2009年01月

明日(土曜日)は京都

明日は京都大学医学部の芝蘭会館でお話をします。4人の講演者のひとりです。

詳しくはホームページをごらんください。無料ですので、お近くの方はぜひおいでください。実はちょっと企んでいることがあるのですが、どうなるかは明日行ってみなければわかりません。

・・・というわけで、ここでは書けませんが・・・。

明日はせっかくの京都なのですが、明後日(日曜日)は白石蔵王なので多分、最終の新幹線で日帰りです。明後日も早い・・・。

九公さんの論語講座:そろそろ始まるよ

kyuko01わしは鳩翁先生のニセモノの九公さんじゃ。鳩翁先生のニセモノだからしゃべり方もマネをするけど、うまくいかなかったらゴメンな。

このブログで「九公さんの『論語』講座」をはじめようと思っている。週に一回くらいのペースでたらたらやっていくつもりなので、ゆったりとおつきあいくだされ。

ちなみに鼻の下の黒いのは口ではなくてヒゲじゃ。画像をクリックするともっと大きいのが出てくる。今回はほとんど意味ないけど漢字の説明などは黒板でするから、そのときはクリックよろしくね。

いい加減なCGですみません。

ワークショップのお知らせ

以下の内容はメルマガの登録をされた方には送ったものです。メルマガに登録をされていて以下のメール((携帯の方は省略版)が来なかった方は、登録に手違いがあったかも知れません。恐れ入りますがご連絡ください。

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今回は、身体もあり、和もあり、語りもありという、とてもお得なワークショップのお知らせです。主催は川口市のメディアセブン。

時間も10時〜16時。講師も安田だけでなく、能管の槻宅聡さん、そして舞台俳優の水野ゆふさんという三人。そしてなんと参加費が無料です!

以下、日時・場所などを書いておきますが、お申し込みは直接、メディアセブンさんへ。また申し込み期限(2/1)も近いのでご注意ください。

      <記>

『つながる身体 伝える身体』

開催期間: 2009/02/11 10:00 〜 16:00
場所:プレゼンテーションスタジオ(川口市)
主催:メディアセブン
応募条件: 対象:小学3年生から大人まで
定員:30名
参加費:無料
持ち物:途中昼休憩を挟みます。昼食は各自ご用意ください。ふた付きのお飲み物をご用意ください。※当日は動きやすい服装でお越しください。
申込先: ワークショップに参加するには事前申込が必要です。下記の3つの方法からお選びください。

■来館 
■メール event@mediaseven.jp ワークショップ名・〒・住所・参加者氏名・ふりがな・年齢・電話番号を記入の上送信。
■往復はがき ワークショップ名・〒・住所・参加者氏名・ふりがな・年齢・電話番号を記入の上締切日必着で郵送。
※申込期限: 2月1日(日)*応募者多数の場合は抽選となりますので、ご了承ください。

詳細はメディアセブンのホームページで--->

鳩翁道話(13)巻一の下(5)野良息子の話、最後


さあ、野良息子の話の最終回です。今回で『鳩翁道話』の第一巻はおしまいです。

●親は子に迷うもの

なんと子に迷う、親の哀れな心をもご推察なさりませ。親猫が子猫をくわえて歩くように、蔭になり日向になり、人のそしりもご先祖さまへの義理も、またわが身のつまらぬ行末も構うこともない。子が可愛さに心を捉われきって、迷いに迷った親の心。実にあわれに、また気の毒なものでござります。

しかし、これはこの親が特別というわけではない。子を持った世間の親のこころはみなこの通りなのじゃ。

先師、石田梅岩先生の歌に・・

 子に迷う親の心を見るにつけ
  我がかぞいろもかくやありなん

これは、人の親が子に迷うのを見て、自分の父母もこのように思し召されたのだろうと思われてお詠みなされた歌じゃ。実にこの通りに違いはござりませぬ。この親の大慈大悲の光明が、かの不孝者の腸(はらわた)に沁みわたるとありがたいものじゃが。

●子から光明が輝き出る

さて、さすがに恐ろしい鬼のような乱暴者も、このありさまを見て、五体を絞め木でギリギリと絞めつけられるように感じて、なぜかは知らねども、胸先、喉元まで涙が突き上げてきて、声をあげて泣くこともできず、袖口を口にくわえて大地に倒れ伏して声を忍ばせて泣いている。

円位上人の歌に・・

 何事のおわしますかはしらねども
  かたじけなさに涙こぼるる

まことによう詠んだ歌でござります。

このとき、かの野良息子は、親のことを忝(かたじけな)いと思ったわけでもなく、またありがたいと思ったわけでもない。ただ何かは知らず、親の慈悲心がはらわたへこたえると、ようしたものじゃ、いても立ってもいられぬようになる。

これがこれ、人々固有の「本心」と言って、明らかな徳をみな生まれつき備わってはいるけれども、おのれが気随気ままの身勝手で、しばらくその光を隠していたのじゃ。

しかし、親の大慈大悲の光明ではらわたを貫かれ、自然と息子が本来持っていた光明が誘われて輝き出すと、気随気ままのむら雲はどこかへやら消え失せて、そこから親の慈悲が本当にありがたくなってくる。

 木賊(とくさ)刈る園原山の木の間より
  磨かれ出づる月のさやけさ

<木賊というのはヤスリのようにものを磨くのに使われていた植物:安田注>

格別の悪党が本心に立ち返ると、ひときわ勝れて磨かれ出る月のさやけさ、なんとありがたいものではござりませぬか。

●親族会議の結末

さてかの野良息子は、すぐさま座敷へ駆け込み、親たちに詫びを申そうとは思ったが・・

「いや、待て。このまま駆け込んだら、親類縁者は驚き、どんなことをするだろうと親たちも気が気ではないだろう。何も知らない顔で表口から入り座敷に出て、まずは親類に詫びをしよう」

・・と心に決めて、裏口から表口まで忍び足で周り、それから先はわざと雪踏の音もたかく、咳ばらいをしながら座敷に通ると、親類どもは大いに驚き、親達は我が子の顔を見て、夫婦とも泣いてござる。

かの息子も、何も言わずにうつむいて泣いている。

少し経って、かの野良息子、親類の人々に向かって・・

「さてこれまでも、勘当、勘当と度々聞きはしましたが、さのみつらいとも思ったこともございませんでした。が、今夜、寄合と承り、どうした事やらしきりに心細く覚えまする。これまでの重々の無調法、この上はきっと改めまするによって、今夜の勘当は、なにぶんしばらくご容赦下されい。長くとは申しますまい。ただ三十日の日延べをお願いしたい。そのうちに性根が改まらなければ、そのときは勘当をされても、一言も申し分はござらぬ。どうぞお前様方のお取りなしで、わが両親に三十日の、日延べをいたしてくださるるよう、お詫びなされて下されまいか」

・・と、いつになく頭を畳へすりつけて頼む。

このとき親類中は、親達の強情なまでの返答に、その座が白けてしまって、立とうにも立つこともできず、なんとなく居心地が悪い思いをしていたところに、この息子のひとこと。

これ幸いと一同はロをそろえて、親たちに、「今夜の所は、待ってやって下され」と詫び言をする。

親たちは、本心に立ち返らなくても、もとより勘当はせぬ心。まして今の一言を聞いて、ただ嬉し泣きに泣いている。

親類もこれをしおに、息子に向かって「しっかりと孝行をさっしゃれ」と言い捨てて、その夜の親族会議は終わりとあいなりました。

●悪童かえって大孝行となる

これから、かの息子どのが、手のひらを返すように孝行な人になり、二親に仕えるありさまは、実に小児が父母を慕うがごとく、これまでの悪行はあとかたもなく消え失せました。

このことが世間のうわさにもなり、半年も経たぬうちに、ご地頭様のお耳に入り、ついにお目がねをもって、大庄屋役をかの息子に仰せつけられました。

この一事をもってしても、かの息子がどれほどの孝行をしたか、ご推察いただけると存じます。

さてそののち三年ばかり経って、母親が大病にかかり、その末期の枕に、かの息子を呼んで言われるには・・

「いつぞやの勘当の評定の日より、何と思うたかお前の心が改まり、この上ものう孝行にしてくれる。もしそのときに、そなたの心が改まらず、そのうちにわしが死んだならば、地獄へ行く外はなかったところじゃ。今はそなたが孝行にしてくれる。何も思い煩うことがないゆえ、いま死んだら極楽へ行くに違いはない。わしを仏にしてくれるは、皆そなたの孝行のゆえじゃ」

・・と、手を合わせて拝みながら臨終をされたという事じゃ。

なるほど「当来の果を以て未来を知る」と。

この世で心苦しければ、未来もまた心苦しい。今日の手遅れは明日について回る。心の苦しいは地獄、心の楽は極楽。

親の苦楽は子たるものの行状にある。子が善であれば親は仏、子が悪であれば親は鬼になりまするぞえ。

一旦若気のあやまりで、何の分別もなく親に心使いをさせたり、親を泣かせたりの不孝も、この道理をよく理解して、今日ただいま志を立て直し、我が身に立ち返って孝行すれば、親ご様は今日から極楽暮らし。しかし、立ち返らず、いままでの通り不行状がやみませぬと、親御はそのまま地獄暮らし。

地獄極楽は、ただ「身に立ち返る」と「立ち返らぬ」との違いだけ。

この「身に立ち返る」を孟子は「放心を求むる」という。これがすなわち学問の事じゃ。
またあとは明晩お話し申しましょう。

下座

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『鳩翁道話』第一巻が終わりました。これで『鳩翁道話』の連載はしばらくお休みします。

長い間、ありがとうございました。

鳩翁道話(12)巻一の下(4)野良息子の話が急展開


前回に続いて野良息子の話です。なんともひどい息子もあったもので、自分を勘当するための親族会議に乗り込んで金をせしめようとしています。が、不思議にこの野良息子が悪心を翻して大孝行の人になるという、これからが成仏の段でございります。

●母親、勘当をやめてくれと父親にいう

「人の親の心は闇にあらねども子を思う道に迷いぬるかな」

野良息子の親たちの前に、勘当の願書が回って来ると、母親は大声をあげて泣き出す。老父は歯もなき歯茎を食いしばって下を向いて身動きもしない。

が、やがてくぐもった声で、「おばば、印鑑を取ってござれ」と老妻にいう。母親は返事をすることもできず、泣く泣く箪笥の引き出しから、革の財布に入った印鑑を取り出し、それを爺親の前に置く。

野良息子は、雨戸の外から息をつめて成り行きをうかがっている。

そのうちに老父は覚悟を決めた。が、本当は印鑑などは押したくない。ぐずぐずと財布の紐を解き、ようやく印鑑を取り出して、朱肉をつけて判を押そうとする。

そのとき、母親が父親の手にすがって、「先ず待って下され」という。

「この期におよんで何をいう。親類中も見ていらるる。未練な事を言わっしゃるな」と父親はいうが母は聞かず、「まず私が言うことを聞いて下され」と懇願する。

「確かにあの不孝者にこの家を譲ったら、三年もたたぬうちに草を生やして荒れ果てるでござろう。それが悲しいといっても、天にも地にもたった一人の子。その子を勘当したら、跡とりのために代わりに子をもらわねばなりませぬ。

もらった養子が実直で、わしら夫婦に孝行をし、家もしっかりと相続してくれればよけれども、しかし養子だから孝行だと決まったこともござるまい。その養子も不心得で、家を野原にするかも知れませぬ。どうもわしら夫婦は運の悪い夫婦なれば、そうなることもあるではござらぬか。

どうせ子のためにつぶす身代なら、せがれのために家を失い、馴染んだ村を立ち退いて、夫婦ともに乞食になっても、我が子の尻について歩けたなら、わしは本望に思います。五十年このかた、一生に一度の願い。どうぞ聞き入れて勘当をやめて下され。子ゆえに乞食をすると思えば、恨みにも思いませぬ」

・・と、声をあげて泣く泣く言わるる。

親類もこれを聞き、一同に顔を見合せ、親父が何と言わるるぞと、見守っている。

●親父様の言いよう

と、親父は何を思ったか、印鑑を財布に入れ、手早に財布のひもを締めて、勘当の願書を親類の前に差し戻して言う。

「さてさて親類の皆様方へは、まことに面目ない事でござれども、いま婆(ばば)が言うところ、わしももっともと思いますゆえ、今後せがれの勘当はいたしますまい。このように申さば、その甘い心で育てたがゆえに、あのような不孝者が出来たと、定めてお前様方は笑わっしゃろうが、笑われても苦しゅうはござらぬ」という。

親類たちは呆れて聞いている。

「もちろん、あのせがれを勘当しなければ、この家がつぶれる事は、ものの三年も待つことはございますまい。わが子ゆえに先祖代々の家を野原にするのは、ご先祖様に対してすまぬという事も、よう合点しておりまする。勘当せねば、お前様方と不付合いになり、親類一同からの義絶も合点でござる。

定めて、わしらが村を立ち退くとき、金を無心したり、物をねだったりせぬかと、その用心のための義絶であろうが、そのようなことはご案じ下さいますな。世間の義理も、先祖への不孝も、親類の義絶も省みず、こんな決心をするのは、ただただわが子が可愛いばかり。その子の尻を追って乞食をしながら、ついて歩くならば、それはわしら夫婦が本望というもの。決してお前様方に無心やねだりはいたしませぬ。

そもそもどのように死ぬのも一生は一生じや。可愛い子のために、道にのたれ死に、並木のこやしになるのも、自ら好んでするのであれば恨みとは存ぜぬ。さあ、どうぞお前様方もお引き取りください。明日からはお互い他人でござる。我が子のためなら、何と言われてもかまいはござらぬ」

と、同じく大声をあげて男泣きに泣かるる。勘当せぬと聞いて、母親もうれし泣きに泣く。

親類縁者は、あまりの事にあきれ果て返答もせず、ただ夫婦の顔をうちながめているばかりなり。

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あれあれ。すごいことになりました。今回はここまで、続きは次回に。
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