2008年11月

神話する身体

『言語』(大修館書店)で1年間に渡り「神話する身体」というテーマで連載をしてきました。先日、最終回分の原稿を送り、校正もすみ、終了しました。

連載は大変だったけど、このおかげで本居宣長が大好きになったのと、『古事記』も『日本書紀』も真面目に読みました。賀茂真淵や平田篤胤なんかも名前しか知らなかったけど、いくつか読みました。これまた面白い!

平田篤胤とかは現代ではナンチャッテ的な扱いを受けていますが、すごく面白い。賀茂真淵もすごい。高校などでもっとここら辺のすごさを教えてほしいなあ。高校の先生、ぜひ読んでみてください。学生時代、原文読んでいたでしょ。それを思い出して。

前回のブログで『論語』は古代文字に直して読むと書きましたが、『古事記』はなんといっても祝詞のマネをして読む!です。

朝、写経と大祓を奏していますが(神仏混交!)、それにときどき『古事記』も入ります。あ、横には聖書と、そしてデ・メロ神父の本が数冊。神仏混交どろこではなくメチャクチャ。こうなるとすべての宗教の人から嫌われるかも知れない。でも、日本の神道、インドの仏教、中国の論語とすべて受け入れ、それを混交する。それが日本流です。

『古事記』も『論語』も身体的な語が多いということでは共通していて、シンクロする部分がとても多くて、楽しくも不思議な一年でした。

得がたい機会を与えていただきました。

論語と易と古代文字

今年はずっと『論語』の本を書いています。

ブログを読み返したら4月くらいには「順調です」などと書いていたし、また数ヶ月前には「もう終わるな」と思っていたのですが、なかなか落とし所が見つからず、いまだに終わっていません。

ブログの空白期間は、かなり根をつめて『論語』の原稿を書いていた時期です。

いままでさまざまな本を書いてきましたが、こんなにかかったのは始めてです。うーん、やはり『論語』、恐るべしです。

さて、自分で『論語』を読むときに、できるだけ孔子が生きていた春秋時代後期の漢字に直して読もうと思っています。『論語』の古代文字化です。

それをすると、「現代の論語の中ではこんな漢字を使っているけど、孔子時代にはこんな漢字はまだなかった」というのがよくあります。

たとえば聖徳太子の言行録が見つかって「リストラしなきゃ」なんてことが書いてあったら、絶対それは変なわけで、それと同じに孔子時代になかった漢字を孔子が言っているはずがないのです。

・・となると、それは同音の漢字か、あるいは(いろいろ考えて)違う漢字で春秋時代にあった漢字を当てはめて読み直した方がいい・・そう思っています。で、そう読むと、解釈もかなり変わってきます。

『殷周金文集成』(全18巻が8巻本になって使いやすくなった!)とその索引『殷周金文集成引得』を使いながら、その作業をしています。

実は今回の本は、この「孔子時代の文字で読む」というのを中心に据えていこうと思って書いていたのですが、それはお流れになり、新たな視点での書き直しを考えています。

中国文学者でもない僕がこのアプローチで書く根拠が少ない(と読者の方が感じるだろうという)のと、今までの身体関連の本の流れで出した場合、一般書として難しすぎるからです。

が、このアプローチは僕が『論語』を読むときの基本なので、新しく書き直した方でもむろんイキてはきます。でも今まで書いた大半の原稿は今回は使えないかな。前回もかなり内容が変わって、それはきれいさっぱり捨ててしまいましたが、今回はかなりもったいないなあ。

でも、僕は編集者を絶対的に信頼していて、書き直した方が読みやすくなるし、面白くもなるので、今日も五時に起床して書いています・・が、飽きたのでブログに逃げてます。

さて、『論語』の古代文字化と同時に行っているのは『易』の古代文字化です。これはいつの時代の文字に直したらいいのかがよくわからないのですが、いまのところ卦は西周の時代の文字に直しながら読んでいます(これはかなり無理がありますが)。もっとやっていくうちに何かが見えてくるかも知れません。

『易』の方は、ゆっくり、ゆっくりやっていくつもりです。公田連太郎氏の『易経講話』が全五巻だし、古代文字にして解釈していくとなると『易』はかなり大部になりそうで(かつ僕は中国文学者でもないので)、出してくれそうな出版社はないでしょう。

というわけで十年くらいしたら自費出版でもしようかなと思っています。

お手伝いいただける方がいたらお願いします。・・十年後ね。
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