と書いたら、何と吉田さんから「その日に小学校でワークショップができるようになった」というお知らせ。

メールをした翌日には、そんなセッティングをしてくれたのです。すごいです。

そして、今日、銚子の小学校(飯沼小学校)で、はじめてワークショップをしたのです。

念願がこんな風にかなって、とても嬉しい。あまりに嬉しいので、これについて書くと、ひとりだけ盛り上がって、読む人はあまり面白くないと思うので詳細は書きませんが、吉田ご夫妻との会話もとても楽しかったのです。

そして、とっても悲しいこともひとつあったのですが、あまりに個人的なことなのでそれも省略。

でも、これからどんどん銚子に行くぞ!
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