2月後半から3月の対談など

2月後半から3月の対談(寺子屋を含む)などのお知らせをします。おのおのの詳細は後半に。

 ●2月27日(月)ペッパー君開発の最前線を担う蓮実一隆さんとの対談
「進化の途上にある人類 人とロボット・AIの共進化」
CPV地球大学(企画・司会;竹村真一)
@大手町パレスホテル隣のJXビル1F(3x3ラボ・サロン) 19時〜 無料

●3月1日(水)のう、じょぎ、ろう!第2回
@すみだトリフォニーホール 小ホール 19時〜 3,000円

●3月2日(木)寺子屋 映画『沈黙』を語る
若松英輔さんをお招きして
@東江寺 19時〜 お賽銭

●3月7日(火)『疲れない体をつくる「和」の身体作法』トークショー
@八重洲ブックセンター 19時〜 書籍を購入された方

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2月27日(月)19時〜
ペッパー君開発の最前線を担う蓮実一隆さんとの対談

場所:大手門タワー・JXビル(皇居大手門前)1F「3×3Lab Future」
参加費:無料 お申し込みは以下のホームページから
「進化の途上にある人類−−−人とロボット・AIの共進化」CPV地球大学(企画・司会;竹村真一)
人工知能AIが人間の知性を超えるとされる「シンギュラリティ」(2045年)。それを待たずとも、AIやロボットはすでに急速にあらゆる産業や生活の場面に浸透し始めており、医療診断や法務などの高度な知的専門職も含めて人間の仕事を代替しようとしています。

このように、ともすれば「対立構造」(脅威)として捉えられがちなAI・ロボットですが、本当に大切なのはいかに人間と創造的な「共生関係」を構築しうるか?というパートナーシップのデザインではないでしょうか?

身のまわりの生活空間がユビキタスなAI環境となり、人間の人口よりも多くのロボットが棲息する近未来の世界。人間や動植物と(脅威や暴力とならずに)共生・共進化しうるAI・ロボットのあり方とは?そうした「共感力」を持ったパートナーの心とからだの設計思想とは?

ソフトバンクで“ペッパー君”開発の最前線を担う蓮実一隆氏と、能楽師として日本人の身体性、現代人の「心」と言葉のあり方を根源から追求する安田登氏をお迎えして、AI・ロボットと共進化する人類の未来を展望します。

3月1日(水)19時〜
のう、じょぎ、ろう!第2回

場所:すみだトリフォニーホール 小ホール  参加費3,000円
のう、じょぎ、ろう!第2回
曲目
能 『道成寺』語り ほか
女義太夫 『傾城阿波の鳴門』十郎兵衛住家の段
浪曲 「仙台の鬼夫婦」
出演者による座談会

出演
能:安田登[謡]、槻宅聡[笛]
女義太夫:竹本越孝[浄瑠璃]、鶴澤寛也[三味線]
浪曲:玉川奈々福[浪曲]、沢村豊子[曲師]

3月2日(木)寺子屋 映画『沈黙』を語る
若松英輔さんをお招きして
東江寺(広尾) 東京都渋谷区広尾5-1-21
受講料:お賽銭(お賽銭箱にご自由にお入れいただきます)
飛込歓迎ですが、お決まりの方は info@watowa.net へ。
いま上映中の映画『沈黙(遠藤周作原作)』について若松英輔さんにお話いただきます。いわゆる「映画評論」ではない、魂のお話がうかがえると思います。

●3月7日(火)『疲れない体をつくる「和」の身体作法』トークショー
場所:八重洲ブックセンター 19時〜 無料
お申し込みはこちらからお願いします→八重洲ブックセンター
「能」の動きは脳と体に効く!なぜ、能楽師は高齢でも現役でいられるのか? 600年前に完成された日本の伝統芸能「能」と、アメリカで開発された最新のボディワーク「ロルフィング」に見つけた共通性とは?
日本で数少ない米国Rolf Institute公認ロルファーの著者が、誰にもできる「和」の身体運用を、カンタンなエクササイズにしてご提案。
今回の講演会では、著者が体感した「能」の驚くべき魅力について、体の使い方を中心にお話しいただきます。
能に学ぶ「和」の身体運用のお話しとともに、その場でできる簡単なエクササイズもご紹介します。
※サインは会場でお買い上げの書籍に限らせていただきます。

能『羽衣』って実は不思議(4)

日本の女性にシンデレラ・コンプレックスなんてない、という前回の続きです。

▼いまの浦島と昔の浦島

日本のおとぎ話で、このことと関連があるのは「浦島太郎」です。

浦島太郎と処女喪失説話って全然関係なさそうですね。まあまあ。

一応、(いま僕たちが知っている)浦島太郎の物語をまとめておきますね。

(1)子どもたちにイジめられていた亀を浦島太郎が助ける
(2)その亀に連れられて龍宮城に行く
(3)そこにはごちそうをしてくれる乙姫様がいる
(4)舞踊りをする鯛やひらめもいる
(5)それらを見ているうちに月日の経つのも忘れる
(6)帰ろうとすると玉手箱を土産にもらう
(7)帰郷するとまったく違う世界になっていた
(8)心細さに玉手箱を開けると中から白い煙が出てきてお爺さんになってしまう

これが僕たちが知っている「浦島太郎」ですが、これは明治時代に巌谷小波(いわや・さざなみ)がまとめたバージョンで、昔のそれはこれとはいくつかの違いがあります。

「昔のそれ」といっても、本当はね、一概にこれ!ということはできないんです。浦島伝説を載せる書物は多く、古くは奈良時代の『風土記』『日本書紀』、さらには『万葉集』にも載っています。そして平安時代になると『続浦島子伝記』なるものが出現し、さらに中世になると『御伽草子』に載り、なんと狂言や能にもなっているのです。

でも、そこら辺を詳しく書いていくと話がどんどん離れていくので、大雑把に「昔のそれ」ということで許してください。

で、これらすべてに共通するのは上記の(6)と(7)くらいです。(6)だって玉手箱ではなく「玉匣(たまくしげ)」となっているものもあり、意味としては大体同じですが、それでもちょっと違います。

▼イケメン浦島

さて、いまの浦島太郎と昔の浦島太郎(ほんと、大雑把ですみません)との一番の大きな違いは、浦島が亀を助けていないということです。

いまの浦島太郎は、どちらかというと、いい人だけど、あまりモテない。「わたしたち、いいお友だちでいましょうね」、「はい(涙)」というイメージです。

でも、昔の浦島は、すごく男前なのです。イケメンです。たとえば『丹後国風土記』には次のようにあります。

姿容(かたち)秀美(うるは)しく、風流(みやび)なること類(たぐひ)なかりき。

で、彼を見初めたのが海神の娘である「亀姫」さま。

浦島が釣りをするためにひとりで海上に浮んでいるのを見つけた亀姫は、五色の亀となって彼に釣られてしまいます。浦島が不思議に思って亀を眺めていると、なぜか眠くなって彼は眠ってしまうのです。

ふと目を覚ました浦島はびっくり!狭い船の上に美女が乗っているではありませんか。そう。亀が亀姫になったのです。

で、その美女は浦島にいいます。

「一緒に蓬莱山に行きませんか」

龍宮城に行きましょう、なんて言ったら、絶対「ヤダ!」といわれる。だって「龍宮」って龍の宮殿。能『海人(あま)』の中では「八龍並(な)み居たり」と謡われますし、龍だけでなく「悪魚(恐ろしい魚群)」や「鰐の口(サメ)」もいる、そんな怖いところです。そりゃあ、イヤです。

ですから、亀姫さまの誘惑は「蓬莱山に行きましょ」です。不死が約束されているパラダイス、仙郷です。

「行きます!行きます!」と浦島がいえば、またもや、ほわーんと眠らされて、気がつけばそこは大きな島、蓬莱山。

と、まずはここまでを見直しておきましょう。

浦島太郎の物語で積極的なのは亀姫の方です。しかも、二度も相手を眠らせて(睡眠薬を使ったかどうかはわからないけど)、自分の思うようにしてしまう。逆ナン。ストーカーといってもいいかも知れない。

シンデレラや白雪姫とは全然違います。

▼ちょっとエッチな浦島

さて、亀姫と一緒に蓬莱山に行った浦島は、スバル童子や亀姫のお父さん・お母さんにご挨拶をして、ご馳走をいただきます。そこには亀姫だけでなく、キレイなおねえさんたちがたくさんいて、お酌をしてくれたり、お給仕をしてくれたり、舞を舞ってくれたりします。

ところが夜が更けるにつれ、ひとりいなくなり、ふたりいなくなり、とうとう亀姫と浦島だけになってしまうのです。

アヤシイでしょ。

そう。そして、ご想像の通り、コトが始まるのです。

「肩を双べ、袖を接(つら)ね、夫婦之理を成しき」と書かれます。「夫婦之理」は「みとのまぐはひ」と訓じられ、イザナギとイザナミの性行為が、やはりこういわれます。

「あれ、鯛やひらめは?」

そんな細かいことは気にしなくてもいいの!

…なんてことはいいません。実は、これ大事なのです。

平安時代の『続浦島子伝記』によると、ふたりの夜のコトは次のように書かれています。
玉體を撫で纖腰を動かし、燕婉を述べ綢繆を盡くす。魚比目の興、鸞同心の遊。舒卷の形、偃伏の勢(撫玉體、動纖腰、述燕婉、盡綢繆。魚比目之興、鸞同心之遊。舒卷之形、偃伏之勢)。

ここに「魚比目」という語が出てくることに注意しましょう。これがおそらく「鯛やひらめ」の元ですね。で、これは何かというと、実は『医心房』という本に出てくる「体位」なのです。

どんな体位かというのは、良い子が読む可能性もあるので略しますが、「すべすべの体を撫で回し、細い腰を動かし、さまざまな睦言をいいながら手足をからませ(玉體を撫で纖腰を動かし、燕婉を述べ綢繆を盡くし)」、以下、「魚比目」ほかのさまざまな体位でいたしました…という文です。

こんな風に、現代の浦島と全然違う昔の浦島ですが、ラストシーンもちょっと違うのですが、今回はそこは省略します。

▼処女性はどうでもいい

さて…というわけで『古事記』のヒーローの相手の女性たちだけでなく、乙姫さまならぬ亀姫さまもシンデレラ・コンプレックスに無縁どころか、自分から男をゲットしに行くという積極性を見せるのです。

「あれ、処女性の話はどこに行ったの?」

あ、話がどんどん離れていってしまいました(寺子屋もよくこうなります)が、僕は古代の日本においては「処女性」ってどうでもよかったんじゃないかなと思うので、もう処女性の話なんかもどうでもいいと思っているのですが、そうもいかねいので一応書きますね。

たとえば処女を示すと思われる古代語に「未通女(をとめ)」という語があります。「未通」だなんて、まさに処女そのものの言葉ですね。

でも、注意したいのは和語(日本語)の「をとめ」は「若い女性」という意味で、これには「未通」か「既通」かなんて区別はありません(ちなみに、何歳までが若いなんていうのもない)。

で、これに漢字を当てたのが「未通女」なのですが、でもこの語は『古事記』にも『日本書紀』にも現れない、『万葉集』独特の用字なのです。

『万葉集』で「未通女」として使われるときは、神に仕える女性であることが多く、だから神に仕える女性は処女でなければいけなかったんだという説もあるのですが、しかし高橋蟲麻呂家集で「未通女」は次ような使われ方もされています。

鷲の住む 筑波の山の 裳羽服津(もはきつ)の その津の上に、率(あども)ひて 未通女(をとめ)壮士(をとこ)の 徃き集ひ かがふ嬥歌(かがひ)に 他妻(ひとづま)に 吾も交はらむ 吾が妻に 他(ひと)も言(こと)問へ…

鷲住、筑波乃山之、裳羽服津乃、其津乃上尓、率而、未通女壮士之、徃集、加賀布嬥歌尓、他妻尓、吾毛交牟、吾妻尓、他毛言問…


これは嬥歌(かがひ)、すなわち歌垣の歌です。男女が筑波山に登って、歌を歌いかけ、やがて男女の交歓となる。

「未通女(をとめ)壮士(をとこ)の徃き集ひ」と書いてあるので、参加条件は「処女」と「童貞」だけかと思いきや、「俺も人妻と交わるぞ(他妻に吾も交はらむ)。俺の妻に他人も言い寄れ(吾が妻に他も言問へ)」と言っていることから、人妻も人夫(「にんぷ」じゃないよ:ひとおっと)も参加していた。

参加者はいわゆる「処女」「童貞」だけではなかった。

となると「未通女」というのは、ただ「若い女」を意味していたようで(繰り返しますが年齢制限もない)、処女かどうかなどはどうでもよかったのではないかと思うのです。

ちなみに『古事記』の中で、ニニギ命が新婚の木花咲耶(コノハナサクヤ)姫がすぐに妊娠したので「まさかお前」と疑うのですが、それもその子が自分の子かどうかを疑ったのであり、彼女が処女だったかどうかではありませんでした。

…まだまだ続く 

能『羽衣』って実は不思議(3)シンデレラと天女

能『羽衣』についての続きです。

▼能『羽衣』は「白鳥処女説話」としても異例

前に能『羽衣』は「白鳥処女説話」の類型だ、という ことを書きました。

「白鳥処女説話」というのは…

(1)処女となって地上に降りた白鳥が、

(2)その衣を人間の男に取られてしまう

…という説話で、その白鳥は聖なる存在であることが多く、そういう意味では能『羽衣』は、確かに「白鳥処女伝説」のひとつの類型だということができます。

ただ、「白鳥処女説話」には、もうひとつ大きな特徴があります。それは…

(3)乙女と化した白鳥は男と結婚をする

…というものです。

白鳥は処女であることの象徴であり、男と結婚することによって「処女」性を捨てて「母」になるのです。

で、これは能『羽衣』以外の日本各地に残る「羽衣伝説」もみなそうで、結婚もせずに(すなわち処女性を奪わず)衣を返して別れてしまうというのは、「白鳥処女説話」としても、「羽衣伝説」としてもかなり異例なのです。 

▼処女喪失説話

これは、そのような羽衣伝説があったというよりも、能の作者がそのように変えたと見られています。

「白鳥処女説話」の特徴である乙女の処女性喪失というのは、「白鳥処女説話」に限る話ではなく、『シンデレラ』だって、『白雪姫』だって、『眠れる森の美女』だって、『ラプンツェル』だって、みんな王子様がやって来て結婚をするのですから、ある意味、これらをまとめて「処女性喪失説話」ということができます。

余談ですが、処女喪失という点から見ると『ラプンツェル』は、『シンデレラ』や『白雪姫』や『眠れる森の美女』とはちょっと違うところがあります。

『ラプンツェル』以外の物語では(諸本による異同はありますが)、結婚式や披露宴で終わることが多いのですが(すなわち処女喪失が暗示されて終わる)、『ラプンツェル』だけは王子様が塔に上った日にすでにセックスはすませているのです。

しかも「喜びと性的悦楽(joy and pleasure)」のうちにです(本当はドイツ語ですが英訳です)。

ちなみに、この表現は後代の訳本では、もっとやんわりした表現になっています。両訳を対照させたHPです。

http://www.pitt.edu/~dash/grimm012a.html

▼日本の女性は強い!

話を戻しますね。

さて、こうやっていろいろな童話のタイトルを並べてみると、「あれ?」と思うことがあります。

日本の昔話、たとえば「かぐや姫(『竹取物語』)」はどうなんだっけ?

そうなんです。かぐや姫は、天皇をはじめ多くの貴公子に求婚はされますが、最終的には誰のものにもならない。すなわち処女のまま月の世界に旅立ってしまいます。

かぐや姫も、天の羽衣の天人も男のものにはならない。

「だからナンなんだ」といわれればそれまでですが、これって面白いと思うのです。

西洋の童話の中の女性には、処女性と引き換えに男性(王子様)に助けてもらうというパターンがあるようですが、しかしそれは童話の中にとどまらず、「いつか私の王子様(Someday my prince will come)」の「シンデレラ・コンプレックス」として現実の中にもあるようです。

それに対して日本の物語はどうか…ということで日本"神話"英雄譚を見てみると…

あ、神話に「” ”」をつけたのは、厳密な意味では日本には神話というものがないからです。この話をしていくと長くなるので”神話”としてスルーさせてください。

さて、そんなわけで日本の古代の物語の例として日本”神話”を見てみようと思います。

日本”神話”で英雄といわれている人は主に次の3人です(このほかにもいますが典型的な3人を。神武天皇についてもちょっと…)。

  • スサノオ命
  • 大国主命
  • ヤマトタケル命

この3人の事跡の中で、西洋風の童話に近いのは、スサノオヤマタノオロチを退治する見返りとして、クシナダ姫をゲットするエピソードです。

しかし、これだって泣いているのは国つ神の両親だし、クシナダ姫は「私を助けて」なんて一度も言ってない。いやいや、両親だって、スサノオが「娘をくれ」といったときに、最初は「お前、だれや」なんて言ってる。

大国主命やヤマトタケル命に至っては、女性は彼らに助けられる存在ではなく、むしろ彼らを「助ける存在」としての女性として登場します。スサノオのお姉さんの天照大神なんて、日本の最高神の一柱だし、男装して戦ったりして、そりゃあ強い。

強い人に守ってもらいたい、救い出してもらいたいなんていう西洋の童話に登場する「シンデレラ・コンプレックス」丸出しの女性は、古代の日本の女性像ではないのです。

※この話、続きます

▼天籟能、いよいよ近づいて来ました。

8月7日(日)です。

お待ちしておりま〜す!今回は会場が広いので、お席もありますし、当日券もあります。詳細はこちらで〜。

http://watowa.blog.jp/archives/51460046.html  

能『羽衣』って実は不思議(2)怪しいワキ

能『羽衣』の不思議、第二弾です。

▼幻覚漁師、伯龍

前回の最後に、漁師「伯龍(はくりょう)」の名前について書きました。

「伯龍」というのは、龍を飼う一族の名前ではないか…と。

で、その最後にこんなことを書きました。
考えてみたら、ほかの漁師たちには見つけられなかった(というより、おそらくは見えもしなかった)羽衣を見つけることができたり、大口というすごい装束を着たり(今回は着流しでするかも)、このワキのただもの感はハンパないのです。  

そう、能『羽衣』の最重要アイテムである「天の羽衣」は、ほかの漁師には見えず、この漁師だけに見えたのです。

さらにその登場の際に漁師はこんな不思議なことを言っています。

我、三保の松原にあがり、四方(よも)の景色を眺むるところに
虚空に花降り
音楽聞こえ
霊香(れいきょう=霊妙なる香り)四方に薫ず 
三保の松原に出てみたところ、空中から花が降ってきて、しかも音楽も聞こえ、さらには妙なる香りも四方に漂ったとあるのです。

それを不思議に思った伯龍(はくりょう:漁師)がふと松を見ると、そこには衣がかかっていて、それが天の羽衣だったのですが、この衣を伯龍以外が見つかられなかったということは、ほかの漁師には、空中から降り下る花も、虚空から聞こえる音楽も、そして四方に薫ずる霊妙な香りも感じなかったに違いないのです。

まあ考えてみれば、「空中からの花吹雪」やら「虚空からの音楽」やら「霊妙な香り」やらを見たり、聞いたり、嗅いだりする方が変かも知れません。

現代だったら、これらはすべて幻視、幻聴、そして幻嗅として片付けられてしまうでしょう。しかし、これらを感じることができる、それが漁師、伯龍のすごいところであり、そしてそれこそ能の目指すところでもあるのです。

▼もうひとつの「目」

1969年にチャールズ・タートが『Altered state of consciousness』という本を出しました(和訳は出なかった)。日本語に訳せば『変性意識状態』。

『変性意識状態』というと、いわゆるトランス状態をいうことが多いのですが、しかしタートの本を読むと、そういうアブない話だけでなく、いま自分たちが思い込んでいる「意識」や「感覚」以外にもさまざまな、可能性としての「意識」や「感覚」があるんだなぁと思ったりします(もちろん危ない話も出てきますが:笑)。

たとえば、僕たちは何かを「見る」ときには角膜とか水晶体とか網膜とか、そういう器官を使います。ざっくりいえば「目」を使ってみます。

でも、夢を見るときに「目」という器官を使って見る人はいません。でも、ちゃんと見ている。

…となると「目」以外で「見る」ということも可能だということになります。

同じように「聞く」も「嗅ぐ」も、そして「触れる」もです。

僕の見た「夢」の話が本当かどうかは、他の人には絶対にわからないように(そして他の人には、それが本当かどうかの証明ができなくても、それでもやはり自分にとっては本当であるように)、漁師、伯龍にしか見えなかった「空中からの花」や「天の羽衣」、伯龍にしか聞こえなかった「虚空の音楽」、伯龍しか嗅ぐことができなかった「霊妙な香り」も「実在」であり、かつほかの漁師にとっては「非在」でもあるのです。

…となると「実在」と「非在」の違いって何なのでしょう。

▼ポケモンGOと能

能を大成した世阿弥は、天照大神が天の岩戸に隠れてしまった状態を「言語を絶して、心行所滅」と表現しました。

「言語を絶して、心行所滅」とは、あらゆる感覚や差異がなくなって、心の働きも、身体的な運動もすべてが滅した状態です。岩戸の闇は、視覚的な闇であることに留まらず、あらゆる感覚・思考・感情など、すべてが滅する完全な闇なのです。

ジョン・C・リリーの感覚遮断実験を思い出す人もいるでしょう。そういえば、『アルタード・ステイツ』という不思議な映画もありました。

そんな状態では、「実在」と「非在」の違いはない。

デカルトは「我思う、ゆえに我あり」と言いましたが、「心」も滅しているわけですから「思い」もなくなる。だから「我」もない。

おお…。

でも、逆にいえば、そこは何でも出現し得る世界。何でもあり得る世界。そこにないものも出現し得る世界でもあるのです(アメノウヅメ命の舞とか)。

それは「現実」のちょっと横にある、もうひとつの次元の世界なのかも知れません。そこに伯龍はふと迷い込んでしまった(芭蕉の旅もそうです)。

そうそう、「ポケモンGO」が流行り始めましたね。あの地図を見ていると、いま自分がいるところでありながら、まったく違う世界にいるように錯覚をしてしまいます。さらにそこにポケモンが出て来る。

あのようなものを「AR(拡張現実)」といいます。ARのAは「拡張された(augumented)」のAですが、それこそ「別の可能性(alternative)」のAかも知れないな〜、なんて思います。可能性体としての、もうひとつの世界です。

▼「脳内AR」

…と話がちょっと飛んでしまいましが、僕はこの「幻覚を見る」というのは伯龍の役割だけでなく、「能を観る」ということはそういうことなのではないかと思うのです。

野上豊一郎は「ワキは観客の代表だ」と言いましたが、観客も代表であるワキとともに幻覚を楽しむのが能ではないかと思っています。

能の舞台の上に、世界を再現するような大道具を設置しないことも、照明を使わないことも、効果音を使わないことも、すべて観客の幻覚を期待している。

ワキとともに花を見、音楽を聞き、香りを聞く。三保の松原の波の音を聞き、天に昇る天女を幻視する。それが能の楽しみ方なのです。実際にそのように楽しまれている方もいらっしゃるようです。

「え〜、そんなのできるわけないじゃん」という方。

実は"日本人"(←括弧付)は、この幻視がとても得意な人たちなのです。

子どもの頃、そろばん教室で暗算をした人は思い出してください。読み上げられる数字を、空中のそろばんに足していき、そして最後はその空中のそろばんを見て答えを言ったではありませんか。

お寺でワークショップをしたときに「障子の桟があると、そろばんのようでやりやすいです」とある小学生が言っていました。

障子の桟という「現実」の上に、そろばんの珠という「幻」を重ねる。まさに「AR」です。

ぜひ、みなさまもシンプルな能舞台という「現実」の上に、漁師とともに三保の松原の景色や松籟という「幻」を楽しみ、あるいは中天高く上っていく天女とともに空中遊覧すらをも楽しむ、そんな能の楽しみ方ができるようになってください。

「脳内AR」、それこそ能の楽しみ方です! 

▼天籟能、いよいよ近づいて来ました。

8月7日(日)です。

お待ちしておりま〜す!今回は会場が広いので、お席もありますし、当日券もあります。詳細はこちらで〜。

http://watowa.blog.jp/archives/51460046.html 

能『羽衣』影絵ストーリー

能『羽衣』の物語です。
 
ワキ持ち帰る02
ある春の朝、三保の松原の漁師、「伯龍(はくりょう)」が浜に出ると、空からは花が降り、音楽が聞こえ、妙なる香りが四方に漂っていた。不思議に思った伯龍が松を見ると美しい衣がかかっていた。「家宝にしよう」と伯龍は、その衣を取って帰ろうとする。
 
シテ呼びかけ
…とそこに呼びかける美女が。「その衣は天人の羽衣。人に与えるものではない」という天女に、「それならなおさら返せない。これは国の宝にしよう」という伯龍。

掛け合い02
「その衣がないと空を飛ぶこともできず、天に帰ることもできない」と嘆く天女。「なら地上に住めばいいじゃないか」という伯龍。そのやり取りの中で、天人の頭の華がしおれはじめ、天人自身も忽然と衰えていくのです。
 
衣を返す03
その嘆きを見て、かわいそうに思った漁師は衣を返すことにするが、その代わりに「天人の舞楽」を舞ってくれと頼む。「衣がなくては舞えない」という天女に、漁師は「衣を返したら舞わずに天に帰ってしまうのではないか」と疑う。すると天女は「いや疑いは人間にあり。天に偽りなきものを」という。我が身を恥じた漁師は、衣を返す。

シテ装束を着る青空
衣を身にまとった天人は、この三保の松原や富士の景色は月の都にも劣らないと謡いつつ舞い、東遊びの駿河舞を授ける。

七宝充満02
そして、報恩の舞を舞ったあと、「あらゆる願いが叶い、そして国土も豊かになるように」と、七宝充満の宝を降らしつつ、月の都に昇って行った。

※『羽衣』と『真田』が上演される8月7日(日)の「天籟(てんらい)」能の会。お待ちしております。

天籟能の会のおしらせ→http://watowa.blog.jp/archives/51460046.html  

能『羽衣』って実は不思議(1)


シテ装束を着る青空能『羽衣』は、能の中の能といわれている名作です。

「もし、この世の中に一曲だけ能を残すとしたらどれにするか」というアンケートを、能の雑誌で取ったことがあったのですが、その時も堂々の一位!

そのくらいの名曲です。

ところが、この『羽衣』、なかなか不思議なことがいっぱいあるのです。それをこれからお話してみたいと思うのですが、まずは物語を簡単に紹介しておきましょう(ご存知の方は飛ばしてください)。

ある春の朝、漁師「伯龍(はくりょう)」が浜に出ると美しい衣が松にかかっていた。取って帰ろうとすると天女に呼び止められ、「それは天人の羽衣、人間に与えるべきものではない」といわれる。

漁師が「天人の羽衣ならば、なおさら返すことはできない」というと、天女はみるみる衰え始める。かわいそうに思った漁師は衣を返すことにするが、その代わりに「天人の舞楽」を舞ってくれと頼む。衣がなくては舞えないという天女に、漁師は「衣を返したら舞わずに天に帰ってしまうのではないか」と疑う。

すると天女は「いや疑いは人間にあり。天に偽りなきものを」という。我が身を恥じた漁師が衣を返せば、天女は約束の舞を舞いつつ天上に帰っていく。

▼白鳥処女説話
 
人気の理由は、まずはその舞姿が美しいことでしょう。さすが天人の舞です。今回の天籟能でシテ(天人)をお勤めいただく梅若万三郎先生は、本当に美しいので、お楽しみに。

そして、そのテーマが普遍的だということも人気の理由のひとつです。

能『羽衣』は駿河国(静岡県)の三保の松原でのお話ですが、羽衣伝説は三保の松原だけでなく、『風土記』をはじめとして、さまざまな伝説が日本各地に残っています。ただ、多くの羽衣伝説では、天女は男と結婚をして、後年、どこかに行ってしまうのですが…。

また、「白鳥処女説話」という物語類型があります。白鳥が処女(おとめ)に化して地上に降り立ち、人間の男と結婚をするというものです。これって羽衣伝説に似ているでしょ。

そうなると羽衣伝説は「白鳥処女説話」として世界的に普遍な物語と見ることもできるのです(古い話ですがザ・タイガースの『花の首飾り』もこの類型ですし、『白鳥の湖』もこの類型の変形ですね)。

羽衣のお話は、日本だけでなく世界にも通用する普遍的な話なのです。 

▼天(あま)の羽衣とかぐや姫

この作品における最重要アイテムはなんといっても「天(あま)の羽衣」です。

松にかかっていた天の羽衣を、漁師(伯龍)が取ってしまうのですが、このアイテムがなかなか怪しい。

能の中では、羽衣は空を飛ぶためのツールとして紹介されています(「羽衣なくては飛行(ひぎょう)の道も絶え」)が、そんな単純なものではありません。

天の羽衣が日本の文学に最初に登場するのは『竹取物語』、かぐや姫のお話です。

まずは原文を紹介しますが、古文を読むのが苦手な方は無視してかまいません。

天人の中に持たせたる箱あり。天の羽衣入れり。またあるは不死の薬入れり。

ひとりの天人言ふ、「壺(つぼ)なる御薬奉れ。きたなき所のもの聞こし召したれば、御心地悪しからむものぞ」とて持て寄りたれば、わづかなめたまひて、少し形見とて脱ぎおく衣(きぬ)に包まむとすれば、ある天人包ませず、御衣(みぞ)を取りいでて着せむとす。その時に、かぐや姫「しばし待て」と言ふ。

「衣着せつる人は、心異になるなりといふ。もの一こと言ひおくべきことありけり」と言ひて、文(ふみ)書く。
『竹取物語』より

かぐや姫を迎えに来た月の使者が「天人」と呼ばれていることに、まずは注目してみましょう。

…となると、能『羽衣』の天人も、月の使者かも知れません。 

で、その天人が持っている箱の中天の羽衣が入っています(もうひとつは「不死の薬」。こちらも気になるけど今回はパス)。

使者は、かぐや姫に天の羽衣を着せようとしますが、かぐや姫は「しばし待て(ちょっと待って)」という。なぜならば、「羽衣を着てしまった人は、<心異(こころこと)>になってしまうから」というのです。「だから、その前にひとこと言いおくことがあります」と手紙を書きます。

となると「<心異(こころこと)>になる」ということは、今までのことを全て忘れてしまうということになります。「天の羽衣=忘却の衣」、すごいですね。実際にはどんな状態になってしまうのでしょう。

ということで、『竹取物語』の続きも見てみましょう。

ふと天の羽衣うち着せ奉りつれば、翁をいとほしく、かなしとおぼしつることも失せぬ。この衣着つる人は、もの思ひなくなりにければ、車に乗りて、百人ばかり天人具して上りぬ。
おお!天の羽衣を着た人は、すべてを忘れるだけでなく、「もの思ひ」そのものがなくなってしまうようです。

あんなに大切に育ててくれたおじいさんが嘆き悲しむのを見ても「いとおしい」という気持ちも「お気の毒」という気持ちも、きれいさっぱり消滅してしまう。そんな力を持つのが天の羽衣のようです。

<心異(こころこと)>になる」というのは、人間的な心がなくなってしまうことなのです。

「ひどい!」

なんて思わないでください。かぐや姫も、そして天人も、もともと人間ではない。だから人間的な心など、最初からないのです。

…というか、「心」というのは生得的なものではなく、どうも後天的に身に着けるもののようです。だから「心」がないからといって、かぐや姫や『羽衣』の天人を責めないでね。

余談ですが、漢字の「心」が生まれるのは最初の漢字の発生から300年も経ってからのこと。シュメール語にも純粋な意味での「心」に当たる言葉はありません。また、ヘレン・ケラーの自伝には、文字を知るまでの彼女には「悲しみ」という感情がなかったということが書かれています。

心がなければ悲しみもない。後悔もない。同情もない。

そして疑いも偽りもない。

だからこそ能『羽衣』の中で、「衣を返したら舞わずに天に帰ってしうまんじゃないの」と疑う漁師に対して、天人は
「いや、疑いは人間にあり。天に偽りなきものを」
…というのです。天女は、漁師の疑いが全然理解できなかった。「え、それ何?」って感じだったのです。

これは『鶴の恩返し』の中で、お金の話をされたときに、つうが「あなたの言っていることが聞こえない」というのに似ています。

そういえば、『かぐや姫』も『鶴の恩返し』も「白鳥処女説話」の類型ですね。

▼大嘗祭の天の羽衣
 
天の羽衣といえば、もうひとつ思い出すのは大嘗祭(だいじょうさい)において天皇陛下の着する「天の羽衣」。

天皇が即位した最初の新嘗祭である大嘗祭は、前の天皇の「天皇霊」を新しい天皇に移し奉る実質的な践祚(せんそ)の儀礼ともいわれています。

大嘗祭のメインの儀礼は「嘗殿の儀」と呼ばれますが、その前の「湯殿の儀(沐浴)」で天皇が着する衣が「天の羽衣」なのです。

折口信夫は、天の羽衣は、天皇が霊力を溜めて身に留めるために着用するといいますが、天の羽衣の基本機能である「過去を忘れる」ということを考えれば、人間(皇太子)としての過去を忘却する、すなわち一度まっさらな状態になって天皇霊を身に着けて天皇となるための衣だと見ることもできます。

忘却の衣である天の羽衣を身につけ、湯殿に入ることによって、すべてを水に流してリセットする。

天の羽衣、なかなかすごい。

▼月にもインドにも

天の羽衣は、能『富士山』の詞章にも出てきます。

能『富士山』でも、かぐや姫の話が語られ、かぐや姫は不死の薬を天皇に与え、自身は天の羽衣を召して神になったと謡われます。その後、帝はかぐや姫の教えにしたがって、富士の山頂で不死の薬を焼くと、煙は空いっぱいに立ち上り、雲や霞が逆風を受けて香ばしく薫り、日や月や星もまるで光が変わったとあります。

そして、富士山はなんと天竺(インド)から飛んで来た山だ、というびっくりするように新説までもが語られ、富士はそのまま天竺という秘義が明かされるのです。

富士山は、月への中継基地でもあり、天竺への中継基地でもある。

そして、富士山から月や天竺にワープするには「天の羽衣」が必須なのです。

▼ワキ、伯龍の不思議

さて、能『羽衣』のワキについてもひとこと…。

このワキには名があります。

…って、「当たり前じゃん」と思う方もいらっしゃるでしょうが、能のワキは「無名(anonymous)」であることが多く、しかもこのワキは漁師、そんなワキが名を持つというのは異例も異例、異例中の異例、大異例なのです。

しかも、その名前がすごい。

はくりょう」といいます。漢字の表記には二種類あります。

観世流では「白龍」と表記し、当流(下掛宝生流)では「伯龍」と書きます。両方とも「龍」がつく。漁師なのに…。

観世流の「白龍」は、宮崎アニメに出てきそうで、それはそれで素敵なのですが、当流の表記「伯龍」となると、さらにいろいろと妄想が膨らみます。

「伯」という漢字は、現代では「伯父さん」というときくらいにしか使いませんが、もともとは「ボス(首長)」を意味する漢字です。なぜ「伯」がボスを意味するのか。ワキの話からはちょっとそれますが、それについてお話をしておきましょう。

紀元前には、まだ「伯」という漢字はなく、「白」がその意味を表しました(ですから本当は「白龍」でも「伯龍」でも同じなのです)。

「白」は、「しろ」ですね。なぜ「しろ」がボスを意味するのか。これも2説あります。

この2説を紹介する前に紀元前1,000年くらいの「白」の文字を紹介しておきましょう。こんな形です。

白



さて、この形を踏まえて…

1つ目は、これは親指の「爪」の形だという説です。親指の爪を見てみてください。ね、こんな形してるでしょ。で、「ボス!」っていうときに親指を出したりします。親指の形がボスをあらわすようになったというのが第1説。

2つ目の説は、いやいや、そんなかわいいものじゃない。これは人の頭蓋骨だという説です。首長たちの首を頭蓋骨として保存したり、あるいは敵のボスの首も白骨にしたといいます。

ちなみに、その頭蓋骨を木の上に乗せて打つという形が「樂(楽)」、音楽のことです。古代中国における音楽というのは、先祖や敵の英雄の頭蓋骨に皮を張って打ち、その霊を招くためのものだったようです。

これが「楽」の古い漢字です。

楽



▼龍を飼う人

話が横道に逸れたので戻します。

まずは「白(伯)」はボスという意味でした。

では、「伯龍」は龍の中のボスかというと、彼は龍ではなく漁師なので、それはちょっと違います。

ここで思い出したいのが「伯楽」という言葉です。

人を育てることを上手な人を「名伯楽」といったりします。「伯楽」というのは馬使い、馬を育てる人です。

…となると「伯龍」は「龍使い」、龍を育てる人という意味になるでしょう。

「え〜、龍なんて、ただの想像上の動物なんじゃないの」

いえ、いえ。古代中国には龍使いはいました。たとえば漢帝国を創った劉邦(りゅうほう)の祖先である劉累(りゅうるい)は、自分が飼っていた龍の肉を食べたということで罰せられています。

唐の韓愈が『雑説』の中で次のような文を書いています。

「まず、この世の中に伯楽がいて、それから千里を走るような名馬が生まれる。千里の馬というのはどこにでもいるが、伯楽はそうそういない(世に伯樂あり、然る後千里の馬あり。千里の馬は常にあれども、伯樂は常にはあらず)」

伯楽ですらそんな貴重な存在だったのですから、伯龍(龍使い)=ワキなんてすごすぎきます。

考えてみたら、ほかの漁師たちには見つけられなかった(というより、おそらくは見えもしなかった)羽衣を見つけることができたり、大口というすごい装束を着たり(今回は着流しでするかも)、このワキのただもの感はハンパないのです。

※余談ですが、「伯」というのは「覇」にも通じます。伯王は覇王でもあるのです。

(続く…かも)

※『羽衣』と『真田』が上演される8月7日(日)の「天籟(てんらい)」能の会。お待ちしております。

天籟能の会のおしらせ→http://watowa.blog.jp/archives/51460046.html 

真田フォトストーリー

復曲能『真田』のストーリーです。

この能の舞台は石橋山(神奈川県)の戦い。平氏を倒すため、源氏が旗揚げしたての頃の話です。平家の滅亡の五年前、まだまだ平氏全盛の世です。圧倒的な力の差のある平氏を命をかけて食い止め、頼朝の危機を救った真田与一の物語です。

03<頼朝、岡崎に対手を選ぶよう命じる>
石橋山の合戦では、わずか300騎の頼朝勢に対し、平家はその十倍の3,000騎以上の軍勢。昼の戦いは、ようようのこと凌いだが、これから夜の戦いが始まる。最初に行われるのは一騎打ち。敵の先発は七十人力の俣野(またの)五郎と発表された。
源頼朝岡崎義実に、俣野の相手になる味方の先発を選べと下問するが、なかなか決めることができず、「これは戦いの手合わせ。大事な戦いなので、ぜひご下命を」と頼朝に申し上げる。
 
n02<真田与一、辞退する>
頼朝は、岡崎の子の真田与一に俣野の相手を任命するが、真田は「このような大事な戦いに不覚を取っては家の恥」と辞退し、「しかし、決して命を惜しむのではありません。その証拠に今宵の戦さでは、もっとも死の危険度の高い先駆けを勤めましょう」と申し上げる。
 
n03<岡崎、真田を咎める>
父、岡崎はそれを聞き「若いくせに君の命に背くとは何事だ。俣野といっても七十人力。お前もそれに劣ることはあるまい。いや、たとえ劣っていたとしても、敵の鎧に取り付いて敵を組み伏せ、その間に頼朝公をこの場から逃すのがお前の役目。逃すことができたならば、その死がお前の高名となるのだ」という。
 
n04<真田、副将軍を命ぜらる>
これを聞き、俣野の相手を引き受けた真田は、頼朝から装束をいただき、さらには副将軍に任命される。
 
n05<頼朝公よりの酌を受ける>
また、頼朝自らお酌をし、真田の武勲を祈る。
 
<親子の別れ>n06
これほどまでの頼朝の好意に感動する真田に、父、岡崎は「武勲を遂げて名を挙げよ」と励ますが、 これが最後の親子の別れ。涙をこらえてふたりは別れる。 

※ここまでが前半です。 
 
n07<文蔵も討ち死にの覚悟をする>
この戦いには、真田の傅(めのと)の文蔵も参戦していた。真田がまだ赤ん坊の頃から育てていた文蔵は、すでに57歳になる老武者。そんな文蔵に、真田は戦いには加わらず里に戻り、母と妻子の後事を頼むというが、文蔵はそれをよしとせず、自分も討ち死にしようと決心し、手下のものに後事を託す。
 
n10<文蔵の従者(間狂言)>
文蔵の従者を演じるのは狂言役者(能には狂言の役者も出演します。間<あい>狂言といいます)。彼は文蔵が真田を育てたさまを述べ、真田の妻への文蔵の言伝を伝えるためにこれから真田の里に参ろうという。と、そこに鬨(とき)の声が聞こえてきた。
 
n11<頼朝、夜の見回りを命じる>
時はすでに夜。雨風もしきり。頼朝は臣下を呼び、「この激しい雨風に敵の足音や馬のひづめの音も掻き消えてしまうだろう。あたりを見回せ」と命じる。
 
n12<松明で照らして見回りをする>
頼朝に命じられた臣下は、松明(たいまつ)を持ってあたりを見回す。
※舞台は明るいのですが、松明を持った人が出てきたら、「いまは夜で真っ暗」と思ってください。
 
nn01<俣野一行の登場>
そこにやって来た平家の俣野の一行。やはり松明を持っているので暗闇の中の登場です。
 
nn02nn03<切り組み>
nn04nn06
今夜の戦いは、本当は真田と俣野の一騎討ちから始まるはずだったのですが、雨風激しい夜に紛れて、飛び出してしまった武士がいる。ここから大混戦が始まってしまうのです。

ここからはしばらく切り組み(チャンバラ)を楽しんでください。 
直立のまま、そのまま後ろにドンと倒れる「仏倒れ」という倒れ方を見ることができるかも知れません(右下の写真)。
 
nn07<真田と俣野の一騎討ち>
混戦がひと段落して、いよいよ真田と俣野の一騎打ちが始まる。力自慢のふたりは太刀など捨て去ってむんずと組み合います。
 
nn08<ふたり、谷に落ちる>
崖での組み合い。「えいやと跳ぬれば、ころりと転び」、上になり、下になりつつ、遥か下の谷にふたりで落ちて行ってしまう。
 
nn09<真田、俣野を押さえるが…>
が、真田の方が力が勝っていた。俣野を取って押さえて、その首を討とうとする。が、腰の刀は血糊で鞘(さや)ごと抜けてしまい斬ることができない。俣野は、文蔵を大声で呼ぶ。
 
nn10<文蔵は耳が遠くて通りすぎてしまう>
しかし、文蔵は老武者、耳が遠い。文蔵はふたりがいるところがわからずに通り過ぎてしまいます。
 
nn11<長尾兄弟、真田を取り押さえる>
そのとき、俣野の臣下である長尾新五、新六の兄弟は、この声を聞きつけて谷に降り下り、ふたりで真田とむんずと組む。
 
nn12<真田、首を落とされてしまう>
真田は「ええ、ものものしい」と二人は投げ飛ばすが、起き上がった俣野と組み合っている隙に、長尾新六にその首を討たれてしまうのです。
 
nn13<文蔵、三人と出くわす>
老武者の文蔵が「真田はいづこに」とあちこちと馬を駈けまわしているところを俣野、長尾新五、新六の三人に見つけられる。
 
nn14<文蔵と三人の戦い>
文蔵に向かって「真田は討ったぞ」と俣野がいうと、文蔵は「おお、うれしき敵(かたき)よ」と、三人の間に討って入り、火を散らすが如くに戦うが、文蔵も頭を割られて討ち死にしてしまう。
 
nn16<七騎落ち>
頼朝は、真田と文蔵の討ち死にのさまを聞き、「与一のことは忘れぬ」と、七騎だけになった味方を率いて、ひとたびはこの場を落ち延びる(このときの話が能『七騎落』になります→当日の仕舞は『七騎落』です)。
 
nn17<真田の勲功を讃える>
その後、源氏が平氏を滅ぼすことができたのも、みな真田与一の功績と、この石橋山に真田を祀るのであった。

この『真田』は江戸時代には上演の記録がない作品です。8月7日(日)の天籟(てんらい)能@国立能楽堂では、おそらく400年ぶりの能舞台での上演です。

お見逃しなく!

『天籟能』のお知らせはこちらをどうぞ〜。
http://watowa.blog.jp/archives/51460046.html 

<おしらせ>
・復曲「真田」の謡本(詞章はもちろん、節や解説なども入っています)1000円
当日ロビーの檜書店で販売しています。

能楽寺子屋(2)舞その2:唱歌(2)干(かん)

▼天籟能、あと一ヶ月!

「能を観るのは初めて!」という方でも眠らずに観ることができ、

「もう何度も観ている」という方にはさらに深くご覧になれるような能の会を!

…とはじめた「天籟(てんらい)能」がいよいよ一ヶ月先の…
 
8月7日(土)国立能楽堂 13時開演(終演予定16:30)

…に迫りました。

今回の演目は、名曲中の名曲『羽衣』と、室町時代以降ほとんど上演されなかった『真田』です。

『羽衣』を舞われるのは、当代、舞の美しさでは右に出る人がいないといわれる梅若万三郎師です。一度は漁師に取られた羽衣を着た天女が、舞を舞いつつ天に昇っていくという能ならではの作品です。

また『真田』は、現代の能にはあまりない「切組(チャンバラ)」が舞台上でこれでもか、これでもかと繰り広げられる能です。

<静>の『羽衣』と<動>の『真田』、そして狂言は『萩大名』。

料金
正面指定S席 10,000円 
正面指定A席 8,000円 
脇正面指定 6,000円 
中正面自由席 4,000円 

※「てんらい会員」の方は1,000円引きになりますが、今回は何枚申し込まれても1,000円引きにさせていただきます。5枚申し込めば5,000円引きです。

天籟能の会事務局 tel:080-5520-1133 
e-mail:noh@watowa.net 
主催:天籟能の会/てんらい

お申し込み、お待ち申し上げております。

詳しくは「天籟(てんらい)能」 を!

▼まずは復習


さて、天籟(てんらい)能を、さらに楽しんでいただくために行っている寺子屋ですが、すでに3回が行われ、園様子を書いています。

前回、「中(ちゅう)之舞」の唱歌(しょうが)の最初の部分をご紹介して、「あとはご自分でどうぞ〜」だったのですが、ほかの部分もぜひ!というご要望をいただきましたので、残りの部分もご紹介します。

「中之舞」の唱歌の全体は以下のようになります。

オヒャーラーイ ホ(オ)ウホウヒー
オヒャイヒョー イヒャーリウヒー
オヒャラーリ ヒウーイヤー
ヒウルー イヒャーリウヒー

前にやったは最初のもの(オヒャーラーイ ホ(オ)ウホウヒー)です。

まずは最初のものの復習をしておきましょう。

オヒャーラーイ ホ(オ)ウホウヒー




▼3番目を謡う

今回はひとつ飛ばして3番目(オヒャラー ヒウーイヤー)を謡ってみましょう。

「オヒャーラー」までは一緒ですね。次の「」で音が上がります。では、どうぞ。



▼呂と干

実は、この四行の唱歌(しょうが)には名前があります。

一番最初のものは「呂(りょ)」。「呂」は「ろ」とも読みますが、低い音という意味です。

「オヒャーラー」で、音が下がって、下の句(ホウホウヒ)が低い音になるます。低い音を使うので「呂」という名前です。

そして、今日謡った3番目は「干(かん)」といいます。
 
我々は伝統的にこの字(干)を使っていますが、この「干」は甲高いの「カン」です。

「オヒャーラー」で音が上がり、後半(ヒウイヤ)では高い音をなびかせているので「干(かん)」といいます。

▼全体の名前

残りは次回にお話をしますが、全体は以下のように名前がついています。

中之舞唱歌



能楽寺子屋(1)舞その1:声に出して謡いたい唱歌(しょうが)

8月7日(日)に行われる「天籟(てんらい)能」を、とことん楽しむための「能楽寺子屋」を開催中です(1回〜3回は終了)。

第1回 5月24日(火) 「能と狂言を楽しむ」−能・狂言入門−
第2回 6月16日(木) 能「羽衣」の魅力(1)羽衣、ワキ、笛の秘密
第3回 6月28日(火) 復活能「真田」の魅力−シテ方をお迎えして−


第4回 7月12日(火) 能「羽衣」の魅力(2)囃子
第5回 7月19日(火) 能「羽衣」の魅力(3)月宮に昇る天女
第6回 7月27日(水) 公演直前まとめ−初めての方もぜひ− 

能楽寺子屋は広尾のお寺、東江寺(とうこうじ)さんで19時から開かれます(終了予定21時)。受講料は「お賽銭」ですので、どうぞお気楽にお出ましください。また飛び込みも歓迎ですが、資料作成の都合上、できれば事前にメールをいただけると助かります。

info@watowa.net

東江寺 東京都渋谷区広尾5-1- 2 →地図


すでに終了した第1回〜第3回の中から、いくつかのトピックをご紹介していきます。

まずは「舞」について。

▼舞(まい)で寝ちゃうのはもったいない

今回の「天籟能」の能の演目は『羽衣』『真田』

天(あま)の羽衣をまとった天女が優美な舞を舞いながら天上世界に昇っていくという、美しい能『羽衣』と、多くの演者が舞台狭しとチャンバラをする『真田』という対照的なふたつの演目をお送りします。

「舞」は、能『羽衣』のメインとなるものです。

松にかかっていた美しい衣、羽衣を漁師である伯龍(はくりょう)が拾います。それは「天人の羽衣」なので返してほしいという天女に、「そんな素晴らしいものならば余計に返せない」とつれない伯龍。返せ、返さないの問答の末、あまりに嘆く天女を見て、漁師伯龍もさすがにかわいそうになり羽衣を返すことにします。

しかし、交換条件がひとつあります。それはその羽衣をまとって天女の舞を見せてもらいたいということ。

まあ、ここでいろいろあるのですが、それは今度、お話することにして、天女は羽衣を着て舞うのです。

能では、この舞が最大の見どころです。

が、ひとつ問題が…。

舞が始まると謡(うたい)がなくなってしまうのです。すなわちコトバがない

「謡だって何をいっているか全然わからない」という人がいますが、それでも何もないよりはまし。能の笛である能管を中心に、大鼓、小鼓、太鼓によって囃され、その曲に乗って(か、乗らぬかそれすら不分明)ゆったりと舞われる舞。

もっとわけわかんなくなる。そりゃあ、眠くなるのも当たり前。

もっとも大事な部分の割りには、眠っている人が一番多いのも、この「舞」なのです。

でも、それはもったいない!

…というわけで、2回目と3回目に舞を楽しむための寺子屋をしました。

以下のお話は能楽師、笛方(森田流)の槻宅(つきたく)聡(さとし)さんのお話です。

▼まずは「中(ちゅう)之舞」を聞いてみよう

『羽衣』で舞われるのは「序之舞(じょのまい)」と呼ばれる舞です。このほかに「中(ちゅう)之舞」、「破(は)之舞」、「早舞」、「神舞」、「男舞」などがあります。

ちなみに能の舞には、このほかに「神楽(かぐら)」、「楽(がく)」、「鞨鼓(かっこ)」、「獅子(しし)」、「乱(みだれ)」などがありますが、これらのものと「序之舞」以下のものとの違いはわかりますか。

そうですね。前者にはみな、「舞」という言葉がついています。この「舞」がついているものは、みな非常に似通った構造をもっています。そして、これらの「舞」の基本は「中(ちゅう)之舞」なのです。

ということで、ここでは「中之舞」でお話をしていくことにしましょう。中之舞の構造を理解するとほかの舞も理解できるようになります。

では、まず 「中之舞」のほんの一部を聞いていただきます。



「いかがでしたか」

…と寺子屋で皆さんに尋ねると「・・・」という反応。

そうですね。反応のしようがありません。何を言ったらいいか、わからない…というか、何をやっているかわからない。

▼唱歌(しょうが)を謡ってみよう

実は私たちは、これをコトバで覚えます。それを「唱歌(しょうが)」といいます。

文部省「唱歌」のときには「しょうか」と発音しますが、能の笛では「しょうが」といいます。

では、その唱歌を謡ってみますね。



みなさん、まだよくわからない顔をしている(笑)

でも「ミニマル・ミュージックみたいだ」という声もありました。

▼一緒に謡います

「では、今度は皆さんとこれを一緒に謡ってみましょう!」

…といって全部を謡ったのですが、それを全部載せるのもナンなので、最初の部分だけを載せます。



…と寺子屋では、このように短く切りながら、「中之舞」の唱歌をみなさんと何度か繰り返して謡いました。

寺子屋には参加せずに、このページだけをご覧になられている方は、この前の「唱歌」の動画にあわせて何度か謡ってみてください

あ、覚えようとする必要はありません。

また、ひとりでするのは恥ずかしかったり、面倒だったりするので、そういう方はぜひ寺子屋に足をお運びください。

▼唱歌を謡ったあとに笛を聞くと


そんな風にして何度か謡ったあと、また中之舞を聞いてみます。



すると、あら不思議、最初は何がナンだかわからなかった能管が「オヒャーラー」と聞こえるようになるのです。

コトバ化され、分節化された音は、突然意味のあるものになるのです。

※分節の「分」の「わける」は「わかる」。分節化された途端に「わからない」ものが、「わかる」ものになるのです。

▼繰り返しと「知らせ」

能の中の舞では、これが何度も繰り返されます

ときどき「ヲロシ」などの特別なことが行われることがありますが、基本はこれが繰り返されると思ってください。

何度も繰り返すといいましたが、いまは「何回繰り返す」ということは決まっています。しかし、様式性がそれほど固まっていなかった時代には、気分によっていくらでも長く舞ったりすることができでしょうし、短くすることもできたようです。

じゃあ、繰り返しが終わるのは何でわかるかというと、舞っている人が扇や足拍子で「知らせ」というこをします。するとそこに「区切り」ができます。そして、「段」ができるのです。

「段」ができると、また分節ができ、さらに「わかる」ようになります。

が、これについてはまたお話をしましょう。

▼序之舞

いま、みなさんと謡ったのは「中之舞」ですが、『羽衣』で舞われるのは「序之舞」です。

「序之舞」は、最初に「序」という特別な足遣いがあります。これに関してはまた。

そして「中之舞」に比べると、ゆったりになります。お聞きください。



▼神舞

では、神様の舞である「神舞」もお聞きください。



この録音の中にも「おお」という声が(かすかに)入っていますが、これが終わったあと会場からは「おお!」「おお!」というどよめきが。

そう。こんなに早くても、基本はさっきの唱歌(しょうが)なのです。

さて、では、これにどんな動き(舞)がついていくのか。それは第3回目にシテ方観世流の加藤眞悟さんが教えてくださいましたが、それはまた今度。

▼天籟能、チケットまだまだあります


天籟能は来月の7日(8月7日)なのに、なんとチラシができたのが数日前。

…というわけで、お席も売り出したばかりなので、まだまだいいお席がございます。

どうぞお出ましください。
 
詳しくは「天籟(てんらい)能」 を!

第四回 天籟(てんらい)能

第四回天籟能

能をはじめてご覧になる方にもお楽しみいただき、そして能を何度もご覧になっている方にはより深い楽しみを!ということで始めました「天籟(てんらい)能」の会。今年は能の『羽衣』と『真田』、そして狂言『萩大名』でお楽しみいただきます。

『羽衣』は、一度は漁師に取られた羽衣を返してもらった天女が美しい舞を舞いながら天上(月世界)に帰っていくという名曲中の名曲。梅若万三郎師の美しい舞をご堪能いただきます。

『羽衣』のストーリーはこちらでどうぞ。→能『羽衣』の影絵ストーリー

『真田』は、一度は演じられなくなった能を復活させたもの(復曲)。なぜ演じられなくなったかというと「能らしくない」から。舞台ところ狭しと何人もの演者が刀で戦いまくるのです。

『真田』のストーリーはこちでどうぞ。→能『真田』のフォトストーリー
nn09





優雅な『羽衣』と、豪壮な『真田』。対極にある二曲をお楽しみいただきます。

そして狂言は秋の名曲『萩大名』。和歌が覚えられない大名と、それを何とか教えようとする太郎冠者。上品な笑いの名曲です。

また、天籟能の会をさらに楽しむためのワークショップも開催しております。参加費はお賽銭。どの回から参加しても大丈夫。ぜひ、お出ましください。

***ワークショップ***

会場:東江寺(広尾)東京都渋谷区広尾5-1- 21→地図
※広尾商店街をまっすぐに来ると山門があります。山門には違うお寺の名前が書いてありますが、気にせず入っていただき、右側をご覧になると「東江寺(とうこうじ)」さんがございます。
時間:19時〜21時 受講料はお賽銭
飛び込みも歓迎ですが、参加お決まりの方は info@watowa.net にメールをいただければと存じます。

第1回 5月24日(火) 「能と狂言を楽しむ」−能・狂言入門−
第2回 6月16日(木) 能「羽衣」の魅力(1)羽衣、ワキ、笛の秘密
第3回 6月28日(火) 復活能「真田」の魅力−シテ方をお迎えして−
第4回 7月12日(火) 能「羽衣」の魅力(2)囃子
第5回 7月19日(火) 能「羽衣」の魅力(3)月宮に昇る天女
第6回 7月27日(水) 公演直前まとめ−初めての方もぜひ− 

◆◆◆天籟能◆◆

2016年8月7日(日)12時開場 13時開演
於 国立能楽堂(千駄ヶ谷)


能『羽衣 和合之舞』(観世流)

シテ 天 人 梅若万三郎 
ワキ 漁師伯龍 安田 登
笛 槻宅 聡
小鼓 幸 信吾
大鼓 柿原 弘和
太鼓 徳田 宗久
後見 中村 裕 梅若雅一

地謡 青木健一 遠田 修
梅若久紀 青木一郎
坂真太郎 梅若万佐晴
永島 充 八田達弥


狂言『萩大名』(和泉流)

シテ 大 名 奥津健太郎
アド 太郎冠者 奥津健一郎
弐アド庭の亭主 野口 隆行
後見 伊藤 泰

解説 石橋山合戦の能 番外曲「真田」 
伊海孝充(法政大学文学部准教授)

仕舞『七騎落』梅若万佐晴

復曲能『真田』(観世流)

シテ 真田与一 加藤眞悟
ツレ 源 頼朝 梅若泰志
ツレ 岡崎義実 伊藤嘉章
ツレ 臣 下 古室知也
ツレ 文蔵家安 長谷川晴彦
ツレ 俣野郎等 梅若久紀
ツレ 俣野郎等 青木健一
ワキ 俣野五郎 安田 登
ワキツレ長尾新五 吉田祐一
ワキツレ長尾新六 高橋正光
間 与一ノ従者 矍畦寛

笛 槻宅聡
小鼓 飯冨孔明
大鼓 大倉慶乃助
後見 梅若万佐晴 中村 裕

地謡 坂真太郎 八田達弥
永島 充 青木一郎
梅若雅一 中所宜夫      終演予定 16:30ごろ

<チケット料金>
正面S席 10,000円(全席指定)
正面A席  8,000円(全席指定)
脇正面席  6,000円(全席指定)
中正面   4,000円(全席自由
※てんらい会員および学生は全席1,000円引き

お申し込み、お問い合わせは
天籟(てんらい)能の会事務局にお願いいたします。
email:noh@watowa.net
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あるいは「こくちーず」からでもお申し込みいただけます。
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