あわいの時代の論語(自著紹介)

2017年7月に春秋社より『あわいの時代の論語 ヒューマン2.0』を上梓しました。

その「はじめに」と「あとがき」を掲載しつつ、この本の紹介をします(これは小倉ヒラクさん@『発酵文化人類学』のマネです)。

「はじめに」には、各章の概略も書いてありますので、本書の内容もざっと知ることができます。


43650 あわいの時代の『論語』 装丁画像

表紙と各扉のイラストは中川学さんです。

最初に春秋社さんが書いてくれた内容説明を!
「君子」とはどんな人なのか?「仁」の境地に達するには?――
AI等の急速な進歩によって、3000年にも及んだ「心」の時代に大変革が訪れようとしている。かつてない激動の時代にこそ、文字が急速に発達した時期に書かれた孔子の『論語』が役に立つ! 究極の温故知新がここに!1

では、まず本書の「はじめに」を掲載します。
各章の概略もあって読んだ気になれます(笑)。

【はじめに】

いまからおよそ3,000年前(紀元前1,300年頃)。古代の中国では文字が誕生しました。

文字は「時間」を生み、「論理」を生み、そして「心」(という文字)も生みました。生まれたばかりの「心」の意味はいたってシンプル。すなわち、未来を変え、過去から学ぶ力、それが「心」でした。

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<(ちんちんみたいな)心という文字>

文字が生まれる前、そして「心」が生まれる前、私たち人類はみな「夢」の世界に生きていたのではないのでしょうか。夢の世界といってもファンタジーのような楽しいことばかりではありません。

怖い目にあっても、夢(悪夢)の中の選択肢は「逃げる」ことのみ。恐怖の対象に対して何とかしようと冷静に思索を巡らし、計画を立てるなどということは夢の中ではできません。ただただ逃げるだけです。これは夢だけでなく、小さな子どももそうです。

文字以前の世界、「心」以前の世界は、夢の中の世界と同じであり、無力の子どもの世界と同じでした。

文字の発明によって「心」と「時間」を手にいれた人間は、変えられないと思っていた未来や運命を変える力を手に入れました。恐怖の対象から、ただ逃げるだけでなく、それを何とかしようと計画を立て、実行に移すことができるようになりました。どうすることもできないと思われていた自然災害や猛獣たちの災いからも身を守ることができるようにもなったのです。これは大きな革命でした。

そこから「心の時代」が始まりました。

しかし、明るい未来を手に入れた人間は、未来に対する「不安」をも同時に手に入れてしまいました。また、過去から学ぶ力を手に入れた人間は、同時に過去に対する「後悔」も手に入れてしまったのです。

未来を変える力を、心の「作用」だとすれば、「不安」は心の「副作用」です。

その副作用に対する処方箋を私たちに与えてくれたのがお釈迦様であり、イエスであり、そして孔子です。みな、2,000年以上も前の方たちです。それなのに今に至るまで、このお三方を凌駕する人物が現れないのは、「心の時代」がまだ続いているからです。

しかし、近年の急激な時代の変化を肌で感じていると、「ひょっとしたら、文字や心の誕生前夜もこうだったのではなかったか」と思います。文字が生まれたばかりの頃の文字資料を読んでいると、いま私たちが直面している不安や期待に似たものを感じるのです。

本書では、心の時代のもっとも重要な書物のひとつである『論語』をガイドとして、文字の誕生前後の世界のありさまを読み解きながら、これからの世界がどう変わるのかも考えていきたいと思っています。

本書の内容は以下のようになっています。

【第一章 あわいの時代】
間あいだ
あわい
<「あいだ」と「あわい」。「あわい」は縁側的境界>

2045年に訪れるという予測がなされているシンギュラリティ(技術的特異点)を目前に、いま世界は大きく変わろうとしています。人工知能がすべての人間の脳の総量の機能を凌駕するというシンギュラリティが訪れたら人間はどうなってしまうのだろうか。そう心配する人も多いでしょう。

しかし、人類は過去に何度もシンギュラリティを経験して、今に至っています。その直近のシンギュラリティが今から三〇〇〇年(古代中国)〜五〇〇〇年(古代メソポタミア)前に訪れた「文字の発明」でした。この文字シンギュラリティによって、人類の中には「心」が生まれ、それに伴い「時間」や「論理」なども生まれたのです。

文字ができた直後に書かれたものの中には、文字以前の記憶が含まれているものも多くあります。この時代は、前・文字時代と文字時代との双方の記憶を含む時代なので、「あわいの時代」と呼ぶことにしましょう。

このあわいの時代の神話や文学、思想書などを読むことによって、古代の人々が文字シンギュラリティをどう迎え、そしてどのように対処したのかを私たちは知ることができ、さらにはこれから来るシンギュラリティをも予測することができるでしょう。

そして、あわいの時代の書籍の一冊が『論語』なのです。

【第二章 心の時代】
古代の言語で書かれたものを読むと、最初期の「心」は、耳、腹(内臓)、血流、性器、子宮などの身体語によって表現されています。
『論語』の中にも「心が腹部にあったとイメージされていた」ことを推測される文があります。食べ過ぎると、お腹が飽和状態になって心が使えなくなると孔子はいう。でも、そういうときにはバクチをするといいとも孔子は言います。

長谷雄草紙
<飽食の日にはバクチ(博奕=双六)がおすすめ>
『長谷雄草紙(永青文庫蔵)』
※書籍掲載にはちゃんと掲載料をお支払いしました。ここは無断です。許して〜。

本書でいう「心」は、私たちが現在考える「心」の機能とは少し違います。定義をすれば「時間を知り、未来を計画し、過去から学ぶ」ことができる能力です。「意志」や「自由意思」の一種といってもいいでしょう。それができたばかりの「心」の機能でした。

古代中国の殷(商)の時代、しばしば生贄にされるという運命を担わされていた一族がいました。羌族といいます。彼らはなぜ唯々諾々と生贄にされていたのか。彼らの運命を甲骨文から読むことにより、心の誕生前後の消息を知ることができます。

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<生贄の甲骨文。三人の羌族が生贄にされる>

また、文字と心の関係を確認するためにヘレンケラーとピダハン(アマゾンに住む人々)の例を紹介し、また日本でもほんの数十年前には「心」が希薄な人々が多かったことを芹沢光治良の小説から紹介します。

【第三章 君子】
孔子の理想像のひとつは「君子」でした。反対は「小人」。しかし、君子や小人がどのような人であるかは『論語』の中では定義がなされていません。
そこで、五経のひとつである『尚書』を読んでみると「小人」というのは「ふつうの人」の意であることがわかります。たとえば人からひどいことを言われたら、思わずムカつく、あるいは落ち込む。そのようにふつうに反応するのが小人(ふつうの人)であり、その反応が小人の反応、自動反応です。

それに対して「君子」とは何か。君子も、むろんそのような自動反応はします。しかし、それに一度ストップをかけて選択的に応答する。それが君子です。そして、これこそ「心」の機能のひとつであり、このように「心」を使おうと決めた人を君子というのです。

君子の「君(尹)」という語の語源は、身体的な欠落を持った人であるという説があります。精神的な欠落を持った人もそうです。

尹
<尹という文字>

身体的、精神的に欠落を持つからこそ、「ふつうの人(小人)」に先立って「心」を使う必要がありました。古代中国の聖人はみな身体的な欠落を持っていたことを紹介し、『聖書』からもその例を見てみてみます。

【第四章 礼と六芸−身体拡張装置としての「礼」】
孔子が提案した最高の理想像が「仁」です。本章(四章)から最終章(六章)までは「仁」について考えていきます。
孔子は「仁」という概念を提出することによって、文字シンギュラリティどころか、これから来るべきシンギュラリティ後の世界までをも予測することになりました。しかし、「仁」はきわめてつかみにくい。そこで本章では孔子の導きに従って、まずは「礼」を通じて「仁」にアプローチしていきます。

「礼」をはじめとする六芸(礼・楽・射・御・書・数)は、身体を拡張するための装置でした。来るべきシンギュラリティでいえばロボットやアンドロイドがその役割を果たします。

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<六芸の一つ「御」>

本章では、この六芸ひとつひとつを見ながら「仁」への道をゆっくりと歩んで行きます。本章は、扱うべき素材が六つもあるので、ちょっと長いです。読んでいるうちに疲れてしまうかもしれません。ここで読むのをやめてしまう人もいるかも知れない。

もし、読み進めながら「大変だな」、「長いなぁ」と思ったら、本章は飛ばして次章に進み、最後にもう一度戻ってきてください。本章を読んでいなくても次章以下を読み進めることには(あまり)支障がありません。

【第五章 知識−脳の外在化によって生まれた精神活動】
前章の「礼」が身体の拡張装置であり、それが来るべきシンギュラリティにおけるロボットやアンドロイドだとするならば、脳の外在化装置は「文字」であり、それは今でいえば人工知能(AI)のようなものであったといえます。

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<シュメールの楔形文字>

文字によって脳を外在化させることによって、私たちの脳には余裕が生まれ、そこで「知」という精神活動が生まれました。

「知」とは過去や現在の知識から、誰もが考えつかなかったまったく新しい知見を得るという精神活動で、孔子はそれを「温故(而)知新」という言葉で表現しました。本章では、この「知」の過程を扱いますが、「切磋琢磨」についてもお話します。

【第六章 仁−ヒューマン2.0】
「仁」は君子とともに孔子にとってももっとも重要な概念のひとつでした。しかし、『論語』の中の「仁」の記述は逆説と矛盾に満ちています。孔子は仁について何を言いたいのか、またそもそも仁とは何なのか、『論語』の記述からだけでは全然わからないのです。

これは仁が知的に読まれることを拒否する概念であることを示すのではないか、ということで、本章では「仁」については細部にこだわらずに、自由に読んでみることにします。そういう意味では、本章のトーンは、ほかの章のトーンとちょっと違って戸惑う方もいるかも知れません。

孔子は「もし王者が出現しならば、ひと世代(三十年)後には、仁の世界が現れるだろう」という予言をしています。「王者」というのは『論語』の中ではここしか現れない言葉で、孔子以前の古典の中にもまったく現れない言葉です。

この王者というのは、ひょっとしたら顔淵のことではなかったか。顔淵は早世してしまいましたが、もし彼が長生きをしていれば、世界は「仁」の世界になったのではないか。

では、そもそも「仁」とは何なのか。

「仁」も孔子の時代にはない文字です。仁とは「人+二」、すなわちヒューマンver2.0(これは、ドミニク・チェンさん@『謎床』のアイデアです)、人と神をつなぐ、ニーチェの超人に近い概念だったのではないか

などという観点をベースに、殷の時代から神々がどう変容してきたのかも検討し、また天命についても考えます。

【付録 『大盂鼎』を読む】
『大盂鼎』という青銅器の銘文を読むことによって、私たちは古代中国において「論理」が生まれた瞬間に立ち会うことができます。『大盂鼎』の銘文を、論理の誕生を中心に読んでいきます。

★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
では、本書の「おわりに」を掲載します。

【おわりに】

付録の「『大盂鼎』を読む」の最後に、リニア(直線)とノンリニア(非・直線)の話を書きました。

文字そのものの持つ構造によって、リニアな世界に投げ込まれた古代中国の人たちは、『大盂鼎』においてリニア世界のひとつの成果である「論理」を獲得し、同時に過去や未来という「時間」や、それを知るための機能である「心」をも手にしました。

リニア世界は、心の世界でもあるのです。

私たちは、いまその世界にどっぷりつかっています。

が、しかし、論理も時間も心も、すべてリニア的思考によって作り出された、リニア世界の中で培われたもの、いわば幻影であるということを忘れてはならないでしょう。

時間がリニア(直線)に流れると思うのも私たちがリニア世界にいるからであり、悲しみや怒りが持続すると思っているのもリニア世界にいるからです。「いま泣いたカラスが、もう笑ろた」といわれるようにノンリニア世界に生きる幼児に感情の持続はないし、リニアな時間もありません。

しかし、魚に水が見えないように、私たちはよほど意識的にならなければリニア世界につかっているということにすら気づきません。

孔子は、リニア世界の外を見ようとし、そしてリニア世界から自由になろうとしたひとりでした。「君子」というアイデアによって、リニア的ツールを使いこなす方法を教えた孔子は、「仁」というまったく新しい人類の可能性を創造することによってリニア世界から自由になる道を示しましたのです。

リニアは私たちに有益であるとともに、感情の持続(いつまでも悲しい、苦しいなど)、不安、後悔などを生み出し、私たちを苦しめるものでもあります。

先年、マイクロソフトからホロレンズ(HoloLens)が出て、MR(複合現実)というアイデアが提示されました。むろん、まだまだ発展途上段階で、いまのホロレンズにはたくさんの問題がありますが、これが普及し、現実世界(と思っている世界)に、もうひとつの3D世界が出現し、そしてそれを皆が共有できれば、文字は今のような二次元である必要はなくなります。Z軸にも意味を持つ文字の創造が可能だし、そうなったときに文章もリニアである必要はなくなります。

また、図や表による思考も二次元の制約を受けません。(詳述している紙幅はありませんが)たとえば現代の民主主義や地政学的な限界、あるいはリストラなどの人間性を無視した方策は、二次元的思考が生み出したものです。

子どもの頃から三次元図形をZ軸からも眺めるのが当たり前になっていれば、3Dどころか4D、5D的思考ができるようになるでしょう。多変量を多変量のまま理解できるという、いまとはまったく違う思考ができるようになるはずです。

現代人にとっては当たり前のMRIなどによる病気の予測や天気予報などの「未来を見る」ということが、おそらくは古代人にとっては驚異であろうように、これからの子どもたちは、今の私たち現代人からすれば驚くべき「目」を持つことにもなるでしょう。

むろん、そのときには脳の機能や構造にも変化があるかもしれません。また、過去の文字シンギュラリティによって生み出された「時間」も「論理」も、そして「心」も新たなものによって上書きされるに違いありません。

これから数十年後、「昔の人は、時間が過去から未来に流れるものとだけ思っていたんだって」と笑われることになるかもしれません。

そうなったときのことを想像して、その視点でもう一度『論語』を読み直すと、また新たな発見があるかもしれません。

二〇一七 初夏

★★★★★★★★★★★★★★

7月(2017年)の京都

『あわいの時代の『論語』』 カバー
中川学画伯:画
『あわいの時代の『論語』ヒューマン2.0(安田登:春秋社)』7月下旬発売の表紙


〜7月の京都〜
7月は6日(木)、7日(金)、8日(土)と京都にお邪魔します。6日と7日には、どなたでもいらっしゃれる講座がございますので、どうぞお出ましください。

●まずは日程から(詳細は後掲)

6日(木):
 13時20分〜14時30分:京都市立芸術大学 日本伝統音楽研究センター 公開研究会
 19時〜21時:京都寺子屋(瑞泉寺)

7日(金)
 13時30分〜16時:京都市立芸術大学 日本伝統音楽研究センター 公開研究会

●京都寺子屋
 上掲の表紙を描かれた中川学師のお寺である瑞泉寺で『論語』の寺子屋を開催します。
 詳細は瑞泉寺さんのホームページをご覧ください。

●京都市立芸術大学 日本伝統音楽研究センター 公開研究会
能のワキについて、ワキの語りの実演とともにお話をします。また、「インターメディアとしての能」についてもお話をする予定ですが、これは京都寺子屋での『論語』ともかなり重なる内容になる予定です。

以下です(PDFの貼り付けができないのでワードをそのまま貼り付けました)。↓

******************

京都市立芸術大学日本伝統音楽研究センター

2017628

 

公開研究会―客員教授安田登氏をお迎えして

 

 梅雨のさなか、皆様方におかれましては、ご無理のないよう、健やかにお過ごしください。

 さて、4年目をむかえる日本伝統音楽研究センタープロジェクト研究「音曲面を中心とする能の演出の進化・多様化」。このたびは、本学の客員教授としてお招きしている安田登氏をお迎えし、公開研究会をおこなうはこびとなりました。詳細をご案内もうしあげます。

 

日時:平成2976日(木) 1320分―1430

   平成2977日(金) 13時30分―16

 

場所:京都市立芸術大学 日本伝統音楽研究センター 合同研究室1(新研究棟7階)                アクセス:http://www.kcua.ac.jp/access/

 

定員:50(事前申し込みはしておりません。直接会場にお越し下さい)

 

内容:

76日(木) 1320分―1430

公開研究会「ワキのかたり、ナレーション、音楽―安田登氏をおまねきして」

   ゲスト:安田登氏 (ワキ方のかたり実演つき)       司会:藤田隆則

 この日、伝音センターでは、所長サロン(安田登氏×時田アリソン 12時15分―13時、昼食をとりながら聞きましょう!)と、伝音セミナー(竹内直氏担当、14時40分―16時10分)の、二つのイベントがおこなわれます。その二つをつなぐ時間帯に、安田登氏を囲んで、オープントークの場、能の語りを聴く場をつくります。つづく伝音セミナーでは、竹内氏が「平家物語による群読 知盛をきく」をテーマにされます。オープントークがそのイントロになればと思います。


77日(金) 13時30分―16
公開研究会「ワキ、ナレーション、インターメディア」 

   ゲスト:安田登氏(かたりの実演つき)            司会:藤田隆則

 先日(615日)の日本伝統音楽センター公開講座「インターメディアとしての能」(スタンフォード大学との共同事業)をうけて、「能においてインターメディア」とは何かを問います。「インターメディア」そのものの展開および、それと能との関わり方の将来について、話し合う場とします。

 参加の資格など、制限はありません。ご関心のある方をお誘いください。伝統芸能のさまざまな可能性についてご興味お持ちの方、能楽師の枠をはるかにこえた知的領域で活動しておられる安田氏のお話をヒントに、伝統音楽・伝統芸能へのまなざしを深めてみませんか。



6日の「ワキのかたり、ナレーション、音楽」は、そのあとにある伝音セミナー(竹内直氏)「平家物語による群読 知盛をきく」のイントロですので、ワキの語りをひとつ聞いていただき、それを現代語にどのように応用するか、そして音楽との関わりについてお話をします。

7日の「ワキ、ナレーション、インターメディア」は、まずは先年、京都市立芸術大学日本伝統音楽研究センター主催で行われた「インターメディアとしての能―能《半蔀(はじとみ)》《小鍛冶(こかじ)》公開収録」についてお話をうかがおうと思っています。そして、それを承けて、ワキの語りと古代のさまざまな叙事詩の語りについてお話をし、さらにインターメディアとしての現在の能と、さらに新たな可能性を探って行きたいと思っています。こちらは、お話をうかがってから何を話すかを考えるので、当日まで白紙で参ります。

山のシューレ2017鼎談:「21世紀の第3の場所の行方」林 信行(ジャーナリスト) × ドミニク・チェン(情報学) × 安田登(能楽師)

「21世紀の第3の場所の行方」
2017年 6月3日(土)13:30 〜 15:00
鼎談:
林 信行(ジャーナリスト) × ドミニク・チェン(情報学) × 安田登(能楽師)

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今年の山のシューレでは、ジャーナリストの林信行さん、情報学者でオンラインコミュニティやゲームソフト開発者のドミニク・チェンさんと鼎談をします。

▼「心」の賞味期限切れ

気持ちのいい人間関係、楽しくてやりがいのある仕事。多くの人がそれを望んでいるのに、しかし毎日の生活はこれとはまったく反対。息がつまることが多い。

なぜだろう。

古代中国では約3,000年前に「心」という文字が生み出され、それから人は「心」に支配されるようになりました。「心」は、それまでは変えるなんて考えてもみなかった未来を変える能力である「夢」や「希望」を人に与え、過去からの遺産を引き継ぐ「智慧」を生み出し、人類の生存率を驚異的に高め、多種多様な文明文化をも創り出しました。

しかし、希望を生み出した未来は同時に「不安」を孕み、智慧を生み出した過去は「後悔」や「羞恥」をも私たちに与えました。

希望や智慧という心の「作用」と、不安や後悔という心の「副作用」は、長い間、バランスを取りながら共存していましたが、近年、その副作用の方が急速に力を増していることは私たちの実感するところです。

不機嫌な人々、不安な日々、なんとなくつまらない毎日。生存のための「心」のせいで、自らの命を絶つ人たちもふえています。

これはそろそろ、3,000年前に生まれた「心」の賞味期限切れを暗示しているのではないでしょうか。

▼新たな世界の予感

…などという話を、この10年ほどずっとして来ました。今回の鼎談では、それを最新のテクノロジーから検証できるのではないかと(個人的には)思っています。

10万円ほどのコンピュータに入っている程度の人工知能が、全人類の知能の総和を上回ると予測されるシンギュラリティは2045年にやってくるといわれています。そして、それに先んずる形で、2030年には人工知能がひとりの人間の知能を上回るときが来ると予測されています。そんなに遠くない未来です。

いや、それどころか、東京オリンピックの年である2020年に向けても大きな変化が予測されているのです。ほんと、もうすぐです。

ロボットやアンドロイドによって人々の仕事は奪われ、しかし人は不死にも近い寿命を手に入れる。VR、AR、MRのさらなる発達によって現実と仮想の区別はなくなり、まるで映画『マトリクス』のような世界が出現する。

そんな世界が、気がつけば目の前に迫っているのです。

「そんなバカなことがあるはずがない」

私たちは、そう思ってしまいます。確かにそんなことは起こらないかもしれない。しかし、あらゆる変化は水面下で徐々に蠢きながら、目に見える形としては突然出現します。これは歴史を見ればよくわかります。

▼那須の自然の中で未来を考える

林信行さんは、スティーブ・ジョブズが信頼していた数少ない日本人のひとりです。林さんからは、私たちの目には触れていないテクノロジーの現在と、これからの進歩の様子をお聞きできると思います。


また、MITメディアラボの伊藤穣一さんとも親しいドミニク・チェンさんからも、テクノロジーの現在をお聞きします。また、ドミニク・チェンさんは人間に優しいコンピューティング(ポジティブ・コンピューティング)や発酵の研究もされているので、そちらのお話も楽しみです。


私(安田)は、前のシンギュラリティである「文字と心の誕生」の話をしつつ、おふたりからいろいろとお話を引き出したいと思っています。

この手の議論は、「頭」の話題になりがちです。しかし、那須の自然の中で、そして二期倶楽部という快適な住環境の中で、もっと身体性に注目をした未来を考えたいと思っています。

建築を生み出したことによって、人が洞窟の中から出て来たように、いま私たちは新たな「場所」を探求する時期に来ているのかもしれません。

週末の那須の自然、贅沢な時間と空間の中で、ゆったりと考えてみたいと思います。

東京から新幹線で1時間。ぜひ、お出ましください。

会場|二期倶楽部:観季館小ホール
受付|観季館総合受付
料金|¥4,000(税込)


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日時|6月3日(土) 鼎談13:30 〜 15:00 
詳細・お申込みは、山のシューレ公式サイトから
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林信行|Nobuyuki HAYASHI(ジャーナリスト)
1967年、東京都生まれ。フリーのジャーナリスト、コンサルタント。ビジネスブレークスルー大学講師。ジェームズダイソン財団理事。グッドデザイン賞審査員。「iPhoneショック」など著書多数。日経産業新聞「スマートタイム」、ベネッセ総合教育研究所「SHIFT」など連載も多数。1990年頃からデジタルテクノロジーの最前線を取材し解説。技術ではなく生活者主導の未来のあり方について講演や企業でコンサルティングも行なっている。

ドミニク・チェン|Dominick CHEN
1981年生まれ。フランス国籍。博士(学際情報学)、2017年4月より早稲田大学文学学術院・准教授。メディアアートセンターNTT InterCommunication Center[ICC]研究員/キュレーターを経て、NPOコモンスフィア(クリエイティブ・コモンズ・ジャパン)理事/株式会社ディヴィデュアル共同創業者。2008年IPA未踏IT人材育成プログラム・スーパークリエイター認定。オンラインコミュニティやゲームソフト開発を行う。NHK NEWSWEB第四期ネットナビゲーター(2015年4月〜2016年3月)。2016年度グッドデザイン賞・審査員「技術と情報」フォーカスイシューディレクター。 
主な著書に『電脳のレリギオ』(NTT出版)、『インターネットを生命化する プロクロニズムの思想と実践』(青土社)、『フリーカルチャーをつくるためのガイドブック クリエイティブ・コモンズによる創造の循環』(フィルムアート社)等。訳書に『ウェルビーイングの設計論:人がよりよく生きるための情報技術』(BNN新社)『シンギュラリティ:人工知能から超知能まで』、『みんなのビッグデータ:リアリティマイニングから見える世界』(共にNTT出版)。

安田 登|Noboru YASUDA(能楽師)
1956年生まれ。下掛宝生流ワキ方能楽師。米国RolfInstitute公認ロルファー。能楽師として、東京を中心に舞台を勤めるほか、年に数度の海外公演も行い、また国内外の学校や市民講座、様々な学会などで能や能の身体技法得をテーマとしたワークショップを開いている。能、ロルフィング、身体技法、教育など幅広い分野で活動している。著書に『ワキから見る能世界』、『能に学ぶ身体技法』、『身体感覚で「論語」を読みなおす。』、『身体感覚で「芭蕉」を読みなおす。』『あわいの力』『本当はこんなに面白い「おくのほそ道」』など。

イナンナの冥界下り「古代編」「未来編」上演決定!

ブログの更新がしばらく滞っておりました。イナンナプロジェクト、次回公演の予定が決まりましたのでお知らせ申し上げます。

 

イナンナの冥界下り「古代編」+「未来編」

2017年6月23日(金)1815開場 1900開演

@セルリアンタワー能楽堂

 

です。3月に実は上演予定でしたが、キャストの都合で延期いたしました。

今回は、12月に能楽堂で上演した新バージョンをシェイプアップした形の「古代編」と、出演者を絞り込んで、非常にシンプルな形にした「未来編」とを、セットで上演いたします。

 

そして、いよいよ海外公演に、いままでさまざまな形で上演してきたうちの、どのバージョンをもっていくかを、この公演にて決め、準備を進めたいと思っております。

 

■ここで、この「イナンナの冥界下り」のおさらいをば。

これは、紀元前3500年ごろに起こった世界最古の都市文明、古代メソポタミアのシュメール文明、そこで語られ、楔形文字で記録された、現存する最古の神話のひとつです。

いったい、どういう神話なのか。ざっくりとお話しましょう。

(1)天と地を統べる女神イナンナは、唯一自分の手の及んでいない冥界に、7つの「メ(神力)」を身につけて向かった。

(2)イナンナの突然の来訪に怒った冥界の女王エレシュキガルは、イナンナの「メ(神力)」をすべて剥ぎ取って裸にし、冥界の釘にぶら下げた(地上は暗黒の冬世界となる)。

(3)大神エンキが差し向けたクルガラ、ガラトゥルの力によってイナンナは甦り、地上にも春が戻った。

 

■今回の上演の特徴

今回の上演は「古代編」と「未来編」の同時上演という初めての試みです。

「古代編」は、前回に御覧いただいたバージョンを短縮して上演します。「未来編」は、出演者をギリギリまで削り、能以上にシンプルな形での上演になります。

「イナンナの冥界下り」は、文字ができたばかりの頃の神話です。文字は「時間」を生み、「心」を生み、「論理」を生み、「道徳」を生み、「貧富」を生み、「男中心社会」を生み、それまでの世界を一変させました。それは人類にとって、ひとつのシンギュラリティ(特異点)でした。いま、世界はAI革命による新たなシンギュラリティを迎えつつあります。そのときに世界はどうなるのか、その予兆を感じさせるような上演にしたいと思っています。しかし、詞章(セリフ)は古代のものをそのまま(かなりカットしますが)使います。

 未来編のイナンナ役は、アムステルダムを中心に世界中で活躍されているダンサー、湯浅永麻さん。さいたまトリエンナーレでの「HOME(向井山朋子:演出)」を御覧になられた方も多いでしょう。

 未来編の音楽は能の笛(能管)と能の太鼓のみ。いままでとは全く違う舞台です。

 

■この舞台は発展途上です

「イナンナの冥界下り」はアーツカウンシル東京の助成を受け、イナンナプロジェクトとして2015年から3年計画で上演しています。2017年には欧州ツアーも予定しており、シュメールの遺物をもっとも多く収蔵するイギリスの大英博物館などでの上演を目指しています。

 

●協賛のお願い

公演のみならず、関連するワークショップを多数開催するなど幅広く活動し、その成果をウェブサイト等を通じて公開しています。長期にわたる活動を継続するため、みなさまのご支援をお願い申し上げます。

支援金振込先

三菱東京UFJ銀行 恵比寿支店 (普)0838943 テンライ

お振込みいただいた場合は、member@inana.tokyo.jp  までご一報ください。

 

【古代編】約1時間15

■出演者

女神イナンナ         奥津健太郎(能楽師狂言方)

女神イナンナの声       辻康介(バリトン)

冥界の女王エレシュキガル   杉澤陽子(能楽師シテ方)

冥界の女王エレシュキガルの声 安田登(能楽師ワキ方)

大臣ニンシュブル       Junko☆(実験道場ダンサー)

冥界の門番ネティ       蛇澤多計彦(実験道場ダンサー)

大臣ニンシュブルおよび冥界の門番ネティの声ほか 玉川奈々福(浪曲師)

クルガラ           奥津健一郎(子方)

ガラトゥル          笹目美煕(子方)

冥界の裁判官         我妻良樹(実験道場ダンサー)

冥界の裁判官         城ノ脇隆太(実験道場ダンサー)

冥界の裁判官         蛇澤圭佑(実験道場ダンサー)

冥界の裁判官         平田雅大(実験道場ダンサー)

ほか、コロス出演

音楽     槻宅聡(能楽師笛方)、大川典良(能楽師太鼓方)ヲノサトル(音楽家・DJ

監修・翻訳          高井啓介(大学教員・シュメール語講師)

〜〜〜休憩〜〜〜

【未来編】約1時間

女神イナンナ         湯浅永麻(ダンサー)

冥界の女王エレシュキガル   杉澤陽子(能楽師シテ方)

語りほか 安田登(能楽師ワキ方) 奥津健太郎(能楽師狂言方) 玉川奈々福(浪曲師)

音楽   槻宅聡(能楽師笛方) 大川典良(能楽師太鼓方)

 

■日時 623日(金)1815分開場 19時開演

■場所 セルリアンタワー能楽堂(渋谷駅より徒歩5分)

■料金 正面席6,500円、脇正面席5,500円、中正面席4,500

(てんらい会員は1,000円引き 指定ご希望の方は1,000円にて承ります)

■予約 てんらい事務局 event@inana.tokyo.jp 080-5520-11339時〜20時)

 

2月後半から3月の対談など

2月後半から3月の対談(寺子屋を含む)などのお知らせをします。おのおのの詳細は後半に。

 ●2月27日(月)ペッパー君開発の最前線を担う蓮実一隆さんとの対談
「進化の途上にある人類 人とロボット・AIの共進化」
CPV地球大学(企画・司会;竹村真一)
@大手町パレスホテル隣のJXビル1F(3x3ラボ・サロン) 19時〜 無料

●3月1日(水)のう、じょぎ、ろう!第2回
@すみだトリフォニーホール 小ホール 19時〜 3,000円

●3月2日(木)寺子屋 映画『沈黙』を語る
若松英輔さんをお招きして
@東江寺 19時〜 お賽銭

●3月7日(火)『疲れない体をつくる「和」の身体作法』トークショー
@八重洲ブックセンター 19時〜 書籍を購入された方

*****************

2月27日(月)19時〜
ペッパー君開発の最前線を担う蓮実一隆さんとの対談

場所:大手門タワー・JXビル(皇居大手門前)1F「3×3Lab Future」
参加費:無料 お申し込みは以下のホームページから
「進化の途上にある人類−−−人とロボット・AIの共進化」CPV地球大学(企画・司会;竹村真一)
人工知能AIが人間の知性を超えるとされる「シンギュラリティ」(2045年)。それを待たずとも、AIやロボットはすでに急速にあらゆる産業や生活の場面に浸透し始めており、医療診断や法務などの高度な知的専門職も含めて人間の仕事を代替しようとしています。

このように、ともすれば「対立構造」(脅威)として捉えられがちなAI・ロボットですが、本当に大切なのはいかに人間と創造的な「共生関係」を構築しうるか?というパートナーシップのデザインではないでしょうか?

身のまわりの生活空間がユビキタスなAI環境となり、人間の人口よりも多くのロボットが棲息する近未来の世界。人間や動植物と(脅威や暴力とならずに)共生・共進化しうるAI・ロボットのあり方とは?そうした「共感力」を持ったパートナーの心とからだの設計思想とは?

ソフトバンクで“ペッパー君”開発の最前線を担う蓮実一隆氏と、能楽師として日本人の身体性、現代人の「心」と言葉のあり方を根源から追求する安田登氏をお迎えして、AI・ロボットと共進化する人類の未来を展望します。

3月1日(水)19時〜
のう、じょぎ、ろう!第2回

場所:すみだトリフォニーホール 小ホール  参加費3,000円
のう、じょぎ、ろう!第2回
曲目
能 『道成寺』語り ほか
女義太夫 『傾城阿波の鳴門』十郎兵衛住家の段
浪曲 「仙台の鬼夫婦」
出演者による座談会

出演
能:安田登[謡]、槻宅聡[笛]
女義太夫:竹本越孝[浄瑠璃]、鶴澤寛也[三味線]
浪曲:玉川奈々福[浪曲]、沢村豊子[曲師]

3月2日(木)寺子屋 映画『沈黙』を語る
若松英輔さんをお招きして
東江寺(広尾) 東京都渋谷区広尾5-1-21
受講料:お賽銭(お賽銭箱にご自由にお入れいただきます)
飛込歓迎ですが、お決まりの方は info@watowa.net へ。
いま上映中の映画『沈黙(遠藤周作原作)』について若松英輔さんにお話いただきます。いわゆる「映画評論」ではない、魂のお話がうかがえると思います。

●3月7日(火)『疲れない体をつくる「和」の身体作法』トークショー
場所:八重洲ブックセンター 19時〜 無料
お申し込みはこちらからお願いします→八重洲ブックセンター
「能」の動きは脳と体に効く!なぜ、能楽師は高齢でも現役でいられるのか? 600年前に完成された日本の伝統芸能「能」と、アメリカで開発された最新のボディワーク「ロルフィング」に見つけた共通性とは?
日本で数少ない米国Rolf Institute公認ロルファーの著者が、誰にもできる「和」の身体運用を、カンタンなエクササイズにしてご提案。
今回の講演会では、著者が体感した「能」の驚くべき魅力について、体の使い方を中心にお話しいただきます。
能に学ぶ「和」の身体運用のお話しとともに、その場でできる簡単なエクササイズもご紹介します。
※サインは会場でお買い上げの書籍に限らせていただきます。

能『羽衣』って実は不思議(4)

日本の女性にシンデレラ・コンプレックスなんてない、という前回の続きです。

▼いまの浦島と昔の浦島

日本のおとぎ話で、このことと関連があるのは「浦島太郎」です。

浦島太郎と処女喪失説話って全然関係なさそうですね。まあまあ。

一応、(いま僕たちが知っている)浦島太郎の物語をまとめておきますね。

(1)子どもたちにイジめられていた亀を浦島太郎が助ける
(2)その亀に連れられて龍宮城に行く
(3)そこにはごちそうをしてくれる乙姫様がいる
(4)舞踊りをする鯛やひらめもいる
(5)それらを見ているうちに月日の経つのも忘れる
(6)帰ろうとすると玉手箱を土産にもらう
(7)帰郷するとまったく違う世界になっていた
(8)心細さに玉手箱を開けると中から白い煙が出てきてお爺さんになってしまう

これが僕たちが知っている「浦島太郎」ですが、これは明治時代に巌谷小波(いわや・さざなみ)がまとめたバージョンで、昔のそれはこれとはいくつかの違いがあります。

「昔のそれ」といっても、本当はね、一概にこれ!ということはできないんです。浦島伝説を載せる書物は多く、古くは奈良時代の『風土記』『日本書紀』、さらには『万葉集』にも載っています。そして平安時代になると『続浦島子伝記』なるものが出現し、さらに中世になると『御伽草子』に載り、なんと狂言や能にもなっているのです。

でも、そこら辺を詳しく書いていくと話がどんどん離れていくので、大雑把に「昔のそれ」ということで許してください。

で、これらすべてに共通するのは上記の(6)と(7)くらいです。(6)だって玉手箱ではなく「玉匣(たまくしげ)」となっているものもあり、意味としては大体同じですが、それでもちょっと違います。

▼イケメン浦島

さて、いまの浦島太郎と昔の浦島太郎(ほんと、大雑把ですみません)との一番の大きな違いは、浦島が亀を助けていないということです。

いまの浦島太郎は、どちらかというと、いい人だけど、あまりモテない。「わたしたち、いいお友だちでいましょうね」、「はい(涙)」というイメージです。

でも、昔の浦島は、すごく男前なのです。イケメンです。たとえば『丹後国風土記』には次のようにあります。

姿容(かたち)秀美(うるは)しく、風流(みやび)なること類(たぐひ)なかりき。

で、彼を見初めたのが海神の娘である「亀姫」さま。

浦島が釣りをするためにひとりで海上に浮んでいるのを見つけた亀姫は、五色の亀となって彼に釣られてしまいます。浦島が不思議に思って亀を眺めていると、なぜか眠くなって彼は眠ってしまうのです。

ふと目を覚ました浦島はびっくり!狭い船の上に美女が乗っているではありませんか。そう。亀が亀姫になったのです。

で、その美女は浦島にいいます。

「一緒に蓬莱山に行きませんか」

龍宮城に行きましょう、なんて言ったら、絶対「ヤダ!」といわれる。だって「龍宮」って龍の宮殿。能『海人(あま)』の中では「八龍並(な)み居たり」と謡われますし、龍だけでなく「悪魚(恐ろしい魚群)」や「鰐の口(サメ)」もいる、そんな怖いところです。そりゃあ、イヤです。

ですから、亀姫さまの誘惑は「蓬莱山に行きましょ」です。不死が約束されているパラダイス、仙郷です。

「行きます!行きます!」と浦島がいえば、またもや、ほわーんと眠らされて、気がつけばそこは大きな島、蓬莱山。

と、まずはここまでを見直しておきましょう。

浦島太郎の物語で積極的なのは亀姫の方です。しかも、二度も相手を眠らせて(睡眠薬を使ったかどうかはわからないけど)、自分の思うようにしてしまう。逆ナン。ストーカーといってもいいかも知れない。

シンデレラや白雪姫とは全然違います。

▼ちょっとエッチな浦島

さて、亀姫と一緒に蓬莱山に行った浦島は、スバル童子や亀姫のお父さん・お母さんにご挨拶をして、ご馳走をいただきます。そこには亀姫だけでなく、キレイなおねえさんたちがたくさんいて、お酌をしてくれたり、お給仕をしてくれたり、舞を舞ってくれたりします。

ところが夜が更けるにつれ、ひとりいなくなり、ふたりいなくなり、とうとう亀姫と浦島だけになってしまうのです。

アヤシイでしょ。

そう。そして、ご想像の通り、コトが始まるのです。

「肩を双べ、袖を接(つら)ね、夫婦之理を成しき」と書かれます。「夫婦之理」は「みとのまぐはひ」と訓じられ、イザナギとイザナミの性行為が、やはりこういわれます。

「あれ、鯛やひらめは?」

そんな細かいことは気にしなくてもいいの!

…なんてことはいいません。実は、これ大事なのです。

平安時代の『続浦島子伝記』によると、ふたりの夜のコトは次のように書かれています。
玉體を撫で纖腰を動かし、燕婉を述べ綢繆を盡くす。魚比目の興、鸞同心の遊。舒卷の形、偃伏の勢(撫玉體、動纖腰、述燕婉、盡綢繆。魚比目之興、鸞同心之遊。舒卷之形、偃伏之勢)。

ここに「魚比目」という語が出てくることに注意しましょう。これがおそらく「鯛やひらめ」の元ですね。で、これは何かというと、実は『医心房』という本に出てくる「体位」なのです。

どんな体位かというのは、良い子が読む可能性もあるので略しますが、「すべすべの体を撫で回し、細い腰を動かし、さまざまな睦言をいいながら手足をからませ(玉體を撫で纖腰を動かし、燕婉を述べ綢繆を盡くし)」、以下、「魚比目」ほかのさまざまな体位でいたしました…という文です。

こんな風に、現代の浦島と全然違う昔の浦島ですが、ラストシーンもちょっと違うのですが、今回はそこは省略します。

▼処女性はどうでもいい

さて…というわけで『古事記』のヒーローの相手の女性たちだけでなく、乙姫さまならぬ亀姫さまもシンデレラ・コンプレックスに無縁どころか、自分から男をゲットしに行くという積極性を見せるのです。

「あれ、処女性の話はどこに行ったの?」

あ、話がどんどん離れていってしまいました(寺子屋もよくこうなります)が、僕は古代の日本においては「処女性」ってどうでもよかったんじゃないかなと思うので、もう処女性の話なんかもどうでもいいと思っているのですが、そうもいかねいので一応書きますね。

たとえば処女を示すと思われる古代語に「未通女(をとめ)」という語があります。「未通」だなんて、まさに処女そのものの言葉ですね。

でも、注意したいのは和語(日本語)の「をとめ」は「若い女性」という意味で、これには「未通」か「既通」かなんて区別はありません(ちなみに、何歳までが若いなんていうのもない)。

で、これに漢字を当てたのが「未通女」なのですが、でもこの語は『古事記』にも『日本書紀』にも現れない、『万葉集』独特の用字なのです。

『万葉集』で「未通女」として使われるときは、神に仕える女性であることが多く、だから神に仕える女性は処女でなければいけなかったんだという説もあるのですが、しかし高橋蟲麻呂家集で「未通女」は次ような使われ方もされています。

鷲の住む 筑波の山の 裳羽服津(もはきつ)の その津の上に、率(あども)ひて 未通女(をとめ)壮士(をとこ)の 徃き集ひ かがふ嬥歌(かがひ)に 他妻(ひとづま)に 吾も交はらむ 吾が妻に 他(ひと)も言(こと)問へ…

鷲住、筑波乃山之、裳羽服津乃、其津乃上尓、率而、未通女壮士之、徃集、加賀布嬥歌尓、他妻尓、吾毛交牟、吾妻尓、他毛言問…


これは嬥歌(かがひ)、すなわち歌垣の歌です。男女が筑波山に登って、歌を歌いかけ、やがて男女の交歓となる。

「未通女(をとめ)壮士(をとこ)の徃き集ひ」と書いてあるので、参加条件は「処女」と「童貞」だけかと思いきや、「俺も人妻と交わるぞ(他妻に吾も交はらむ)。俺の妻に他人も言い寄れ(吾が妻に他も言問へ)」と言っていることから、人妻も人夫(「にんぷ」じゃないよ:ひとおっと)も参加していた。

参加者はいわゆる「処女」「童貞」だけではなかった。

となると「未通女」というのは、ただ「若い女」を意味していたようで(繰り返しますが年齢制限もない)、処女かどうかなどはどうでもよかったのではないかと思うのです。

ちなみに『古事記』の中で、ニニギ命が新婚の木花咲耶(コノハナサクヤ)姫がすぐに妊娠したので「まさかお前」と疑うのですが、それもその子が自分の子かどうかを疑ったのであり、彼女が処女だったかどうかではありませんでした。

…まだまだ続く 

能『羽衣』って実は不思議(3)シンデレラと天女

能『羽衣』についての続きです。

▼能『羽衣』は「白鳥処女説話」としても異例

前に能『羽衣』は「白鳥処女説話」の類型だ、という ことを書きました。

「白鳥処女説話」というのは…

(1)処女となって地上に降りた白鳥が、

(2)その衣を人間の男に取られてしまう

…という説話で、その白鳥は聖なる存在であることが多く、そういう意味では能『羽衣』は、確かに「白鳥処女伝説」のひとつの類型だということができます。

ただ、「白鳥処女説話」には、もうひとつ大きな特徴があります。それは…

(3)乙女と化した白鳥は男と結婚をする

…というものです。

白鳥は処女であることの象徴であり、男と結婚することによって「処女」性を捨てて「母」になるのです。

で、これは能『羽衣』以外の日本各地に残る「羽衣伝説」もみなそうで、結婚もせずに(すなわち処女性を奪わず)衣を返して別れてしまうというのは、「白鳥処女説話」としても、「羽衣伝説」としてもかなり異例なのです。 

▼処女喪失説話

これは、そのような羽衣伝説があったというよりも、能の作者がそのように変えたと見られています。

「白鳥処女説話」の特徴である乙女の処女性喪失というのは、「白鳥処女説話」に限る話ではなく、『シンデレラ』だって、『白雪姫』だって、『眠れる森の美女』だって、『ラプンツェル』だって、みんな王子様がやって来て結婚をするのですから、ある意味、これらをまとめて「処女性喪失説話」ということができます。

余談ですが、処女喪失という点から見ると『ラプンツェル』は、『シンデレラ』や『白雪姫』や『眠れる森の美女』とはちょっと違うところがあります。

『ラプンツェル』以外の物語では(諸本による異同はありますが)、結婚式や披露宴で終わることが多いのですが(すなわち処女喪失が暗示されて終わる)、『ラプンツェル』だけは王子様が塔に上った日にすでにセックスはすませているのです。

しかも「喜びと性的悦楽(joy and pleasure)」のうちにです(本当はドイツ語ですが英訳です)。

ちなみに、この表現は後代の訳本では、もっとやんわりした表現になっています。両訳を対照させたHPです。

http://www.pitt.edu/~dash/grimm012a.html

▼日本の女性は強い!

話を戻しますね。

さて、こうやっていろいろな童話のタイトルを並べてみると、「あれ?」と思うことがあります。

日本の昔話、たとえば「かぐや姫(『竹取物語』)」はどうなんだっけ?

そうなんです。かぐや姫は、天皇をはじめ多くの貴公子に求婚はされますが、最終的には誰のものにもならない。すなわち処女のまま月の世界に旅立ってしまいます。

かぐや姫も、天の羽衣の天人も男のものにはならない。

「だからナンなんだ」といわれればそれまでですが、これって面白いと思うのです。

西洋の童話の中の女性には、処女性と引き換えに男性(王子様)に助けてもらうというパターンがあるようですが、しかしそれは童話の中にとどまらず、「いつか私の王子様(Someday my prince will come)」の「シンデレラ・コンプレックス」として現実の中にもあるようです。

それに対して日本の物語はどうか…ということで日本"神話"英雄譚を見てみると…

あ、神話に「” ”」をつけたのは、厳密な意味では日本には神話というものがないからです。この話をしていくと長くなるので”神話”としてスルーさせてください。

さて、そんなわけで日本の古代の物語の例として日本”神話”を見てみようと思います。

日本”神話”で英雄といわれている人は主に次の3人です(このほかにもいますが典型的な3人を。神武天皇についてもちょっと…)。

  • スサノオ命
  • 大国主命
  • ヤマトタケル命

この3人の事跡の中で、西洋風の童話に近いのは、スサノオヤマタノオロチを退治する見返りとして、クシナダ姫をゲットするエピソードです。

しかし、これだって泣いているのは国つ神の両親だし、クシナダ姫は「私を助けて」なんて一度も言ってない。いやいや、両親だって、スサノオが「娘をくれ」といったときに、最初は「お前、だれや」なんて言ってる。

大国主命やヤマトタケル命に至っては、女性は彼らに助けられる存在ではなく、むしろ彼らを「助ける存在」としての女性として登場します。スサノオのお姉さんの天照大神なんて、日本の最高神の一柱だし、男装して戦ったりして、そりゃあ強い。

強い人に守ってもらいたい、救い出してもらいたいなんていう西洋の童話に登場する「シンデレラ・コンプレックス」丸出しの女性は、古代の日本の女性像ではないのです。

※この話、続きます

▼天籟能、いよいよ近づいて来ました。

8月7日(日)です。

お待ちしておりま〜す!今回は会場が広いので、お席もありますし、当日券もあります。詳細はこちらで〜。

http://watowa.blog.jp/archives/51460046.html  

能『羽衣』って実は不思議(2)怪しいワキ

能『羽衣』の不思議、第二弾です。

▼幻覚漁師、伯龍

前回の最後に、漁師「伯龍(はくりょう)」の名前について書きました。

「伯龍」というのは、龍を飼う一族の名前ではないか…と。

で、その最後にこんなことを書きました。
考えてみたら、ほかの漁師たちには見つけられなかった(というより、おそらくは見えもしなかった)羽衣を見つけることができたり、大口というすごい装束を着たり(今回は着流しでするかも)、このワキのただもの感はハンパないのです。  

そう、能『羽衣』の最重要アイテムである「天の羽衣」は、ほかの漁師には見えず、この漁師だけに見えたのです。

さらにその登場の際に漁師はこんな不思議なことを言っています。

我、三保の松原にあがり、四方(よも)の景色を眺むるところに
虚空に花降り
音楽聞こえ
霊香(れいきょう=霊妙なる香り)四方に薫ず 
三保の松原に出てみたところ、空中から花が降ってきて、しかも音楽も聞こえ、さらには妙なる香りも四方に漂ったとあるのです。

それを不思議に思った伯龍(はくりょう:漁師)がふと松を見ると、そこには衣がかかっていて、それが天の羽衣だったのですが、この衣を伯龍以外が見つかられなかったということは、ほかの漁師には、空中から降り下る花も、虚空から聞こえる音楽も、そして四方に薫ずる霊妙な香りも感じなかったに違いないのです。

まあ考えてみれば、「空中からの花吹雪」やら「虚空からの音楽」やら「霊妙な香り」やらを見たり、聞いたり、嗅いだりする方が変かも知れません。

現代だったら、これらはすべて幻視、幻聴、そして幻嗅として片付けられてしまうでしょう。しかし、これらを感じることができる、それが漁師、伯龍のすごいところであり、そしてそれこそ能の目指すところでもあるのです。

▼もうひとつの「目」

1969年にチャールズ・タートが『Altered state of consciousness』という本を出しました(和訳は出なかった)。日本語に訳せば『変性意識状態』。

『変性意識状態』というと、いわゆるトランス状態をいうことが多いのですが、しかしタートの本を読むと、そういうアブない話だけでなく、いま自分たちが思い込んでいる「意識」や「感覚」以外にもさまざまな、可能性としての「意識」や「感覚」があるんだなぁと思ったりします(もちろん危ない話も出てきますが:笑)。

たとえば、僕たちは何かを「見る」ときには角膜とか水晶体とか網膜とか、そういう器官を使います。ざっくりいえば「目」を使ってみます。

でも、夢を見るときに「目」という器官を使って見る人はいません。でも、ちゃんと見ている。

…となると「目」以外で「見る」ということも可能だということになります。

同じように「聞く」も「嗅ぐ」も、そして「触れる」もです。

僕の見た「夢」の話が本当かどうかは、他の人には絶対にわからないように(そして他の人には、それが本当かどうかの証明ができなくても、それでもやはり自分にとっては本当であるように)、漁師、伯龍にしか見えなかった「空中からの花」や「天の羽衣」、伯龍にしか聞こえなかった「虚空の音楽」、伯龍しか嗅ぐことができなかった「霊妙な香り」も「実在」であり、かつほかの漁師にとっては「非在」でもあるのです。

…となると「実在」と「非在」の違いって何なのでしょう。

▼ポケモンGOと能

能を大成した世阿弥は、天照大神が天の岩戸に隠れてしまった状態を「言語を絶して、心行所滅」と表現しました。

「言語を絶して、心行所滅」とは、あらゆる感覚や差異がなくなって、心の働きも、身体的な運動もすべてが滅した状態です。岩戸の闇は、視覚的な闇であることに留まらず、あらゆる感覚・思考・感情など、すべてが滅する完全な闇なのです。

ジョン・C・リリーの感覚遮断実験を思い出す人もいるでしょう。そういえば、『アルタード・ステイツ』という不思議な映画もありました。

そんな状態では、「実在」と「非在」の違いはない。

デカルトは「我思う、ゆえに我あり」と言いましたが、「心」も滅しているわけですから「思い」もなくなる。だから「我」もない。

おお…。

でも、逆にいえば、そこは何でも出現し得る世界。何でもあり得る世界。そこにないものも出現し得る世界でもあるのです(アメノウヅメ命の舞とか)。

それは「現実」のちょっと横にある、もうひとつの次元の世界なのかも知れません。そこに伯龍はふと迷い込んでしまった(芭蕉の旅もそうです)。

そうそう、「ポケモンGO」が流行り始めましたね。あの地図を見ていると、いま自分がいるところでありながら、まったく違う世界にいるように錯覚をしてしまいます。さらにそこにポケモンが出て来る。

あのようなものを「AR(拡張現実)」といいます。ARのAは「拡張された(augumented)」のAですが、それこそ「別の可能性(alternative)」のAかも知れないな〜、なんて思います。可能性体としての、もうひとつの世界です。

▼「脳内AR」

…と話がちょっと飛んでしまいましが、僕はこの「幻覚を見る」というのは伯龍の役割だけでなく、「能を観る」ということはそういうことなのではないかと思うのです。

野上豊一郎は「ワキは観客の代表だ」と言いましたが、観客も代表であるワキとともに幻覚を楽しむのが能ではないかと思っています。

能の舞台の上に、世界を再現するような大道具を設置しないことも、照明を使わないことも、効果音を使わないことも、すべて観客の幻覚を期待している。

ワキとともに花を見、音楽を聞き、香りを聞く。三保の松原の波の音を聞き、天に昇る天女を幻視する。それが能の楽しみ方なのです。実際にそのように楽しまれている方もいらっしゃるようです。

「え〜、そんなのできるわけないじゃん」という方。

実は"日本人"(←括弧付)は、この幻視がとても得意な人たちなのです。

子どもの頃、そろばん教室で暗算をした人は思い出してください。読み上げられる数字を、空中のそろばんに足していき、そして最後はその空中のそろばんを見て答えを言ったではありませんか。

お寺でワークショップをしたときに「障子の桟があると、そろばんのようでやりやすいです」とある小学生が言っていました。

障子の桟という「現実」の上に、そろばんの珠という「幻」を重ねる。まさに「AR」です。

ぜひ、みなさまもシンプルな能舞台という「現実」の上に、漁師とともに三保の松原の景色や松籟という「幻」を楽しみ、あるいは中天高く上っていく天女とともに空中遊覧すらをも楽しむ、そんな能の楽しみ方ができるようになってください。

「脳内AR」、それこそ能の楽しみ方です! 

▼天籟能、いよいよ近づいて来ました。

8月7日(日)です。

お待ちしておりま〜す!今回は会場が広いので、お席もありますし、当日券もあります。詳細はこちらで〜。

http://watowa.blog.jp/archives/51460046.html 

能『羽衣』影絵ストーリー

能『羽衣』の物語です。
 
ワキ持ち帰る02
ある春の朝、三保の松原の漁師、「伯龍(はくりょう)」が浜に出ると、空からは花が降り、音楽が聞こえ、妙なる香りが四方に漂っていた。不思議に思った伯龍が松を見ると美しい衣がかかっていた。「家宝にしよう」と伯龍は、その衣を取って帰ろうとする。
 
シテ呼びかけ
…とそこに呼びかける美女が。「その衣は天人の羽衣。人に与えるものではない」という天女に、「それならなおさら返せない。これは国の宝にしよう」という伯龍。

掛け合い02
「その衣がないと空を飛ぶこともできず、天に帰ることもできない」と嘆く天女。「なら地上に住めばいいじゃないか」という伯龍。そのやり取りの中で、天人の頭の華がしおれはじめ、天人自身も忽然と衰えていくのです。
 
衣を返す03
その嘆きを見て、かわいそうに思った漁師は衣を返すことにするが、その代わりに「天人の舞楽」を舞ってくれと頼む。「衣がなくては舞えない」という天女に、漁師は「衣を返したら舞わずに天に帰ってしまうのではないか」と疑う。すると天女は「いや疑いは人間にあり。天に偽りなきものを」という。我が身を恥じた漁師は、衣を返す。

シテ装束を着る青空
衣を身にまとった天人は、この三保の松原や富士の景色は月の都にも劣らないと謡いつつ舞い、東遊びの駿河舞を授ける。

七宝充満02
そして、報恩の舞を舞ったあと、「あらゆる願いが叶い、そして国土も豊かになるように」と、七宝充満の宝を降らしつつ、月の都に昇って行った。

※『羽衣』と『真田』が上演される8月7日(日)の「天籟(てんらい)」能の会。お待ちしております。

天籟能の会のおしらせ→http://watowa.blog.jp/archives/51460046.html  

能『羽衣』って実は不思議(1)


シテ装束を着る青空能『羽衣』は、能の中の能といわれている名作です。

「もし、この世の中に一曲だけ能を残すとしたらどれにするか」というアンケートを、能の雑誌で取ったことがあったのですが、その時も堂々の一位!

そのくらいの名曲です。

ところが、この『羽衣』、なかなか不思議なことがいっぱいあるのです。それをこれからお話してみたいと思うのですが、まずは物語を簡単に紹介しておきましょう(ご存知の方は飛ばしてください)。

ある春の朝、漁師「伯龍(はくりょう)」が浜に出ると美しい衣が松にかかっていた。取って帰ろうとすると天女に呼び止められ、「それは天人の羽衣、人間に与えるべきものではない」といわれる。

漁師が「天人の羽衣ならば、なおさら返すことはできない」というと、天女はみるみる衰え始める。かわいそうに思った漁師は衣を返すことにするが、その代わりに「天人の舞楽」を舞ってくれと頼む。衣がなくては舞えないという天女に、漁師は「衣を返したら舞わずに天に帰ってしまうのではないか」と疑う。

すると天女は「いや疑いは人間にあり。天に偽りなきものを」という。我が身を恥じた漁師が衣を返せば、天女は約束の舞を舞いつつ天上に帰っていく。

▼白鳥処女説話
 
人気の理由は、まずはその舞姿が美しいことでしょう。さすが天人の舞です。今回の天籟能でシテ(天人)をお勤めいただく梅若万三郎先生は、本当に美しいので、お楽しみに。

そして、そのテーマが普遍的だということも人気の理由のひとつです。

能『羽衣』は駿河国(静岡県)の三保の松原でのお話ですが、羽衣伝説は三保の松原だけでなく、『風土記』をはじめとして、さまざまな伝説が日本各地に残っています。ただ、多くの羽衣伝説では、天女は男と結婚をして、後年、どこかに行ってしまうのですが…。

また、「白鳥処女説話」という物語類型があります。白鳥が処女(おとめ)に化して地上に降り立ち、人間の男と結婚をするというものです。これって羽衣伝説に似ているでしょ。

そうなると羽衣伝説は「白鳥処女説話」として世界的に普遍な物語と見ることもできるのです(古い話ですがザ・タイガースの『花の首飾り』もこの類型ですし、『白鳥の湖』もこの類型の変形ですね)。

羽衣のお話は、日本だけでなく世界にも通用する普遍的な話なのです。 

▼天(あま)の羽衣とかぐや姫

この作品における最重要アイテムはなんといっても「天(あま)の羽衣」です。

松にかかっていた天の羽衣を、漁師(伯龍)が取ってしまうのですが、このアイテムがなかなか怪しい。

能の中では、羽衣は空を飛ぶためのツールとして紹介されています(「羽衣なくては飛行(ひぎょう)の道も絶え」)が、そんな単純なものではありません。

天の羽衣が日本の文学に最初に登場するのは『竹取物語』、かぐや姫のお話です。

まずは原文を紹介しますが、古文を読むのが苦手な方は無視してかまいません。

天人の中に持たせたる箱あり。天の羽衣入れり。またあるは不死の薬入れり。

ひとりの天人言ふ、「壺(つぼ)なる御薬奉れ。きたなき所のもの聞こし召したれば、御心地悪しからむものぞ」とて持て寄りたれば、わづかなめたまひて、少し形見とて脱ぎおく衣(きぬ)に包まむとすれば、ある天人包ませず、御衣(みぞ)を取りいでて着せむとす。その時に、かぐや姫「しばし待て」と言ふ。

「衣着せつる人は、心異になるなりといふ。もの一こと言ひおくべきことありけり」と言ひて、文(ふみ)書く。
『竹取物語』より

かぐや姫を迎えに来た月の使者が「天人」と呼ばれていることに、まずは注目してみましょう。

…となると、能『羽衣』の天人も、月の使者かも知れません。 

で、その天人が持っている箱の中天の羽衣が入っています(もうひとつは「不死の薬」。こちらも気になるけど今回はパス)。

使者は、かぐや姫に天の羽衣を着せようとしますが、かぐや姫は「しばし待て(ちょっと待って)」という。なぜならば、「羽衣を着てしまった人は、<心異(こころこと)>になってしまうから」というのです。「だから、その前にひとこと言いおくことがあります」と手紙を書きます。

となると「<心異(こころこと)>になる」ということは、今までのことを全て忘れてしまうということになります。「天の羽衣=忘却の衣」、すごいですね。実際にはどんな状態になってしまうのでしょう。

ということで、『竹取物語』の続きも見てみましょう。

ふと天の羽衣うち着せ奉りつれば、翁をいとほしく、かなしとおぼしつることも失せぬ。この衣着つる人は、もの思ひなくなりにければ、車に乗りて、百人ばかり天人具して上りぬ。
おお!天の羽衣を着た人は、すべてを忘れるだけでなく、「もの思ひ」そのものがなくなってしまうようです。

あんなに大切に育ててくれたおじいさんが嘆き悲しむのを見ても「いとおしい」という気持ちも「お気の毒」という気持ちも、きれいさっぱり消滅してしまう。そんな力を持つのが天の羽衣のようです。

<心異(こころこと)>になる」というのは、人間的な心がなくなってしまうことなのです。

「ひどい!」

なんて思わないでください。かぐや姫も、そして天人も、もともと人間ではない。だから人間的な心など、最初からないのです。

…というか、「心」というのは生得的なものではなく、どうも後天的に身に着けるもののようです。だから「心」がないからといって、かぐや姫や『羽衣』の天人を責めないでね。

余談ですが、漢字の「心」が生まれるのは最初の漢字の発生から300年も経ってからのこと。シュメール語にも純粋な意味での「心」に当たる言葉はありません。また、ヘレン・ケラーの自伝には、文字を知るまでの彼女には「悲しみ」という感情がなかったということが書かれています。

心がなければ悲しみもない。後悔もない。同情もない。

そして疑いも偽りもない。

だからこそ能『羽衣』の中で、「衣を返したら舞わずに天に帰ってしうまんじゃないの」と疑う漁師に対して、天人は
「いや、疑いは人間にあり。天に偽りなきものを」
…というのです。天女は、漁師の疑いが全然理解できなかった。「え、それ何?」って感じだったのです。

これは『鶴の恩返し』の中で、お金の話をされたときに、つうが「あなたの言っていることが聞こえない」というのに似ています。

そういえば、『かぐや姫』も『鶴の恩返し』も「白鳥処女説話」の類型ですね。

▼大嘗祭の天の羽衣
 
天の羽衣といえば、もうひとつ思い出すのは大嘗祭(だいじょうさい)において天皇陛下の着する「天の羽衣」。

天皇が即位した最初の新嘗祭である大嘗祭は、前の天皇の「天皇霊」を新しい天皇に移し奉る実質的な践祚(せんそ)の儀礼ともいわれています。

大嘗祭のメインの儀礼は「嘗殿の儀」と呼ばれますが、その前の「湯殿の儀(沐浴)」で天皇が着する衣が「天の羽衣」なのです。

折口信夫は、天の羽衣は、天皇が霊力を溜めて身に留めるために着用するといいますが、天の羽衣の基本機能である「過去を忘れる」ということを考えれば、人間(皇太子)としての過去を忘却する、すなわち一度まっさらな状態になって天皇霊を身に着けて天皇となるための衣だと見ることもできます。

忘却の衣である天の羽衣を身につけ、湯殿に入ることによって、すべてを水に流してリセットする。

天の羽衣、なかなかすごい。

▼月にもインドにも

天の羽衣は、能『富士山』の詞章にも出てきます。

能『富士山』でも、かぐや姫の話が語られ、かぐや姫は不死の薬を天皇に与え、自身は天の羽衣を召して神になったと謡われます。その後、帝はかぐや姫の教えにしたがって、富士の山頂で不死の薬を焼くと、煙は空いっぱいに立ち上り、雲や霞が逆風を受けて香ばしく薫り、日や月や星もまるで光が変わったとあります。

そして、富士山はなんと天竺(インド)から飛んで来た山だ、というびっくりするように新説までもが語られ、富士はそのまま天竺という秘義が明かされるのです。

富士山は、月への中継基地でもあり、天竺への中継基地でもある。

そして、富士山から月や天竺にワープするには「天の羽衣」が必須なのです。

▼ワキ、伯龍の不思議

さて、能『羽衣』のワキについてもひとこと…。

このワキには名があります。

…って、「当たり前じゃん」と思う方もいらっしゃるでしょうが、能のワキは「無名(anonymous)」であることが多く、しかもこのワキは漁師、そんなワキが名を持つというのは異例も異例、異例中の異例、大異例なのです。

しかも、その名前がすごい。

はくりょう」といいます。漢字の表記には二種類あります。

観世流では「白龍」と表記し、当流(下掛宝生流)では「伯龍」と書きます。両方とも「龍」がつく。漁師なのに…。

観世流の「白龍」は、宮崎アニメに出てきそうで、それはそれで素敵なのですが、当流の表記「伯龍」となると、さらにいろいろと妄想が膨らみます。

「伯」という漢字は、現代では「伯父さん」というときくらいにしか使いませんが、もともとは「ボス(首長)」を意味する漢字です。なぜ「伯」がボスを意味するのか。ワキの話からはちょっとそれますが、それについてお話をしておきましょう。

紀元前には、まだ「伯」という漢字はなく、「白」がその意味を表しました(ですから本当は「白龍」でも「伯龍」でも同じなのです)。

「白」は、「しろ」ですね。なぜ「しろ」がボスを意味するのか。これも2説あります。

この2説を紹介する前に紀元前1,000年くらいの「白」の文字を紹介しておきましょう。こんな形です。

白



さて、この形を踏まえて…

1つ目は、これは親指の「爪」の形だという説です。親指の爪を見てみてください。ね、こんな形してるでしょ。で、「ボス!」っていうときに親指を出したりします。親指の形がボスをあらわすようになったというのが第1説。

2つ目の説は、いやいや、そんなかわいいものじゃない。これは人の頭蓋骨だという説です。首長たちの首を頭蓋骨として保存したり、あるいは敵のボスの首も白骨にしたといいます。

ちなみに、その頭蓋骨を木の上に乗せて打つという形が「樂(楽)」、音楽のことです。古代中国における音楽というのは、先祖や敵の英雄の頭蓋骨に皮を張って打ち、その霊を招くためのものだったようです。

これが「楽」の古い漢字です。

楽



▼龍を飼う人

話が横道に逸れたので戻します。

まずは「白(伯)」はボスという意味でした。

では、「伯龍」は龍の中のボスかというと、彼は龍ではなく漁師なので、それはちょっと違います。

ここで思い出したいのが「伯楽」という言葉です。

人を育てることを上手な人を「名伯楽」といったりします。「伯楽」というのは馬使い、馬を育てる人です。

…となると「伯龍」は「龍使い」、龍を育てる人という意味になるでしょう。

「え〜、龍なんて、ただの想像上の動物なんじゃないの」

いえ、いえ。古代中国には龍使いはいました。たとえば漢帝国を創った劉邦(りゅうほう)の祖先である劉累(りゅうるい)は、自分が飼っていた龍の肉を食べたということで罰せられています。

唐の韓愈が『雑説』の中で次のような文を書いています。

「まず、この世の中に伯楽がいて、それから千里を走るような名馬が生まれる。千里の馬というのはどこにでもいるが、伯楽はそうそういない(世に伯樂あり、然る後千里の馬あり。千里の馬は常にあれども、伯樂は常にはあらず)」

伯楽ですらそんな貴重な存在だったのですから、伯龍(龍使い)=ワキなんてすごすぎきます。

考えてみたら、ほかの漁師たちには見つけられなかった(というより、おそらくは見えもしなかった)羽衣を見つけることができたり、大口というすごい装束を着たり(今回は着流しでするかも)、このワキのただもの感はハンパないのです。

※余談ですが、「伯」というのは「覇」にも通じます。伯王は覇王でもあるのです。

(続く…かも)

※『羽衣』と『真田』が上演される8月7日(日)の「天籟(てんらい)」能の会。お待ちしております。

天籟能の会のおしらせ→http://watowa.blog.jp/archives/51460046.html 
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